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第五話 カカシと愉快な仲間達




 カカシと暮らし初めてもう一年以上の月日が流れていた。



「たーだいま」
 窓の方から聞こえてきたその声に、イルカは顔を上げた。カカシが帰ってきたのだ。
「お帰りなさい」
 ゆったりと微笑めば柔らかく笑みが返ってくる。返ってくるはず、いつもなら。けれどイルカの微笑みに、なぜかカカシは気まずげな顔をした。
「どうかしたんですか?」
 視線を合わせようともしないまま、どことなく俯いている。
「あー、えっとね。イルカさん」
 ちら、と伺うような視線を送られてイルカはきょとりと首を傾げた。カカシの様子がどうもおかしい。
「はい、なんですか?」
 首を傾げたままカカシの言葉を待つイルカ。その様子にカカシはばりばりと後頭部を掻いた。
「あー、あのね、オレが連れてきた訳じゃないんだけど」
 勝手に付いてきたっていうか。紡ぎ出されるカカシの言葉はどこか言い訳めいている。どうしたことだろう。カカシが言葉に詰まるなどということは大層珍しい。
「一体どうしたっていうんですか」
 度重なるイルカの問いにカカシは大きな溜息を吐き出した。
「あのね、アレ」
 諦めたような溜息の後、そうしてカカシはついと後ろを振り返った。カカシの後ろには窓、そうしてその先には庭がある。  カカシの視線を辿るようにそちらを見れば、そこには。そこにいたのは。
「え?」
 大量の、猫。
「えっ?ええっ?!」
 驚くイルカにカカシは言葉を続けた。
「いや、どうしてもイルカさんに会いたいとかって言い出してね。俺は来るなっていったんですけど…」
 猫、ねこ、ネコ。庭中猫だらけだ。こんな大量の猫をイルカは初めて見た。というか、イルカはカカシ以外の猫といえば、たまに行く病院で見かける猫くらいしか見たことなかったのだけれど。
 驚きのあまり口を閉じることさえ忘れたイルカに、カカシの言葉なんてちっとも届いてはいなかった。



