long

第一話 ねこのじかん




   * * *



 イルカは今日もいつものように縁側の座布団の上に寝そべっていた。カカシはいない。アスマが初めの日に言ったようにカカシは半野良猫らしく、時々ふらりと出かけてしまう。
 それがイルカには少し寂しかった。けれど、半野良にしてはカカシはちゃんと出かけた日のうちに帰ってくる。昼に出かける日もあれば、夜に出かけていくときもある。今日も夕方近くになってふらりと出て行ってしまった。
 いつもの通りだと帰ってくるのは夜になってから。しかも、夜のとても遅い時間。
 イルカも一緒に行きたいと思うこともある。しかしイルカは産まれたときから人に飼われていて、今まで一度も自らの足で外に出たことがないのだ。
 病院とか引っ越しとかそういうときにケージに入れられて外に出ることはあっても、自主的に外に出たことなんてない。全く純粋培養の箱入りだった。
 だから外に出るのが怖いし、カカシもそれを望んではいないようだった。一度イルカが一緒に行っても良いかと聞いたとき、カカシは困った顔をしてイルカの堅い毛並みを撫でた。
 外は危険だからアナタは来ないで。そう言いながら。それ以来イルカも自分から外に出たいとは言いづらくなってしまったし、やっぱり怖いから家でじっとカカシの帰りを待っている。
 来ないで、と言ったときカカシは一つ約束をしてくれたから。アナタが寂しくないようになるべく家にいるようにする、と。外に出ても出来るだけ早く帰ってくる、と。
 約束通りカカシは結構家にいてイルカと共に過ごしているし、出て行ってもすぐに帰ってくる。
 アスマに言わせれば青天の霹靂、だそうだ。カカシは今までどちらかというと家に居着かないタイプの猫だったようで、餌を食べに帰ってくるか寝に帰ってくるかだったという。そのカカシがまるですっかり別の猫みたいに家にいる。
 アスマはそれをイルカのせいだと言ったけれど、多分それは本当だと思う。イルカに約束してくれたから、きっとその通り帰ってきてくれているのだ、と思うのだ。
 優しいカカシ。最初の日、後でよくよく考えてみたらカカシにキスされる所だったんじゃないかとイルカは思ったのだけれど、結局今日までそれらしいことはされていない。
 気のせいだったのだろう、と思う。多分。
 外に出ないせいで他の猫とのスキンシップの取り方がいまいち分かっていないイルカだから、きっとあんな風に近づかれて勘違いしてしまったのだろう、と。あんな綺麗な人が何で自分みたいに何の変哲もない猫にキスすることがあるだろうか、とイルカは恥ずかしい気持ちになっていた。
 そうして思う。こんな事を思うのはひょっとしたら自分がカカシを好きなせいかもしれない、と。綺麗で優しくて可愛いカカシ。
 普段は綺麗で格好いいけれど不意に笑う顔はとても可愛い。気を許している顔。けれどいつだってふらりと外に出かけてしまう。あんな風に気を許したような顔で笑うのに。
 きっと外に出かけていくのは恋人に会いに行ってるのだろう、と。そう思う。少し悲しくてやるせなくて、胸が痛くなるけれど、それは仕方がない。自分とカカシではオス同士ということを差し引いたって釣り合わないのだから。
 そのくらい、カカシは綺麗な猫だった。オス同士だからどうすることも出来ないだろうけれど、多分自分はカカシのことが好きなのだろうと、イルカはそう思っていた。
 だってあんなに綺麗な猫は多分他にはいない。恋人同士になるなんて事は有り得ないけれど、カカシとずっと一緒にいられるのはとても幸せな事だとイルカはぼんやりと思う。ほんのちょっぴり辛いけれど、会えなくなったりするよりはきっとずっと幸せだ。
 薄く沈みかけの太陽が差し込む部屋の中。しばらくは帰ってこないカカシのことを想いながら、イルカはまたいつしかうとうとと眠り込んでしまっていたのだった。



