かけら
二
火影は、カカシの症状を知っているに違いない。あの日、イルカが始めてカカシに会った日にいろいろ、含みのあることを言っていたのはこのことが原因なのだろう。そして、自分に心配をかけさせたくないためかどうかは判らないが、カカシの記憶障害のことをイルカには伝えなかった。
きっと、隠したいことなのだろう。
ならば、この件はきっと火影に尋ねてもまともな回答が得られないに違いない。もし知ろうとするならば、この里で培ってきた忍びの能力を発揮させるわけになるわけだが、かといって故意に伏せられたらしき上忍の私事を暴いてもいいのだろうか、とイルカは思う。
しかし、今はナルトとサスケを預けているのだ。
例え火影が任命したとはいえ、そんな問題の有る人に大切な子供達を任せておくわけにはいかない。
昼食を終え、柔らかい日差しが作る、穏やかな木陰でのんびりと虚空を見つめながら、取りとめもなく考える。太い木の幹に体を預けて、ぼんやりと、気持ちが良かった。
アカデミーは普段、午前中は知識を補うデスクでの授業、午後は実習になる。午後の実習は時折夜に行ったりするが、今日は普段どおりに、昼食後の枠に組み込まれている。
昼休みからグラウンドに出て遊んでる子供達を傍目に、イルカの昼休みは子供達より長い。
そうだ、子供達のためだ。
イルカは強く、青い草を握っていたことに気がついて、緩やかにそれを放した。所々痛んでいて、萎びたようになっていた。なぜだかとても申し訳なく感じて、その、雑草を撫でた。
カカシと話をしてみよう。
イルカが、そう決めて立ち上がったときだった。
「あー」
突然、大きな声を張り上げられる。
吃驚してイルカが振り返るとそこには、イルカのことを指さして、カカシが立っていた。更に驚いた。こんな所で何をしているのだろう?
「えーと…、えーと」
カカシが困ったように思案している。自分で指まで差して声を掛けて置いて、名前も思い出せないとは。深刻な問題であるはずなのに、何故かイルカは少しだけ笑ってしまった。
「イルカです、カカシ先生」
「イルカさん」
カカシは子供のようにイルカの名前を反芻して、照れたように笑った。
「済みません、最近何かよく会っていますよね。名前が思い出せなくて」
サスケの言ったとおり、カカシはイルカのことを憶えているようだった。ただし、名前までは憶えていないらしい。複雑な気分だった。
ちくりと、心臓が痛んだようで、イルカはそっと胸に手を添える。
「今晩お暇ですか?」
「はあ?」
「一緒に飲みに行きませんか?」
思わぬ申し出に、イルカはまじまじとカカシの顔を覗き込んだ。まったくもって中忍が上忍に対するべき適切な態度とは言えない。
「なんとなく、あなたのことが気になります」
それはイルカも一緒だ。さっきだって、ずっとカカシのことを考えていたと言っても過言ではない。ただしそれには全くと言って色気のある意味では無いのだが。
カカシは無邪気な笑顔のままで、イルカの応えを待っている。
サスケの話によれば、今、イルカはカカシにとって見も知らない他人に近いのではないだろうか。しかし、これはチャンスだ。ナルトたちの話を聞くこともできるし、カカシに近づくいい機会だ。ともすれば、カカシが何らかの記憶障害を起こす様を、実際に見られるかも知れない。
「いいですよ」
イルカが頷くとカカシは嬉しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、今夜七時にここで待ってます!」
「はい」
カカシは上機嫌を丸出しにしてイルカに大きく手を振って、用があるからと、アカデミーに入っていった。イルカは調子を外されて思わずカカシに倣い手を振り返してしまう。
変な人だ。
再確認して、小さな溜息を一つこぼした。
ふと気がつくと、手に汗を握っていたことを知った。存外に緊張していたらしい。耳に自分の鼓動による血流の音が聞こえるようだった。
グラウンドにはアカデミー生達が出てきていて、午後の授業が始まっていた。
