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第一話 ねこのじかん




 オレの名前はイルカ。毛並みと目の色が黒い全身まっ黒けの飼い猫だ。
 主人の名前は夕日紅。すらりと背が高くスタイルも良い、美人で格好良くて文句の付けようのない女性。そうしてとても優しい人。
 そんな主人が結婚することになった。ご主人様の旦那様は猿飛アスマ、という人だった。ごつくて髭が生えててむさ苦しくて熊みたいな人だったけどとても優しい人だった。煙草臭くて頭を撫でる手はごつごつして堅かったけれど、紅と同じくらい暖かい人だった。
 そうして、アスマもまた猫を飼っているという。くわえ煙草のまま真面目な顔でオレの目の前に座り込んだその人は、結構真剣にオレの右手を無理矢理取って握りしめた。
「まぁ、よろしく頼む」
 そう言って。この場合右手と言うよりは右前足と言うべきなのかもしれないけれど、そんなことはさておき。
 ともかく二人は結婚することになった。その事についてオレがとやかく言うことも反対することもまるでない。
 家族が増える、ということだ。紅とイルカの二人暮らし、正確に言えば一人と一匹暮らしが紅とイルカとアスマと、そうしてアスマのうちの猫の二人と二匹暮らしになる。
 新しい家と新しい主人と、そうして新しい仲間。新しい家族。
 一緒に暮らすアスマの飼い猫はどんな猫なんだろうか。仲良くなれるといいな、と思った。これからの長い時を共に過ごす初めての猫。仲良くできたら良いな。本当にそう思う。



 ごとごとと振動を立てて走っていた車がようやく止まり、そうしてイルカの入っているゲージがふわりと持ち上がる感覚がした。
「ようやく着いたのね」
 そう言ってゲージを持ち上げているのは主人である紅だ。ぺたりと眠り込んでいたイルカは身体を起こし顔を上げた。ざくざくと大地を踏みしめる紅の足音がゲージの下から聞こえてくる。
 揺れるケージの隙間からは、もう新しい家が見え始めていた。