 窓がカタリと音を立てて、そうして不意に現れた影。沈んでいた意識がふわりと戻って、イルカは起きあがって影の方を見た。
「お帰りなさい、カカシさん。今日は早かったんですね」
 言うほどに早くはないのだと思うけれど、それにしたっていつもよりは早い。どうしたのかと首を傾げればカカシは口にくわえていた物をイルカの前に下ろして、いつものようににこりと笑った。
「ただいま、イルカさん。これお土産です」
 その言葉にイルカはわずかに身を固くした。
 お土産。カカシから聞く唯一の恐怖の言葉。
 カカシは外に出かけるとほとんど必ずと言っていいほど何かしらお土産を持って帰る。それは虫だったりイモリだったりネズミだったりスズメだったり色々なのだけれど、さも嬉しそうにそれらを持って帰るカカシのことだけはイルカは好きになれなかった。
 どうしてあんなに気持ちの悪い物を持って帰るのだろうか。しかもお土産だなんて。いつだってそれを見るとイルカは青ざめた顔で逃げ出してしまう。どうして好きこのんでそんな物を持って帰るのか本当に分からない。
 けれど。そうしてイルカが気持ち悪そうに逃げ出すと、カカシはほんの少しだけ悲しそうな顔をする。ごめんなさい、これも駄目でしたか。そう言いながら。
 毎回毎回そんな風にして悲しそうな顔をするカカシをイルカは見たくなかった。虫とかそういう物を見るのが嫌だという以上に、カカシの悲しい顔を見たくなかったのだ。
 だからイルカはいつだってカカシが土産を持って帰るのをやめてくれたらいいのに、と思っている。
 なのに。今日もまた。性懲りもなくにこにことイルカの前に土産を差し出すカカシを、このときばかりは憎みたくなる。
 もう持ってこないで、とも言えない自分も悪いのだけれど。
「今日は気に入ると思うんですけど」
 いったい何の自信なのか、とイルカは思う。けれどそんなことは口に出せないまま、恐る恐るカカシの差し出した土産を見れば、それはなんとお魚だった。
「へ?」
 イルカはとても驚いて、そうして間抜けな声を発してしまった。魚。思いもよらず普通にまともなお土産にイルカはただただ驚いていた。
「どうです?美味しそうでしょ?」
 にこにこと笑うカカシ。その前にはつやつやと光る魚が一匹。確かに美味しそうだ。
「イルカさんのために持って帰ったんです。どうぞ食べて下さい」
 にこにこと笑うカカシを見て、そうしてイルカもにこりと微笑み返した。嬉しかったのだ。カカシからのお土産が。いつもの訳の分からないお土産じゃない、ちゃんとまともなお土産。
 イルカは満面の笑みをたたえたままカカシにぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございます、カカシさん。じゃあ頂きますね」
 そう言ってイルカはカカシからのお土産に初めて口を付けた。文句なしに美味しい魚。鮮度の脂の乗りもばっちりだ。もぐもぐと魚を食べるイルカをそりゃあもう嬉しそうにカカシは眺めていた。
「ようやく口を付けてくれましたね。最近はもう半分諦めてたんですよ」
 本当にこれ以上ないというくらい嬉しそうな顔のカカシ。何のことだろう、と魚を咀嚼しながらイルカは思った。
「脈ありだと思ってたのにイルカさんて結構ガード堅いし、お土産に口は付けてくれないしオレの勘違いだったのかなーって」
 もぐもぐしながらイルカは思う。魚は食べるけど虫や爬虫類や小型哺乳類他鳥類はあんまり食べたくないなぁ、と。カカシの呟きの意味なんて全然分からないままイルカはまだ魚を食べていた。
 脈ありって何の話だろう。それに勘違いって。
「あぁ、でもようやく今までの苦労が報われた気分です。単に好みの問題だったんですね。良かった」
 延々と続くカカシの独白に口を挟むこともなくイルカは魚をようやく平らげた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったですよ」
 にこりと微笑んでカカシを見ようとしたそのとき。延々と続いていたカカシの独白がぴたりと止んだ。
 そうして。
「え?」
 不意にカカシの顔がイルカの目の前に現れた。触れるくらい、近くに。触れるくらい?
 頬に触れるカカシの手の感触。そうして、唇に押し当てられた柔らかい何か。とっさに目を閉じてしまったのはどうしてだろう。半開きの口の中にぬるりと何かが入り込んできてイルカは驚きのあまり身を捩る。
 けれど、捩ろうとした体はがっちりと何かに押さえつけられていた。何か、ではない。カカシだ。キスされているのだ。
 歯を舐め上顎を撫でるカカシの舌にイルカは思わず身を震わせた。知らない感覚にそろりと目蓋をあげれば焦点が合わないほど近くにカカシの顔がある。キスしているのだから当たり前なのだけれど、それが酷く恥ずかしいことのように思えてイルカはカカシの肩を押した。
 精一杯の抵抗のつもりで。
「逃げないで」
 ほんのわずかに離された唇から甘い聞き慣れた声。自分の好きな、カカシの声。
 それだけなのに、まるで呪縛にかかったみたいにイルカは動けなくなってしまった。思う様に口内を貪られ、息も絶え絶えになった頃ようやくカカシは離れていった。
「ふふ、魚の味がする」
 そう呟いたカカシと自分の口の間を唾液がまるで糸のように伝っている。ひどくいやらしくて卑猥な光景にイルカは瞬時に頬を染め上げた。
 それと同時にどうしてカカシがそんなことをするのか分からずに、イルカはなんだか泣きそうになった。からかわれているんだろうか。カカシはさっきイルカが脈ありだと思っていたと言ったような気がする。ということはイルカがカカシのことを好きだという気持ちは、とっくにばれていたことになる。
 進展しなくてもいいと思っていた恋。側にいられるだけでいいと思っていたのに、好きだと知っていてこんな風にからかったのだとしたらそんなひどい話があるだろうか。
 泣きそうな顔をしたイルカにカカシは驚いた顔をした。
「何泣きそうになってるんですか?」
「何でって…」
 目の端に涙を浮かべたイルカをカカシはきつく抱きしめた。そうしてイルカの耳元に、やっぱり甘くて優しい声でこう囁いたのだ。
「でも、泣いてももう駄目ですよ。アナタはオレを受け入れたんだから。アンタが泣こうがわめこうが、オレのモノにします。今日、今ここで」
 背中を撫でる手の感触や耳元で囁かれる声色の優しさとは裏腹に、カカシの言葉はどこか切羽詰まったような響きを帯びていた。
 イルカはカカシのいうことの意味の半分も理解出来ないでいた。何を、何を言いたいのだろうか。カカシは。
「……カカシさん」
 弱く弱くイルカはその名を口にした。ただ、他に縋る物がなかったから。からかわれているのだとしても、この胸の中は優しく温かくて、そうしてカカシだから。
 イルカの呟きを飲み込むように、カカシはその唇にもう一度口付けを落とした。



←back | next→