「カカシぃ?」
ぷっかりと白い煙を吐き出しながら、先端の燃えかすを灰皿に軽く叩いて落とす。
「なんで、そんなこと聞くんだよ、イルカ」
アスマは解せないとばかりに眉を寄せて、煙を吸い込む。炎を孕む先端が橙に小さく爆ぜた。
「少し、情報収集しておこうかと思いまして」
そうでなければどうして上忍詰め所にまで足を運ぶものか。中忍のイルカにはさすがに立ち寄りにくい場所だ。
カカシのことを、上忍であり、前々から懇意にしてくれているアスマに聞こうと呼び止めたら、こんなところに連れ込まれてしまったのだ。昼間で閑散としていたって、何やら侵しがたい領域であるのに、アスマは全く頓着せずにタバコに火を付け、茶を啜る。
中忍の控え室や、受付に置いてある椅子やソファーなんかよりもぐっと高価なそれに、尊大に座っているアスマに対峙して、イルカはいつでも逃げられるようにか何なのか、軽く尻を引っかけるだけのような形で改まっていた。
「かったくるしいねえ」
「こんなところに連れ込まないで下さい」
泣きたい気分で応えると、アスマは白い歯をかみしめ、喉で笑う。
「やらしいとこじゃないぞ」
「分かってますよ」
軽口に溜息吐いて、脱力するのをイルカは感じた。
「…カカシねえ。あれか、今年の新人、担当上忍の一人か」
「そうです、以前からご存じですか?」
「…実は、あんま知らねぇ」
嫌煙家のイルカを気遣ってか、アスマは明後日な方をむいて勢いよく煙を吐き出す。
「暗部から流れてきた奴だからな、一緒に仕事をしたことがないし、暗部時代の話なんか回って来ようが無い。一緒に仕事をした人間で残っているのは暗部にも少ないだろうよ」
「…どういうことですか?」
「……アイツの部隊は先の戦で壊滅させられたそうだ。一人残ったカカシだけ、里に戻されたようだな」
詳しいことはわからねえよ、とアスマは短くなったタバコをもみ消して、ぬるくなった茶をすすった。
「お前、引継の時に色々と話したんじゃねえのか?」
「…その時は何の不審も抱かなかったんですよ。あとから、ちょっと…」
語尾を濁したイルカに、アスマは先を促そうともせずに、あまり興味なさそうにふーんと唸っただけだった。その態度にちょっとだけ寂しい気がしたが、そこがアスマのいいところだったりする。だからこそ、こうして話すことさえ憚られる内容の相談だって出来る。
「まあ、探りを入れといてやるよ。お前はあんまり無理するな、消されるかもしれねえ」
「カカシ先生はそんな人じゃあ…」
「じゃあ、何で探りなんて入れるんだよ」
そのアスマの突っ込みに、イルカは意気をそがれた。
きっとカカシはそんなことをする人間ではない。
そう思うのだが、記憶の無くなったカカシは自分を尾行する知らない人間を傷つけないと、保証は全く出来ない。イルカのことだって、いつ忘れられてしまうか分かったもんじゃない。
得体の、知れない人だ。
「気を付けておいてやるから、あんまり影で関わり合いにはなるな」
存外、真摯なアスマの瞳に、はい、とイルカは頷くしかなかった。
仕事を適当に切り上げると、六時半を回っていた。帰り支度を済ませてから待ち合わせの所へ行く。
少し早いくらいに着いたはずなのに、カカシはすでに待っていた。昼間イルカが寝転がっていた位置で腰を下ろして本を広げている。あたりは暗い。
「カカシ先生」
イルカがそう呼びかけると、は、と当たりを見まわした。どうやらカカシはそこでその体勢のまま寝ていたらしい。
「イルカさん」
イルカの姿を確認するとカカシはいそいそと立ち上がり、本をしまいながら歩み寄ってくる。
「もしかして長い間お待たせしましたか」
「はあ、まあ、勝手に」
流れるような形でゆっくりと合流するように歩き始める。まだ薄赤い空。
「それに時間を指定したのはこっちですから」
忘れていないのだなあ、と呆然と考える。
何がカカシに忘れさせているのか。
「何処のお店にしましょうか?」