   * * *



 新しい家に着き、ケージから出されてイルカはきょろりと辺りを見回した。
 この家は紅とイルカが元々住んでいた家ではもちろんなく、そうしてアスマが元々住んでいた家とも違っている。結婚するにあたり、アスマは家を一軒買ったらしい。都心部からは少し外れた場所に建っていた古い農家を買って、それを改築したという。
 古い家は古いだけあってどっしりと重たげに建っていた。けれど古くない。壁は塗り替えられ畳は張り替えられ、基礎を残して使いやすいよう家の中は綺麗に手入れされていた。
 古いけど、古くない。古いからとても落ち着くし、古くないから気兼ねもない。古すぎる場所は思い出が沈殿していてどうにも気配に敏感な猫の神経を逆なでするから。そう言う意味でこの家は、イルカにとってかなり理想に近い場所だった。
 広すぎない家と綺麗な空気。縁側がある家。日の当たる場所。
 きょろきょろと辺りを見回すイルカを気にしないまま、紅は奥へと入って行ってしまった。イルカもそんなことは気にしない。きょろきょろと辺りを見回して、そうして探しているもの。
 一番気がかりで一番重要な。家の住み心地とか日向ぼっこに重要な場所とかそういうものよりも遙かに大事な。それは。
 とことこと家の中を歩き回ってイルカは座布団の上にようやく目当てのものを発見した。
 もの、ではない。正確には全然ものなんかじゃない。イルカの探していたそれは、アスマの飼い猫。
 新しい仲間。新しい家族。仲良くなれるかしらとずっと気にしていた猫。アスマからその存在を聞かされてからずっと。
 ぽかぽかと日の当たる縁側に置かれた深い紺色の座布団。その上に、銀色の猫が寝そべっていた。左目の上に斜めに傷が入っているけれど、とても美しい猫だった。銀の毛並みもひどく美しいけれど、顔も綺麗だ、とイルカは思う。
 のんびりと体を伸ばして寝そべる姿にうっとりと見とれていれば、不意に声をかけられた。
「こんにちは。アナタがイルカさん?」
 低くて聞き心地の良い声がイルカの耳に飛び込んできてイルカはたいそう驚いた。寝てると思ったのに。元々猫は気配には敏感な生き物だけれど。それにしてもその中でもすごく敏感な方じゃないかと思う。まだこんなに離れた所にいるのに。
 すごい猫なんだ、と思った。
「こっちにおいでよ。オレはカカシ。カカシって言います。よろしくね」
 うんと伸びをしてカカシは座布団の上に座り直すとイルカに手招きをした。眠たげな目がにこりと細められて、そうしてイルカは吸い寄せられるようにふらふらとカカシの元へ歩いてしまう。
「こんにちは」
 座布団の前まで移動するとカカシはもう一度イルカに言った。ぼぉっと見つめてしまっていたことにようやく気が付いて、イルカは慌てて居住まいを正した。
「こ、こんにちは!」
 近くで見るとますます綺麗な猫だった。白い猫は沢山いるけれど、銀色の猫なんて初めて見た。うわずった声で挨拶を返したイルカにカカシはくすりと笑う。
「そんなに緊張しないで下さいよ。ひょっとしてオレって人相悪い?」
 それともこの傷がいけないかな?さして気にした様子もなくカカシは自分の左目を手の平で覆うとにこりと笑った。
「これで怖くない?」
 イルカの緊張を勘違いしたのか左目とその上に走る傷を隠してカカシは笑っている。そうしてカカシの行動にイルカは慌てた。
「ち、違います!怖いとかそういうのじゃなくて、あなたがあんまり綺麗だから見とれてただけです!」
 わざわざ左目の上に置かれた手をイルカは慌てたまま引きはがす。急に近くなった距離にまた慌てていると不意にイルカの目に映った、それ。
 どかされた左手。その下に走る傷跡。そうして、開かれた左目には。
 深紅の瞳。右目は青みがかった瞳だけれど、対照的に左目は深い赤色だった。オッドアイだ、とイルカは思う。左右の瞳の色が違う猫がいると聞いたことはあったけれど、そういう猫に出会ったのは初めてだった。
 なんて綺麗な。カカシの肩に手をかけてイルカはまじまじとその瞳を覗き込んでしまっていた。
「珍しいですか?」
 すごく近くでカカシの声がして、イルカはようやく自分がとても不躾なことをしていたことに気が付いた。
「ごめんなさい!あんまり綺麗なのでびっくりしちゃって…」
 離れようとするイルカをやんわりと抱きとめてカカシはほんの近くでまた笑った。どきりとする、綺麗な笑顔。にこにこと笑うカカシの顔はなんだか綺麗でイルカはすごくどきどきしてしまう。
「イイネ、アンタ。すごく可愛い。仲良くしましょうね」
 すいと抱き寄せられてカカシの顔が近づいてきた。状況がよく飲み込めないままのイルカは、カカシに可愛いと言われたことにただ動揺しているだけだ。
 そうして、本当に近く、触れるくらいまでカカシの顔が近づいてきた、そのとき。
「お、ここにいたのか?」
 どすどすと遠慮のない足音が聞こえてきた。現れたのはもちろんアスマ。この家の主。そうして、その後ろから紅も続いて入ってくる。
「なに、ちゃんと仲良くなったの?」
 はぁー、と耳元で盛大な溜息の音が聞こえてそうしてカカシがイルカの肩に頭を乗せた。イルカに抱きついたまま肩に頭を乗せてカカシは溜息を吐き続けている。
「なんだなんだ?ひょっとしてイイ所邪魔しちゃったか?」
 相変わらず煙草をくわえたままアスマはにやにやと嫌な笑いを浮かべていた。
「邪魔したなんてもんじゃないよ…」
 イルカにすがりつくような格好でカカシはこそりと呟きを落とす。ぺったりとイルカに抱きついたまま。
 そうしてそれから不意にイルカを離すと、カカシはふてくされたように座布団の上にまた寝転がってしまった。状況がうまく把握しきれないで、イルカはきょときょととアスマとカカシを交互に見てしまう。
「イルカ、だったよな?こいつは半野良だからな、ノミとかダニとか移されるなよ」
 わはは、と笑ってアスマはイルカの頭をぐしゃぐしゃと混ぜた。アスマの大きな手に撫でられるとまるで頭を振り回されているようだ、とイルカは思う。
 いつの間に起きあがったのかアスマにされるがままになっていたイルカを、カカシが奪い取った。
「なに言ってんだ、このアホ人間。オレにはそんなモノ付いてないっつーの。イルカさんが壊れるからむやみに触るな」
 不機嫌そうにカカシは言うと、イルカを抱き込んだまままた座布団に転がった。
「なんだお前、ヤキモチかー?猫のクセにいっちょ前だな」
 豪快に笑うアスマを紅が後ろからぽかりと蹴飛ばした。
「どうでもいいけどイルカにあんまりひどいことしないでちょうだいよ。この子は純粋培養なんだから、アンタみたいな厳ついのにもみくちゃにされたら壊れちゃうわ」
 知って知らずか、奇しくも紅はカカシと同じ事を言う。
「お前までひでぇ事言うなよ。どいつもこいつもイルカの味方か?」
 半ば愚痴を垂れるようなアスマの言葉に紅は優しく微笑んだ。
「何言ってるのアスマ」
「紅…」
 にこりと優しい笑みを浮かべて、そうして紅はアスマの頬にその白く美しい手を添えた。
「当たり前じゃない」
 そうしてそのままアスマの頬を摘むと今度はカカシに向かって微笑みかける。イルカを下に敷いたまま人間の遣り取りを面白そうに眺めていたカカシは、紅のその視線に思わずびくりと身をすくませた。
「カカシ、だったっけ?アンタ今日晩風呂に入れるから逃げるんじゃないわよ」
 ひくり、とカカシの喉が鳴る。全身から嫌だというオーラを発しているカカシを上に乗っけたまま、イルカはくすりと笑いを漏らした。
 いいかもしれない。カカシとアスマと紅と。そうして自分の二匹と二人暮らし。



 そう、こんな風にして新しい生活は始まったのだった。



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