第四話 お隣さん
隣さんが、越してきた。
アスマと紅、そうしてカカシとイルカが住む家は郊外にある古い農家を改築したものだ。環境は良いがなにぶん田舎である。そうしてかなり過疎化の進んだ土地でもあった。
だから、と言っていいのかそれともそれとは関係なくなのかは不明だが、イルカたちの家の隣は空き家である。広い庭を隔てているから空き家だろうがなんだろうがあまり関係ないといえば関係ないのだが、その古びて朽ち果てかけた家にある日大工さんがやってきた。
「お隣さん、越してくるのね」
夕飯の席で紅がアスマに向かって話をしている。
「あぁ、昼間お前がイルカの予防接種に出掛けてるときに挨拶に来たぜ」
食事を取りながら話をする二人のそばに二匹で寝そべって、イルカとカカシはお隣さんのことについて耳をそばだてていた。
関係ないこととはいえ、気になる。お隣さん。しかし偶然イルカのいないときにこなくても良いではないか、とも思った。ほぼ毎日家にいるのにこんな時に限って。
わずかに悔しい思いをしながらイルカはアスマの言葉を待った。
「どんな人だった?感じ良さそうな人?」
紅の言葉にアスマはわずかに首を捻る。
「どうってなぁ、一人もんの若い男だったぜ。あんまり愛想のよくねぇ感じだったが…」
ぶっきらぼうっていうか、愛想がねぇっていうか。あんまり表情の動かない男。それがアスマの下した新しいお隣さんの印象であるらしい。
なんだかあまりわくわくするようなお隣さんではないのは確かである。アスマの言葉を一字一句漏らさないよう聞いているイルカの横で、カカシは相も変わらずのんびりと眠りこけていた。
イルカよりもカカシの方が気になる話題じゃないだろうかと思うのだけれど。イルカは家猫で家の中から出ることはまずない。反してカカシは半野良猫というかとにかく外に出る猫だ。お隣さんが凄く猫嫌いで、庭を通るだけでも怒るような人だったらどうするつもりなんだろうか。そういうことが気にならないんだろうか。
柔らかいカカシの毛並みにそっと手で触れれば、ごろごろと喉を鳴らしていた。のんきな猫だ。
そう思ったけれど、カカシが気にならないのであればそれはそれで仕方がない。いざというときのためにイルカが詳しく話を聞いておくだけだ。
アスマの曖昧な情報に不満があるのはイルカだけではないようだった。紅もそれで、とアスマにまだ話をさせようとしている。自らの主人に心の中で精一杯エールを送りながら、イルカは眠るカカシの横でアスマの話にもう一度耳を傾けたのだった。
アスマ曰く、あまり感じの良くない、愛想の悪い、若い独り者の髪の黒い表情のない男は──なんて適当な情報だろうか──今月の末に引っ越してくるらしい。その準備のために家の改築が急ピッチで進められていた。
カカシのいない暇な時間イルカはその光景をじっと眺めていた。古く朽ち果てていた家が基礎を残して取り壊され、新しく生まれ変わっていくその姿を。
とても面白い光景だった。ものが甦る瞬間に立ち会っている、と思う。何かが再生する瞬間。
荒れ果てていた庭にも手入れが入り、そうしてイルカたちのお隣さんが越してくる準備はあっという間に整った。お隣さんが越してくるまであと少し。
早くこの目で確かめてみたいと思いながら、イルカは期待に胸をふくらませていたのだった。
* * *
月末に近いある日曜日。引っ越しのトラックが次々とイルカたちの家の前を通り過ぎた。お隣に運び込まれる荷物。
縁側に座って紅とアスマ、それにカカシとイルカはそれを眺めていた。アスマも紅も今日は仕事が休みらしい。暇に飽かせてお隣の引っ越しをここから見学するらしい。
カカシも今日はまだ出掛ける様子がない。二人と二匹が並んで仲良く縁側に座ることなどこの家に越してきてから一度でもあっただろうか、とイルカは何となく考えた。
答えは、否、である。カカシとイルカが一緒にいることは多い縁側。アスマと紅どちらか一人がいることも稀にあるけれど、二人は基本的に居間で過ごすことの方が多いのだ。
この縁側は本当に二匹の猫のためにアスマが用意したものらしかった。運び込まれる引っ越しの荷物を眺めていた紅が、ふと呟きを漏らした。
「お隣さんも猫飼ってるのかしら」
その言葉に顔を上げたのはもちろんイルカだった。お隣に、猫!それはなんというすばらしい出会いだろう。イルカの猫の知り合いはカカシぐらいしかいない。お友達が増えるかもしれないという可能性にイルカはどきどきした。