右目しか露出していないのに、夕日の残光の中、感情を豊かにさらけ出す。少しだけ眩しい思いがしてイルカは目を細めた。白銀の髪の毛が赤く透けてとてもきれいだ。
「高くなく、不味くなく、喧しくない所で」
「難しいですねえ」
少しだけ困ったように、でも楽しそうに笑ってカカシはイルカの先を歩いていく。
本当は何処だっていいのだ。金は給料日直後で結構下ろしてきたし、雑食性のイルカは何だって食えるし、周りで女性が何人も喧嘩していようが飲み食いできる。「何処でもいい」では余りにも素っ気なさ過ぎる感じがしたのだ。
カカシはもう店を決めているのか、迷わずにイルカを先導する。そして、歩くこと十分ほどの楼閣づくりの店に入っていった。
二人の姿を最初に認めた店員らしき女性が、二人を誘導する。
白の漆喰の美しい建物だ。急な階段を除けば、後は何もかもがゆったりしている。どうやら、建物はロの字型になっているようで、小さいながらも丁寧に仕上げられた庭園を囲む形になっている。二人が案内された部屋からは、その庭園と外が見られるようになっている。
ネムに赤い綿毛のような花が咲いていた。
その花をごく最近に、どこかで見たことが在るような気がした。
「…贅沢なところですね」
「そうかも知れませんね」
所在ないイルカに対して、カカシはリラックスしまくって、先に席について手袋を外し、おしぼりを手に取った。
「よくいらっしゃる所なんですか?」
「さあ、そうでもないと思います。何となく、ここならふつうかなあと思って」
楽しそうに笑ってカカシはお品書きに目を通し始める。
イルカもカカシに机を挟んで対峙するように座ると、メニューに目を落とした。
高級料理というならば、良心的な価格設定だが、薄給の中忍教師が突発の外食に来るような価格ではない、断じて。
溜息を堪えようとして、何とか歯をかみしめて息を吐いた。
カカシは、きっと、何度かこの店に来ているのだろう。
この店も覚えていないのだ。
脳みその奥底に眠ったまま、引き出されない記憶なのだろう。引き出せないのか、引き出さないのかそれはカカシでないから分からない。
ならば、三人の子供達や、火影はどうなっているのだろう?
毎日会っているイルカですら覚えられないと言うのに、なぜ、あの四人は覚えられるのか?
そして、なぜ、イルカだけを、新たに覚え始めたのだろう?
数え上げればきりがないだろう疑問を、けして掻き消したりしないように、確認するようにイルカは一つ頷いて、取りあえず今はその疑問を置いておくことにした。
給仕が先付けとお品書きを持って現れたついでにカカシはちょっとした量の酒と料理をイルカの分も頼んでくれる。そんな様子にイルカは女性にもてそうだと感心した。
そうでなくとも、口布を引き下げて簡単に晒された鼻梁と唇から、いかなイルカとて美醜の見分けぐらいつく。整ったカカシの顔はいかにも女性に好まれそうだ。
「今日は付き合ってくれて有り難う御座います」
「いえ、どうせ家に帰っても一人で晩飯済ませて寝るだけですから」
運ばれてきた酒をお互いに手に取り、杯を掲げるだけの仕草をして、一息にあおり、杯を開けた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「どうですか? 下忍担当は。子供相手は慣れるまで大変でしょう」
「そうですね、教師も楽じゃありません。自分なら小一時間で出来る作業も辛抱して見ていて上げなければいけないし、もどかしいですけど、成長が目に見えるようで、やりがいはあります」
「三人ともアクは強いですけど、良い子達ですから」
「そうですね、人間的にも忍びの力としても、とても楽しみです」
その言葉にまるで、自分の事のように嬉しくなって、イルカはつい杯を開けるペースを早めた。とても、酒が旨く感じたのだ。
自分が手渡した子供達が誉められることは、イルカにとってこれ以上もない喜びだ。忍びとして頼りない自分も教育者として里に貢献していることを実感できる。
「個性と天性の見極めがとても困難で、どう扱っていいのか分からないときもあります」
