* * *
そうしてカカシがイルカと共に帰ったのは、元の屋敷ではなかった。あの屋敷よりもさらに広い、警備も強固な屋敷。
すでに涙はすっかり止まっていたけれど、イルカは気まずさからなかなか顔を上げることが出来ず、屋敷が元のところではないことに少しの間気が付かなかった。
「ここ、どこですか?」
イルカがようやくそう問えたのは、カカシが手ずからお茶を淹れてくれているときだった。窓から見える風景があまりにも違って、ようやくイルカはここが全然知らない場所だと思い当たる。
「ウチの本宅ですよ。アンタが今までいたのは別宅の方。あっちは今ちょっと使い物にならないからねぇ」
砂糖とミルクのたっぷり入ったお茶をイルカの前にことりと置き、カカシは自らのカップを手に取った。熱い湯気を立てるお茶に息を吹きかけるカカシをイルカは見つめた。
ほんの少し伏せられた瞼。月光を溶かしたような銀の髪。カップを持つ骨張った長い指。
「…ここに、迎えが来るんですか?」
ようやく思い出してイルカはカカシに問う。自分は売られる途中だった。
イビキの思いがけない邪魔が入ってこうしてまだカカシと並んで座っていられるけれど、本当ならばもうここにはいないはずだったのだ。
覚悟を決めていたのに、早くしないとそんな覚悟なんて木っ端微塵に砕け散ってしまう。今でさえ諦めきれない気持ちがむくむくと湧き上がってきているというのに。
微かに震える指先で目の前に置かれたカップを取り上げると、イルカもそれに口を付ける。カカシの淹れてくれた、最後のお茶だ。こくりと甘い液体が喉を滑ったとき、カカシがわずかに考えたような顔で、迎え?と呟いた。
カカシの浮かべた表情が予想とはどうも違ってイルカは困惑して訊ねた。
「あの、迎えが来るんですよね。午後の早いうちに迎えが来ますって、カカシさん言ったじゃないですか。それとも今日はこんな事があったから取り止めになったんですか?」
そうだったら嬉しいのに。あと一日でもいいからカカシの側に居たい。一分でも一秒でも長く。
あぁ、とようやく納得したようにカカシは声を上げた。
「迎えならもう来てますよ」
どこか楽しそうにも見えるその表情。カカシが嬉しそうにすればするほど、痛みがじわじわと増していくのをイルカは感じていた。
やはりカカシは自分がいなくなるのが嬉しいのだと。仮にそうではなかったとしても、嬉しい表情を浮かべられるほどには自分の存在は軽いということ。カカシの中にどんな位置も築けなかったのだと改めて思い知らされる。
「………ど、どこに?もう行かなくちゃならないですよね」
手も声も、みっともなく震えていた。カカシはどう思うだろう。最後くらい格好つけたかったなぁ、とイルカが小さく思ったとき、隣のカカシがいきなり吹き出した。
律儀にもわざわざテーブルにカップを戻して腹を抱えて笑い転げている。
「な、なんですか?!」
明らかに笑われているのが自分だということくらい鈍いイルカにも分かる。ひーひーと笑いながらカカシは目の縁に浮かんだ涙を拭ってイルカを覗き込んだ。
「アンタまだ気が付かないんですか?」
目に宿る光はからかうような口調とは裏腹に優しい。
「何にです?」
イルカは困惑したままカカシに問い返した。
「アンタを買ったのはオレですよ、イルカさん」
え?今カカシは何と言ったのか。
「オレがあなたを引き取ったんです」
くすりと笑ってイルカはカカシの頬を撫でる。
「な、何で…?」
どうして?ざばりと波のように疑問がイルカを襲った。一体何が起こっているのだろうか。
「何でってそりゃ、ネェ。アンタが好きになっちゃったからです」
カカシは笑みを浮かべたまま不意にイルカから視線を外した。机に置かれたカップを取り上げてこくりと飲み下す。
「え?」
え?アンタが好きに?
え?
カカシの言ったことが理解出来なくてイルカは自分も甘いお茶をもう一口飲んだ。喉を滑る温かい飲み物の感触。お茶が胃に収まった頃ようやくイルカはカカシの告白の意味に気が付いた。
「…………え?!」
好き?好きって言った?
