好かれてなくてもいい。ただ側にいられれば。どんな境遇にだって堪えられるのに。
ほんの数時間前まではあの温かい腕の中にいたなんて信じられない気分だった。
会いたい。ただ顔を見るだけでもいいから。
ベッドに伏したまま身動きさえしないイルカにイビキはそっと毛布を掛けて部屋を後にしようとした。
その時。
「…た、隊長…!!」
息を切らせて部下が部屋に飛び込んできた。
「イルカ様の前だぞ、静かにしないか!」
一喝してイビキは部下を伴い部屋を出ようとした。けれど部下はそんなイビキの態度に気が付かなかったのか、入り口を塞いだまま早口に捲し立てた。
「賊が侵入しています!誰も太刀打ちできないほど強い…!」
言いかけた部下はけれど最後まで言葉を言い切らないままその場に昏倒した。
「なっ…!」
驚いて目を見開いたイビキの前に現れたのは。
「みーつけた」
この地方では珍しい銀の髪の男。場にそぐわない呑気な声でそう言うと顔に笑みを浮かべる。
その時イルカはベッドに伏していた。顔を隠すように。聴覚が拾い上げた声が信じられなくて、怖くて顔が上げられなかった。こんな幻聴を聞くほどに自分はカカシに焦がれていたのだろうか。
「人んちのもの勝手に持っていっちゃダメでしょうが」
笑いさえ含んだその声。けれどそう言った人間の目はちっとも笑ってなどいない。
「何者だ、お前」
ただならぬ様子の男にイビキは身に帯びた刀を抜きはなった。きらりと光を反射する刀身にけれど男はまるで頓着しない。
「さてねぇ。でもま、アンタには関係ないでしょ?」
またしても聞こえた愛しい人の声。聞き違えるはずのない、声。どうして、どうして彼がここにいるのだろう。
「そんなことより。イルカさん迎えに来ましたよ。帰りましょ」
自分を呼ぶ、声。自分を呼ぶ、あの人の声。何よりも愛しいあの人の、カカシの声。
「何を言ってるんだ、貴様!ここから先には一歩たりとも入らせん!!」
「イイですよ別に入らなくたって。イルカさんおいで」
おいで、と言ったあの人の声が聞こえた。心臓がどくどくと恐ろしいくらいに脈打っていた。あの人の声、自分を呼ぶ、あの人の、声。
けれど顔を上げるのが、怖い。顔を上げたそこにカカシがいるなんて保証が一体どこにあるというのだ。
カカシがそこにいるだなんて。そんな都合のいいことが、本当にあるんだろうか。
「イルカ」
けれどカカシはイルカを呼んだ。
たった一言。ただ、名を呼ばれただけだった。
それだけで十分だった。その誘惑に自分が抗えるはずがないのだ。
イルカはがばりとベッドから身を起こした。泣かないと決めたのに。もう泣かないと決めていたのに、視覚にその姿を捕らえたらもう駄目だった。
何で居るんだろう。こんなところにまで当たり前みたいな顔をして。
視界がひどく歪んでカカシの顔がぼやけるのがとてもイヤだと思った。
「おいで。帰ろう」
そう言ってカカシは柔らかい笑みを湛えてイルカを手招いた。抗えるはずがない。あの声に、あの瞳に。
「……カカシさん!」
涙が止まらなかった。彼がそこにいる、その事実がこんなにも心を締め付ける。痛みではなく、痛みにも似た歓喜で。
ふらつく身体を叱咤してイルカはカカシに駆け寄った。けれどカカシに辿り着くほんの僅か手前でその身が押し留められる。
「いけません!」
立ちはだかっていたのはイビキ。イビキのがっちりと鍛え上げられた腕に阻まれイルカはそれ以上カカシに近寄れない。
「カカシさん!」
手を伸ばしても触れることさえ叶わずイルカは子供のように泣き喚いた。
「カカシさん!!カカシっ!」
何でどうして邪魔をするの。あの人がそこにいるのに。どうしてどうしてどうして!