   * * *



「オレライドウって言います。カカシさんにはいつも世話になってます」
 ぺこん、と頭を下げたその猫はそんな風に言った。顔に火傷の傷がある、柔らかいクリーム色の毛並みの猫だった。
「こちらこそ…」
 と、イルカが頭を下げかけたところへ次の猫が割り込んできた。
「えっと、オレはゲンマっていいます」
 灰色の毛並みの少し眠たげな目をした猫だ。毛が少し他の猫よりも長い気がする。よろしくッス、と頭を下げた猫にイルカも頭を下げる。とそこへ次の猫が。
 さっきからずっとこの調子だ。イルカの頭もだんだんと混乱が激しくなりつつあった。カカシ曰くの勝手に付いてきたというこの猫の集団は、いわゆるカカシの野良仲間らしい。
 しかもイルカが見たところによると、どうもカカシはこの集団の中で一目置かれているようだった。一目、どころではないかもしれないけれど。
 なにせ野犬を退治した過去を持つ、伝説の猫、らしいのだ。あのときの大怪我を思い出すと今でも胸がひやりとする。もうあんなことは起こらないで欲しい。次々と現れる猫たちに生返事を返しながらイルカはぼんやりと庭を眺めた。それにしても数が多い。
 すでに名前と顔を一致させることは諦めて、イルカは縋るようにカカシを見た。隣に腰掛けたカカシもかなり困ったような顔をしている。
「ごめんね、イルカさん。驚いたでしょ」
 カカシの言葉にイルカは素直に頷いた。確かに驚いている。カカシにこんなにも沢山の仲間がいたことも、そうしてこんなに様々な猫がいることにも。
「カカシさんの言ったとおりッスね。スゲェきれいな奥さん」
 一通り挨拶が済んだのか、雑談をはじめた猫たちの中からそんな声が聞こえてきた。
「そうそう、なんか上品そうっていうか。なぁ」
 次々と自分を褒めそやす猫たちの言葉を聞き咎めて、イルカはもう一度カカシを見た。
「奥さんって何ですか、奥さんて。しかもカカシさん、普段一体どんなことを皆さんに言ってるんですか?」
 そう、奥さんてなんだよ、とイルカは思わずにはいられない。確かに奥さんみたいな立場だろうし、カカシも以前餌を食べた方が妻だ、などと言っていたから奥さんなのかも知れないけれど。
 だがしかし。イルカは雄だ。誰がどう見たって雄のはず。なのに。何だろう、このギャラリーから漏れ聞こえる自分への賛美は。集約すると、上品そうで優しげなとても美しい奥さん、という感じに聞こえる。が、それはイルカには当てはまらない賛美だ。
 どう考えたっておかしい。おかしくないはずがない。雄の自分のどこをどう見てそう言っているのか。
「イルカさんが奥さんなのはホントのことでしょ。常々みんなにはオレの奥さんは優しくて美人で可愛いぞー、って言ってるだけです」
 にこり、と優しく笑ってカカシは、ホントのことしか言ってませんよ、と恥ずかしげもなくそう言った。なんというか、こっちの顔が赤くなる。
「それは、どうも…」
 ぼそぼそと言い返すイルカにもう一度柔らかく笑むと、カカシは不意に仲間達の方へと向き直った。
「つーわけで、お前らの気もすんだろ。じゃー解散」
 そう告げたカカシに猫たちの間から不満の声が上がる。
「えー、でもこれが最後なんッスからもうちょっと良いじゃないッスか」
「そうですよ、今までみたいにカカシさんと会えなくなるわけだし」
 ぶつぶつと上がる不満の声にカカシは、ハイハイ、と適当に返事をしていた。仲間達から聞こえた言葉に驚いたのはイルカである。どういうことだろう。最後とか、今までみたいに会えなくなるとか。カカシがまるでいなくなるみたいな。
「どういうことですか、カカシさん。まるでもうこれっきりみたいな…」
 アスマに引っ越しの予定でもあっただろうか。そんな話は聞いていないけれど。不思議そうに首を傾げたイルカにカカシはゆうるりと微笑んだ。
「これっきり、ってことはないでしょうけどね。あんまり会えなくなるのは確かだし」
 ふふ、と笑うカカシを見つめたままイルカはもう一度首を傾げた。
「なんで会えなくなるんですか?ご主人様達、引っ越しでもするんですか?」
 イルカが聞いていないだけで、ひょっとしたら主人達の間でそういう話が出ているのかもしれない。重ねてイルカが聞けばカカシは小さく首を振った。
「違いますよ。オレも完全な家猫になろうと思ってね」
 くつくつと笑いながらカカシが言った言葉。その言葉がうまく飲み込めなくてイルカは瞬きを繰り返しながらカカシを見つめた。
 今、なんて。
「ずっとイルカさんと一緒にいようと思って、ね」
 面白そうに笑うカカシをイルカは凝視することしかできない。カカシは、何を言っているのか。