イルカの子供達のことを真剣に考えてくれているのだなあと、感激してしまう。得体の知れない形をしているものの、カカシはとても真面目で、もしかして自分のように教師向きではないかと思う。
「子供って適応能力抜群ですから、最初のうち量りかねるときは、普通に見守ってやれば子供達でどうにかするものです。もしかして教師というのは、道を間違えないようにちょっと、指をさしてやるだけでいいのかも知れません」
「そして、ノウハウを分けてやる、と」
カカシの合いの手に、一つ頷いた。
こうして子供達の話で盛り上がったまま、その日の飲み方はお開きになった。
疑ってかかったはずなのに、相当自分でも驚くぐらいの好印象に、イルカはこっそり、苦笑した。
「また、明日。イルカさん」
「ええ、遅刻しないで下さいね」
店の前で反対側に別れて、お互いの帰途についた。
明日、カカシは自分の名前を覚えているのだろうか。
翌日イルカは常よりも早起きしてしまった。
別に、何があったというわけでもないし、カカシと飲みに行ったのだから、いつもより就寝時間は遅かったはずなのだが、目が覚めてしまったのだから仕方がない。のそのそと起き出して、たまには早く行ってみるのもいいかも知れないと、いつも通りに通勤の準備を始めた。
柔らかな真っ白の朝の光に、目を細めながら通りを行く。
気持ちのいい朝だ。今日は暑くなりそうだ。
ゆったりとした時間があるイルカは、穏やかな呼吸をして、堪能するような速さでもって、アカデミーに向かう。
いつもよりも半時間ほど早い出勤になるが、通りには朝早くから仕事の準備に取りかかる人たちが、足早に歩いている。そんな人たちを傍目にゆっくり歩くのは気持ちのいいものだった。
「あ」
イルカは人の少ない道に、銀色の髪を見とがめた。
白銀の稀な頭髪に猫背の忍び。
カカシだ。
今日はイルカのことを覚えているだろうか。
とぼとぼと、ともすればみすぼらしく見える背中を見つめて、なぜだか少し上がった呼吸を抑えた。
声を掛けるのか。
そう、イルカは自問した。
ナルトたちの話によると、毎日遅刻するのだから、相当朝が弱いに違いない。用事もないのに安易に声を掛けていい階級差ではない、御不興を自ら買うのもはばかられた。
少しだけ歩く速度を遅めて、視線はどうしても外せないまま、イルカはカカシとの距離を一定に開けて、アカデミーまで歩く。
もう、イルカには風景は見えていない。
朝取りの新鮮な野菜を並べる八百屋の店先も、朝早くからアカデミーに来る生徒にも、全く視線を向けることが出来なかった。
いつの間にかカカシの背中だけを目指して歩いていた。
ふと、カカシが足を止めた。
イルカも思わずそこに立ち止まってしまう。その拍子に後ろから駆けてきていた、一年生にぶつかられてしまった。
「大丈夫か?」
「へーき! おはよう、イルカセンセー」
「ああ、おはよう」
その子は元気にアカデミーに走っていく。気を付けて、その言葉に元気に返事しながら。
そうして、立ち止まったカカシの横を過ぎる。その瞬間にイルカの視線は再び、カカシに占有されることになる。
カカシは、振り返ってイルカのことを見ていた。
心臓を鷲掴みにされたようだった。
それなのにひどく動悸がして、呼吸が乱れる。
「おはようございます」
カカシが笑ってそう言ってくれなければ、イルカはそこに硬直したまま、身動きが取られなかっただろう。心臓は早鐘のように鳴るのに、筋繊維の一つも、イルカの脳波に反応しない。
「お、はようございます」
そう応えるのに精一杯だった。
「ずっと見てたでしょ? いつ話しかけてくれるのかなあって気になってたンですけど」
「イルカさん」
「!」
思わず顔を上げると、カカシは覆面の顔でにっこりと笑ったまま、小首を傾げている。
覚えてくれたのか、この人は。自分のことを。
姿形ではなくて、名前までも。
「いつも、こんなに早いんですか?」
「え、あの、今日はその、早いほうです」