「あー、何でだ?」
浮かれるイルカに気づきもしないでアスマは紅に問い返した。
「なんでってほら、あれネコタワーとかいう奴でしょ」
家で飼ってる猫が運動不足にならないためだか、遊び場提供だかよく知らないけど。
そう言って紅が細くきれいな指でさした先にあるもの。棒とかボックスとかが組み合わさったおもちゃの少し大きいようなそれ。運び込まれていくそれが紅のいったネコタワーか。何でうちにはないんだろう。
「うちにはネコが二匹もいるのにあんなものはねぇぞ」
縁側でぷかぷか煙草をふかしながら、アスマは興味があるんだかないんだか分からない口調でそんなことを言った。そう、うちにはない。
「別に要らないでしょ、あんなもの。梁もあるしこれだけ広さがあるんだから好きなように遊べばいいのよ」
カカシは勝手に外に出るし。そう付け加えて紅は昼間だというのに二本目のビールを空けた。
つぎつぎと収められていく荷物達。そうして引っ越しのトラックがほとんど空になった頃に一台の軽自動車が道をやってきた。メタリックの少し入ったパステルピンクの小さな自動車。まだ何もない庭に車を駐めて、そうして降りてきた人物。
あぁ、あれが。とイルカだけでなく紅も思っただろう。アレが噂のお隣さん。愛想がなくて、表情がなくて感じの良くないお隣さん。
確かに。あまり雰囲気の明るくない、表情に乏しい人だった。つまんないかも、あんな人がお隣じゃあ。イルカの思いが伝わったのか、それとも単に思考が似ているのか、紅も溜息混じりにつまんないの、と言った。
そうして、それに、と続ける。
「何だか付き合いにくそうなお隣さんね」
ごくごくとビールを流し込む紅に、アスマもつまらなさそうに煙草の煙を吐き出した。
「まぁ、あんまり付き合いもネェだろ」
隣家の勝手な批評はもちろん新しく越してきたお隣さんには聞こえていない。お隣さんは引っ越し会社の人と何か話をして、そうして差し出された書類にサインをしていた。しばらくして引っ越し会社のトラックがいなくなり、そうして。そうしてお隣さんは軽自動車の助手席から大きめのケージを取り出した。
ネコだ!やっぱりあの家にはネコがいる!越してきた人間は恐ろしくつまらなさそうな感じの人だけれど、ネコはどうだろう。
重たそうにそれを家の中に運び込むお隣さん。早くその中のネコが見たい。どんなネコなんだろう。イルカは未だ隣でなんの興味もなさそうに惰眠を貪るカカシを思わず揺さぶり起こした。
「カカシさん、猫ですよ!お隣さん猫飼ってます!」
んー、と眠たげなカカシの声が低い位置から返ってきた。全然起きてない。
「カカシさん、猫ですって。猫が隣に引っ越してきたんですよ!」
イルカの言っていることは支離滅裂だ。隣に越してきたのは猫ではなく猫を飼っている人だ。そんな突っ込みをアスマや紅が入れてくれるはずもなく、そうして唯一イルカの言葉を理解しうるカカシは半分眠りこけている。
「ねぇ、カカシさん!猫ですってば!」
焦れたように自分を揺さぶるイルカにカカシはようやく重たい目蓋をこじ開けた。
「…猫ならここにいるじゃないですか…」
そう言いながらイルカの頬を柔らかく撫でる。
「オレの可愛い子猫ちゃん」
眠たげな視線のままそうしてカカシはふと笑ってイルカの唇を指でなぞった。
「なっ…!」
絡め取られたカカシの視線とその言葉にイルカは思わず言葉を失った。なんだ、なんだよそれ!オレの可愛い子猫ちゃんって!頭沸いてるよ!恥ずかしい!なんだよ、この猫!罵倒はけれど実際には言葉にならなかった。
イルカの顔は心の叫びとは裏腹にどんどん赤くなっていく。笑みを浮かべたカカシの表情はどこか艶めいて婀娜っぽく、昼の日中だというのに夜の匂いを感じさせた。精神衛生上非常に良くない猫だ。
発する言葉を結局見つけられないままイルカは寝そべったままのカカシの頭をぽかりと殴った。こんな猫は放っておくに限る。それよりも、そんなことよりも新しく越してきた猫だ。
イルカたちの座っているベランダからは、まだカーテンの掛かっていない隣家のダイニングがよく見えた。あのケージからいつ出てくるのだろうか。わくわくしながらイルカが覗いていれば、のっそりと起きあがったカカシがその背中にぺたりと張り付いた。
「どれ、イルカさんが夢中になってるのはどの猫ですか?」
こんな格好いい恋人を差し置いて。ゆったりと腹に腕を回され、そうしてイルカの肩にあごを乗せてカカシもようやくお隣観察に混ざった。