「この辺りもだいぶ落ち着いてきたしね。オレが一々見廻らなくても、もう大丈夫そうだし。後のことはゲンマやライドウに任せといても大丈夫だろうし」
 カカシがイルカを見つめている。その瞳はひどく優しげに細められていた。
「イルカさんにはずいぶん長い間寂しい思いをさせてたでしょう?もうずっと一緒にいますよ」
 機嫌良さそうに目を細めたまま、カカシは大きく伸びをするといつもの座布団の上にぽふりと身を横たえた。カカシの言葉がじんわりと体に染み込んでくる。
 寂しくなかったと言えば、そんなのは嘘だ。カカシがいなくて、いない間は本当に寂しくて。いつかのように酷い怪我を負って帰ってくるんじゃないだろうかと心配で。何度もカカシについて行こうとした。
 その度に、もう少しだけ待ってと言われて。もう少しがいつなのかそれさえも分からないまま。ただ待つだけの時間が本当は凄寂しくてもどかしくて辛かった。
 けれど、イルカが外に出ることを家の誰も望んではいなかった。カカシもアスマも紅も。それなのに自分のわがままでカカシについて行くことにどうしても罪悪感を覚えずにはいられなくて。
 ただ漫然と過ぎていく日々。いつかカカシに置いて行かれるのではないだろうか。カカシの言うもう少しってどのくらいの時間なんだろうか。一人の時間はそんなことばかりが胸を過ぎって仕方がなかった。けれどもうそんな心配はしなくてもいいのだ。
 カカシの言うもう少しを待ってみて、訪れた結果は予想とは違っていたけれど、でも。イルカにとって一番いい形で訪れた、カカシのもう少しだけ。イルカは本当に嬉しくて、日差しの中寝そべっているカカシに思わず抱きついた。
「カカシさん…!」
 嬉しい、そう言いながら。寝転がったまま抱きついたイルカを上に乗っけて、カカシはその背にそっと腕を回す。
 イルカの背中を撫でるカカシの手のひらの感触。ホントに嬉しくて嬉しくて、イルカはぎゅうぎゅうとカカシにしがみついた。そうしておもむろにカカシにキスを落とす。こんなことは滅多にしないのだけれど、それくらい嬉しかった。
 ちゅ、ちゅと軽いキスをカカシの顔中に降らせて、そうしてイルカはまたぎゅっと背中に手を回した。
 嬉しくて弛んだ頬が元に戻らなくなりそうだ、と思う。そうして不意に気が付いた。自分たちを凝視する、無数の視線。カカシに抱きついたまま顔だけ上げれば、そこにいたのは。
 猫の群れ。
 顔を赤くして立ちつくす群衆に、今度はイルカが固まった。あまりの喜びに我を忘れていたとはいえ、今自分は何をしたのか。恥ずかしげもなくカカシに飛びつき、あまつさえちゅーまでして、そんでもって。そんでもって。
 固まってるイルカごと体を回し、あっさりと体勢を入れ替えたカカシは群衆に向かって、オーイ、と呼びかけた。イルカの体は今更ながらに体温急上昇中だ。
「悪いけど、ホントにこれから取り込み中になるからこれでお開きにしてくれるかな。なんかあったらいつでも相談に乗るからさ」
 一番に我に返ったのはカカシがその後を任せると言った、ゲンマだった。ついでライドウ。カカシの選択に取りあえず間違いはなさそうだった。
 さておき、二匹は慌ててカカシに頭を下げると、固まったままの仲間の頭を次々と叩いて、そうして猫たちは嵐のように去っていた。残されたのはイルカとカカシ。イルカはカカシの体の下で顔を真っ赤に染め上げたまま藻掻いている。
「イールカさん」
 全ての猫が引き上げたことを見届けて、カカシは腕の中の愛しい妻をそっと見下ろした。羞恥に染まった頬がなまめかしい。
「オレも嬉しかったですよ、あんなに情熱的なアナタが見られて」
 くつりと笑いを漏らしてカカシはイルカの赤く染まった頬に口付けを落とした。そうして視線を合わせ、もう一度唇に、キスを。触れるだけのそれが明確な意志を持ってイルカを蹂躙しようとし始めていた。唇をこじ開けようとするカカシの舌の感触。ぬるりと閉じた歯を舐められ、イルカは観念したように体の力を抜く。
 公衆の面前でなんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。深くなるカカシからの口付けを受け止めながら、イルカは心の中で大きな溜息を吐き出した。
 けれど、仕方ない。仕方がないのだ。猫の群衆も何もかも忘れるほどに、イルカの心を歓喜が満たしていたのだから。
 ごそごそと体を撫で回しはじめたカカシの手の動きにくたりと力を抜いたまま、イルカは仕方ないじゃないか、と思ったのだった。



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