カカシの質問にしどろもどろになってしまう。なんで、こんなに自分は挙動不審に陥っているのだろう。これではカカシが不審がるのでは無いだろうか。
そんなイルカの混乱を余所に、カカシはイルカの近くまで戻ってきて、にこにことしている。
「アカデミーでしょう? ご一緒していいですか?」
混乱しきった脳みそではカカシの言っていることを処理する速度が落ちる。混乱して、惚けて、暫く沈黙をしてから、やっとイルカは言葉の意味を理解して、何度も頷いた。
「喜んで」
そう、口にするのが精一杯だった。
カカシは静かに嬉しそうに目を細めて、ゆっくりと歩き出す。それに引っ張られるようにしてイルカも歩いた。
「そう言えば、朝は苦手だと聞いていたんですが、カカシ先生こそ、こんなにお早いんですか?」
「あはは、ナルトの情報ですかー?」
機嫌がいいのか、カカシは覆面越しでそれと分かるほど、その頬に笑みを湛えている。
「まあ、そうですねえ。弱いッちゃあ弱いです。でも、何か今日は早く起きなきゃ行けないような気がして」
ゆっくりといっそ緩慢な程の速さで右側を歩く、昼間のような色彩の人を見る。
「誰かに遅刻をするなと…」
そう言えば、誰だったのだろう。と、カカシは今になって思い悩み始める。
イルカは呆然とその人を見やる。僅かに彼の方が背が高いが、猫背であるため、視線は殆ど変わらない。
それは、昨日、戯れにオレがあなたに投げた言葉では無いのですか。
イルカはそう、心の中で叫んだ。
「…カカシ先生」
「はい」
「俺の名前、覚えていましたか…」
その質問にカカシは考えていたことをすっぱりと捨てたかのように、朗らかな表情になる。子供が、得意になったときの表情と同じそれだ。
「だって、さっきの子があなたのこと『イルカ先生』と呼んでいたでしょう?」
結局、カカシは何一つ覚えていないのだ。
イルカはきりきりとした胸の痛みに目眩を覚えた。
覚えてもらえないというのは、寂しいなあ。
受付の仕事を少しさぼって、休憩室の窓から外で戯れている子供達を眺める。
昨日の一件でカカシが下忍育成に真剣なのは見て取られたし、信頼の置ける人物だということも分かった。
だがしかし、それはカカシの性格上の事だけだ。
いくら性格がよかろうと、人物が出来ていようと、下忍三人を守るだけの力がなければいけない。その力の背景には経験は欠かせないし、更に経験は記憶するものである。脳みそでも筋肉でも、記憶が必要なのだ。
あの人の何が欠落しているのだろう。
あの人が居た暗部の部隊で、一体、何が起きたのだろう。
清々しい空を眺めてイルカは、ほとほと溜息をついた。
覚えてもらえないというのは、淋しいなあ。
「なんだよ、さっきから」
ふと、横から声を掛けられた。
声の方を振り返ると、うんざりしたような表情で同僚がペンを置いていた。
「何があったんだよ」
「ちょっとなあ…」
苦笑のままで体を元の体勢に戻して、がらんとした室内に視線を戻した。外との光量の差に、幾分目が慣れない。
「覚えてもらえないって、淋しいよなあ」
「……?」
「何度も話したことが有ったりして、毎日みたいに顔を合わせたりするのに、覚えてもらえないって、何だか悔しいを通り越して、淋しいよな」
「? 誰のことだよ」
ちょっとな、とイルカは言葉を濁した。
本人に自覚がないようで、里長が隠そうとしていることだ。イルカがおいそれと語って良い内容ではない。しかも、里を誇る上忍の秘密だ。一騎当千の上忍がそのような状態だと知れてしまっては木の葉の立場がない。
誰にも、相談出来ない事だった。
「??」
同僚は不可解な顔をして首を傾げた。
「お前、その人のこと好きなの?」
「お前、その人のこと好きなの?」
そう問われて、イルカは固まってしまった。
その日の仕事はその事で頭が一杯で、初めて配置された日以来のポカをやらかしてしまった。「まさか」とその場は適当に誤魔化した。
しかし、必要以上にイルカが動揺してしまったことは確かだ。
好きなのだろうか…。