「えぇ?!」
まさか、まさか。カップをきつく握り締めたままイルカはがばりとカカシを見た。
「か、カカシさん、今、何て?」
カカシは背中を丸めたままお茶を飲んでいる。そうして、ふと視線をずらしてイルカを見る。合わさった視線。そのままやんわりと笑ってカカシはもう一度イルカに告げる。
「好きですよ。アンタが連れ戻されたって聞いて泡喰って迎えに行くほどにはね」
「……嘘」
呆然としてイルカは思わず呟いた。
「何でこの期に及んで嘘なんか吐く必要があるんですか。嘘じゃないですよ」
そう言ってカカシはイルカの額に掛かる前髪をそろりとかき上げる。こめかみに触れるカカシの手の温もり。
「だって…」
だってだってだって。
だってだったらどうして。イルカの今までの苦悩はいったい何だったというのだ。苦しくて辛くて切なくて、あんなにも泣いたというのに。
知らずイルカの目尻からほろりと涙が零れた。小さくうなり声をあげてイルカはぼろぼろと泣いてしまう。
驚いたように目を見開いてカカシは慌ててイルカの手からカップを取り上げる。目を見開いたまま涙を流すイルカに、カカシは困ったように眉を寄せてその身体を抱き寄せた。
「ごめん、イルカさん。ゴメンね」
引き寄せられ胸に抱き込まれてイルカはカカシの胸を叩いた。
辛かった気持ちを思いだして。焦がれて死にそうになったあの恋心を思い出して。
どんな思いで諦めたと思ってるのだろうか。堰を切ったようにあふれ出した涙を止めないままイルカはカカシを叩き続ける。
ひどいひどいひどい。どうして。想いは言葉にならないまま無言で攻め続けるイルカにカカシは抱きしめる手を強くした。
「ゴメン、ゴメンね」
謝る声は優しくイルカはカカシにきつく縋り付いたまま気の済むまでわんわんと泣き続けた。泣いて泣いてようやく泣きやんでそうしてイルカはまだ泣き濡れた瞳のままカカシを見つめた。
ほんの少し非難も交えて。結局は好きだから、どんなことをされても好きだから仕方ないけれど。背中を、髪を撫でる手は温かく優しいから、もうそれだけで十分かも知れないとイルカは思った。
柔らかく頭を撫でる手の平。そのまま髪をかき混ぜるように差し込まれた手は、結局イルカの項に落ち着いてそっと引き寄せるように手に力が入れられる。
「でもねぇ、アンタも悪いですよ。鈍い鈍いとは思ってましたけどなんで気が付かないんですか?」
引き寄せられるままにイルカはカカシにもたれ掛かかってゆるゆると息を吐き出す。慣れた、馴染んだ体温にイルカはほぅっと溜息を漏らした。泣くだけ泣いて気が済んだのかイルカは妙にすっきりとした気分だった。
「そんなこと言われたって別にカカシさん何も言わなかったじゃないですか」
そうだ、大体引き取るつもりだったのなら、最初からそう言ってくれていればこんな事にはならなかったのに、とイルカは思った。
カカシが迎えに来ると知っていたら、イビキがどんな行動に出ようと自分はあそこで待ち続けただろうに。
「今朝の会話で気付いても良さそうなモンですけどね」
イルカの思っていることとは裏腹にカカシはのんびりとそう言った。
「今朝の会話?」
カカシの台詞にイルカは記憶を巡らせる。何かそれらしいことを言われただろうか、と。あんまり何も思い付かなくてイルカはカカシを見た。
「今朝言ったでしょ。アンタは売られる、オレは誰かを家に引き取る。その誰かが自分かも知れないって欠片でも思わなかったんですか?」
思わなかったんでしょうけど。そうカカシは一人ごちた。イルカはカカシの言ったことにひどくビックリしていた。
だってそんなこと本当に欠片も思い付かなかった。だって、だって。
「だって」
だってだったらなんであの時、オレが家に引き取りたいのは貴方ですよ、って言ってくれなかったのだ。
「まぁね、アンタが気が付いてないのが分かっててわざと言わなかったオレも悪かったですけど。こんな事になるんだったらいっときゃよかったかな」
ゆるゆると宥めるようにカカシはイルカの肩を撫でている。自分の肩に触れるカカシの長い指。堅い手の平の感触。
イルカは憮然としたままカカシをほんの少し非難するように言った。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
肩を撫でる手はそのままにカカシはぷいと横を向いてしまう。
「いやまぁ、その、だからね、アンタが驚くと思って」
「は?」
銀の髪から覗く耳がほんのわずか赤らんで見えるのは気のせいだろうか。
「アンタの驚く顔が見たかったんですよ」
「…カカシさん?」