カカシのふざけた発言を取りあえず無視して、イルカはまだなんです、と答えを返す。
「まだ出て来てないんですよ」
イルカがそう言ったそのとき、居間の扉の辺りから、ひょこりと小さな頭が覗いた。金の毛並み。とことことおそるおそる新しい家の中を歩くそれ。そうしてその後ろに、もう一匹。金の毛並みのその猫を護るように、後ろを付いて歩くその黒い猫。
「ちっちゃーい!子猫ね、あれ二匹とも。可愛いー!」
三本目のビールに口を付けながら紅は夫に寄りかかってそう言った。
「イルカもあんな頃があったのよねぇ。今でも十分可愛いけどあのころはまた特別に可愛かったわー」
機嫌良くそう言う妻に夫はそうか、とだけ返した。何事にも寡黙というか無口な人だ、とイルカは思う。そうしてもう一度隣家に目を向けた。
子猫!イルカは生まれて始めてみる物体だ。同じ猫なのに自分たちよりもずいぶん小さい。可愛い。
「カカシさん、子猫ですよ!」
イルカの後ろに張り付いている恋人にそう言えば、そうですね、と興味なさげな返答が返ってきた。どうもなんというか、この主人と飼い猫はよく似ている気がする。熊のようなアスマと、きれいで格好いいカカシを比較するのもどうかと思うけれど、性格の根っこのところがひどく似ているような気がするときがあるのだ。興味のないアスマと、興味のないカカシ。なんだかなぁ、と思いながらイルカは改めてその猫たちに視線を注いだ。
「あー、でも俺たちに子供が出来たらあんな風なんでしょうねぇ」
子猫たちは何か見つけたらしく、まだあまり物のないダイニングではしゃぎ始めている。そうしてイルカの腹を撫でるカカシの手のひら。
「で、出来ませんよ!オレ雄なんですから!」
過去に何度かカカシが本気でイルカを孕ませようとしていることを知っているだけに、この手つきはひどく怪しい。撫で回す手をがっしりと掴んでイルカはカカシを振り返った。
「頑張れば何とかなるかもヨー。何とかしてみましょうか、イルカさん」
くつりと笑ってカカシが口付けてきた。軽く触れるだけで離れたそれにイルカはまた顔を赤くする。主、主人達の前でなんてことを!
「ハイハイそこ、くっつきすぎ」
顔を赤くして暴れようとしたイルカよりも早く、紅の手がカカシの首根っこを掴み上げた。相変わらずの力持ちさんだ、とイルカは妙に感心してしまった。カカシは忌々しそうに舌打ちをして、そうして仕方なくもう一度イルカの横に寝そべった。
「頑張るのはこの女が寝静まってからにしましょう」
そう言ってまた目を閉じる。イルカの頬はまたしても温度を上げつつあった。
隣の子達が気になるはずなのに、なぜか撫でられた腹が熱くて、イルカもまたカカシの隣に崩れるように横たわったのだった。
* * *
あれから数日。イルカの腹にカカシの子供が宿ったという話はまだ聞けないが、お隣さんの名前と飼っている猫の名前は判明していた。お隣さんの名前は、うちはイタチというらしい。どこかの大学の先生らしく、静かなところで研究がしたいためここに越してきたということだった。
飼っている猫はサスケとナルトという名前だった。金色のトラ縞の猫がナルト、黒と白のまだらの猫がサスケという。どちらも研究室の学生からもらったという話だった。兄弟ではないようである。
紅が是非にと頼んでくれたので、サスケとナルトには会うことが出来た。イタチさんが連れてきてくれたのだ。ナルトはやんちゃ盛りの子猫で、サスケはどちらかというと無口でちょっと背伸びをしているような子猫だった。どちらも可愛い。
カカシさんがいつか言ったように、自分たちに子供が出来たらこんな感じなんだろうかと少し思ってしまった。馬鹿だ。けれど無邪気にじゃれつく子猫は本当に可愛くてイルカは終始顔の筋肉をゆるめていた。
カカシは相変わらず興味があるんだかないんだか分からない態度でそこら辺に寝そべっていたが、ナルトにじゃれつかれて仕方なく相手をしていた。アレでいて結構面倒見がいい人なのだろう。イタチさんは最初の印象ほど暗い人でも感じの悪い人でもなかったけれど、やっぱり愛想のない人だった。
ナルトの相手に疲れたのか、カカシさんがこっちを困ったように見ている。その表情が何だか可愛くてイルカは思わず笑ってしまった。
周囲が少し賑やかになりそうなそんな春先の出来事だった。
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