あり得ない。死んでしまった彼女以上の人間に出会えるなんて、そんな都合のいいことはない。
さんざんの事後処理に追われて、夜もすっかり更けた頃にイルカは家路についた。冷えて湿気た夜気が疲れた肌に心地いい。
とろとろのんびりと、既に人通りの少ない木の葉街道を下る。
ナルトたちが心配なだけだよ。
まさか、あの人は男だもの。
まだ、それに自分は彼女のことを忘れられていない。
気持ちのいい空気を腹にいっぱいに吸い込む。それをそのまま味わうように腹に溜めて、ゆっくりと鼻から吐き出した。
「あのー」
「ぎゃあ!」
後ろから不意に声を掛けられ、イルカは飛び上がった。
振り返るとそこには夜闇にはっきりと映える銀の髪の人物が、驚いた顔をして立っている。
「カ、カカシ先生!」
「今晩和ー。見かけちゃったので追いかけちゃいました」
カカシの姿を見て、更に吃驚してイルカはそれ以上何も言えなくなった。頭が真っ白だ。
カカシは悪びれた様子さえ見せずに、いつもの猫背で頭を掻きながら目を細めた。イルカには笑ったのだと分かった。
「今お帰りですかー? 朝と言い、今晩と言い奇遇ですねえ」
「そ、そうですね」
「もう晩ご飯はお済みですか?」
「え…、いいえ…」
「良かったら、これから飯でも食いに行きませんか?」
「え…」
「あ、用事があるんでしたら、別に、無理にとは…」
イルカが、返事を躊躇っていると、急にカカシが慎重な体勢に出る。返事を渋ったと思われたのかも知れない。
きっと、上忍と中忍の階級の差がそうさせるのだろう。自分だってそれは重んじるし、周囲だってそうだ。逃げ道を作ってくれて、命令とは違う誘いを掛けてくれたのだ。
嬉しくなって、イルカはついついその誘いに頷いてしまった。
「いいですよ、一人で食事をするのは味気ないですもんね」
「本当ですか?」
体全体を弛緩させるように、カカシは顔でそこだけ外に晒されている左目だけで笑った。まるで、緊張からほぐれたように、くたりと笑う。なんだか可愛い人だ。
「何処に行きましょうかー、行きたい店とか有りますか?」
「特にはありませんけど」
「そうですか。じゃあ、気になる店に行ってもいいでしょうか」
「はい」
そうして、イルカが連れられていった店は昨日の、ネムの木の店だった。昨日の部屋の二つ隣部屋に通されて、お疲れさまです、と杯を掲げ、昨日と同じように食事が始まる。
昨日、イルカが訝っていたことは、当たりだったのだ。カカシはこの店に何回も訪れているにもかかわらず、覚えていない。それでも、今日「気になる」と言っていただけに、もし、普通の記憶の持ち主だったらば、常連の店だったり懇意の店だとかお気に入りのそれだとかになるのだろう。
なるほど、気に入っているのならば琴線に触れるのか、記憶できなくても反応できるのに違いない。そう言った理屈で下忍の三人を覚えたのだろう。
しかし、里長を「気に入る」とはどういった心境なのだろうか。尊敬している、敬愛しているならばイルカだってそうなのだから、理解しやすい。しかし、そんな感情で記憶が出来るのならば、カカシはもっと多くの人間を覚えることが出来るだろう。
限定されているのはなぜだ?
そして、時間が経てば、忘れてしまうのか…?
しかし、昨日の晩カカシと別れてから、今朝再び合うまでの時間よりも、今朝別れてからさっき出くわした時間までの方が長い。
となると、考え得ることは二つ…。
「イルカ先生…?」
イルカが考え込んで黙っていたせいか、カカシが顔を覗き込んで、機嫌を伺ってくる。
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありませんよ」
考え得ることは二つ。
日付変更と、睡眠だ。
不信感を拭えないまま、イルカは杯を開けた。
そして、この奇妙な夕食はカカシの忘却と、イルカの肚探りにより、何日も続いたのだった。
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