問いかけるようにカカシの名を呼んでイルカはふいに思い出した。この人は自分のことを好きだとかいわなかっただろうか。アンタが好きなんです、とか、そういうことを。この人は、自分の好きな人で、そうしてこの人も自分のことが好きだという。
カカシが、自分のことを好き?ひどく子供じみた馬鹿らしいほどの理由で真実を告げなかったこの人が好きなのは、自分。赤くなった頬を見られないように顔を背けている人。
この人が。どっと波が押し寄せるようにイルカは初めてカカシの告白の意味を、しかも唐突に理解した。その瞬間、全身の血が逆流したかのようにイルカは顔を真っ赤に染め上げた。
カカシが、自分を好きだなんて。問いかけたまま何も言わなくなったイルカを不審に思ったのか、ゆっくりとカカシが振り返るのが見えた。
「アンタ、何て顔してんですか」
そうしてくしゃりと笑う。肩に置かれた手で強引に引き寄せられ、イルカはそのままカカシの腕の中に抱き込まれてしまった。
耳元で笑うカカシの声。低く笑う声がイルカの鼓膜をくすぐった。
「好き」
小さく囁く声がして、イルカはさらに頬を染めた。嬉しくて恥ずかしくてけれどにわかには信じがたいカカシの告白。ぎゅうぎゅうと抱きしめられたまま、イルカもカカシの背にそっと腕を回した。
「でも、いつから…?」
赤い顔を見られるのが恥ずかしくて、イルカはカカシの肩に頬を埋めたままそう聞いてみた。いつからカカシは自分のことが好きになってくれていたのだろう。
確かに一番最初の頃よりも、最近は随分優しかったけれど。カカシのようにとりわけ顔が良いというのではないのに。
「最初は随分と具合のいい体だなぁ、って思って」
あまりといえばあまりな言いぐさにイルカはちょっと怒ったように背中を叩いた。
「すいません、でもね、ホント最初は身体が気になってて。すっごい相性イイのかな、とか。そしたらアンタがオレのこと好きとかいうじゃない。それでね、その時に気が付いたんですよ、オレも好きだったんだって」
カカシの言葉にイルカはびくりと身を強張らせた。
「き、聞いてたんですか?」
恐る恐る顔を上げれば満面の笑みを湛えたカカシにぶつかった。
「眠りは浅い方なんです」
なんて事だ。恥ずかしさに居たたまれない気分になってイルカはカカシの手を逃れようと身体を捩った。
が、いかんせん力の差がありすぎる。あっさりとイルカの抵抗は封じ込められ、さらに密着するように抱きしめる腕を強くされた。しかたなく目を閉じてイルカはカカシに縋り付く。
恥ずかしくて死にそうだ、と思う。だけれども、うっとりするような幸福感がイルカを包んでいたのも事実だ。思いが通じ合ったカカシに抱きしめられているなんて。
「ねぇ、イルカさん」
丁度カカシの肌に当たった耳が、声を発するとき振動を感じる。それはとても心地よい感覚だった。
「はい」
甘えたようにも聞こえるカカシの声にイルカはほんの少し気恥ずかしさを感じる。今までに聞いたことのない、声色。
「オレのこと、好き?」
とても近いところでカカシの声がする。その不思議。抱かれているわけでもないのに。
「はい、好きです」
ふふ、とカカシが笑ったのが分かった。それはもう、幸せそうな声で。
イルカも幸せで笑った。声も立てないまま、ゆったりと。
カカシの腕の中は温かくて、イルカは昨日からの疲労が自分を眠りに誘い込んでいるのを感じていた。
このまま眠ってしまいたい、と思った。カカシはそれを許してくれるだろうか。そうして目覚めたあとも、好きといってくれるだろうか。
どうかカカシとこうして抱き合ってる今が夢じゃありませんように、と思いながらイルカはいつしか夢の中へと落ちていった。
不意にずしりと重くなったイルカをカカシが覗き込むと、案の定眠りこけていた。仕方がない、と思う。昨日からの多淫に加えて今日の騒動で疲れないはずはない。だいいち馬に乗ったのだって相当イルカの身体に負担をかけているはずだ。気がゆるんで一気に疲れが押し寄せてきたというところだろう。
眠り始めたイルカを抱き上げてカカシはベッドに向かう。
オレだって聞きたことが沢山あるのにね。アンタはいつオレのことを好きになったの?あんなに酷いことをしたのに。とっさに家から連れ出したけどホントにそれでよかったの?イルカが否と言ったってもう手放すつもりなんてさらさらないけど。
ベッドに横たえようとしたけれどイルカがきつくカカシを抱きしめているので、仕方なく一緒に潜り込む。
抱き直して髪を撫でればカカシの胸にイルカは頬を擦り寄せた。無意識のその行動にカカシはほんの少し笑ってうっとりと目を閉じたのだった。
←back |
next→