「その人を離せ」
カカシは笑みを不意に消してイビキにそう告げる。身に纏う雰囲気をその刹那変えた男にイビキは冷たい汗が背筋を流れるのを感じた。本気にならないとまずい相手だ、と悟る。そうして巻き添えにしてはならない人が、ここに。
行く先を阻む自らの手を擦り抜けようとするイルカにイビキは努めて冷静告げた。
「下がって下さい」
そうして乱暴とも思える手つきでイビキはイルカをベッドに突き飛ばした。イルカがベッドにぶつかるように倒れ込んだとき、イビキの持っていた刀がひらりと弧を描いたのが見えた。
カカシに向かって振り下ろされる冴えた刃の軌跡。制止をかける時間すらない。滑らかな軌跡を描いて刃先がひゅんと風を切る音が聞こえた。
イビキは強い。この屋敷の誰よりも。カカシが死んでしまう。
動かないカカシ。だらりと腕を垂らしたままイビキから振り下ろされる刀身の先にただ佇むカカシ。
避けて、逃げて。けれど叫びは声にはならず、イルカの喉にぺたりと張り付いたままだった。身の裡を駆けめぐる恐怖にイルカは反射的にぎゅっと目を閉じた。
がきん、と鈍いが部屋に響く。重い金属同士のぶつかるようなその音。カカシがイビキの刀を止めたのだろうか。
恐怖に凍り付いていた思考がようやく動き始めイルカはそろりと瞳を開けた。開いた瞳が捕らえたのは鞘ごとイビキの刀を受け止めたカカシだった。
にい、とカカシが笑ったのが見えた。自信に満ちた不敵な笑い。
「いい子で待っておいで」
視線は向けないままカカシはイルカに柔らかく言った。その言葉に身体が震える。叫び出しそうな自分を叱咤しながらイルカは口元を手で覆った。
そうしてカカシをじっと見つめる。イビキに向かって笑いを浮かべるカカシ。会ったばかりの頃カカシはよくそんな風に笑っていたとイルカはふいに思いだす。
鞘から刀身を抜きはなってカカシは受け止めたイビキの武器をそのまま滑らせた。刃先が逸らされる事に気が付いたのか、イビキは瞬時に身を引くと改めてカカシの喉元に切っ先を突き込んでいく。刀身の広い偃月刀がカカシの首を分断しようと唸りをあげていた。
カカシはその切っ先を見つめたまま鞘を投げ捨て剣を握り直す。長すぎるほどの刀身をひらりと返してカカシは偃月刀の軌跡をまたしても変えた。ひどく耳障りな金属音が部屋の中に響きわたる。
強いな、とカカシは思った。さすがに強い。鞘を捨てなければならなくなるとは。イルカを匿っていた屋敷のガードを全て倒すくらいだから強いとは思っていたけれど。
じりじりと間合いを取ったままカカシとイビキは睨み合った。繰り出される剣を難無く交わしながらカカシは息を吸い込んだ。
「受けるだけが能か?」
一向に攻撃を仕掛けてこないカカシにイビキは挑発するような言葉を発する。響き渡る金属音は止むことはなく、一見するとカカシが押されているようにさえ見えた。
イルカには分からない。カカシの方が強いのかイビキの方が強いのか。カカシの方が押されているように見える。
向きを変え身体の位置を入れ替えながら戦う二人。そうしてカカシは壁際にじりじりと追い込まれているように見えた。
死なないで。がたがたと震える身体を必死で押さえてイルカは祈るように思った。
死なないで死なないで死なないで。どうか。
壁までもう少し、という所でカカシは不意に立ち止まった。イビキの繰り出す剣先を受け止めたままそうしてまた、に、と笑う。
「アンタ強いね」
余裕の笑みを浮かべるカカシにイビキはほんの一瞬不快な顔をした。
「ようやく分かっても今更遅い」
返したイビキにカカシはくつくつと笑い声を上げた。
「残念だったね、オレの方がまだ強いよ」
不愉快そうな顔のままイビキはそれ以上何も言わないまま剣を振り上げた。繰り出される剣先からカカシは身を捩って避けた。
カカシは持っている刀で偃月刀の軌跡を無理矢理逸らす。逸らされた先、イビキの剣先はそのまま鈍い音を立てて壁に食い込んだ。
舌打ちしたのはイビキ。ほんの僅かな時間だった。それは剣を引き抜く刹那。けれどそれが、勝敗の分かれ目だった。
がっ、という鈍い音と共にイルカの視覚が捕らえたのは床に崩れ落ちるイビキの姿。イビキの腹にめり込んだのはカカシの持っていた剣の柄だった。
呆然と成り行きを見守るイルカにカカシは本当にいつもと何ら変わりない口調で笑いかけた。
「さ、イルカさん、帰りましょう」
何が起こったのだろう。イビキは床に昏倒している。死んだわけではなさそうだったけれど確実に気を失っている。
イルカには、本当に何が起こったのか分からなかった。分からなかったけれど、イビキは床に伏しカカシは何事もなかったかのような顔で笑っている。
「……か、カカシさん?」
不安に強張っていた身体からゆるゆると力が抜けていく。そうしてイルカはカカシを小さく呼んだ。
「はい、何ですか?」
呼びかけに答えが返ってくる。ではここにいるカカシは本当に本物なのだろうか。ほろりと頬を伝った新しい涙に気が付かないままイルカはカカシを凝視した。
混乱する思考にイルカはただ涙を流しながらカカシを見つめることしかできない。ベッドに座り込んだまま泣き続けるイルカをほんの少し困ったように見つめて、カカシはつかつかとそこに歩み寄った。
混じり気のない漆黒の瞳から流れ落ちる涙をそっと手で拭って、カカシはイルカの身体を抱き上げる。
「帰りましょう。ここに長居しても面倒なことになるだけだからね」
密着した身体から仄かに薫るカカシの匂い。嗅ぎ慣れたそれを鼻腔に吸い込んで、ようやくイルカは震える息を吐き出した。
おずおずとカカシの身体に手を回せば、優しく抱きしめ返してくれた。
あぁ、カカシがいる。確かにカカシがここに存在している。どんな奇跡が起こったのか知らないけれど、カカシが迎えに来てくれた。
これから先のことなんて全然考えられなかった。ほたほたと頬を伝う涙を拭うこともしないでイルカはカカシに縋り付く。
髪を混ぜる優しい手の感触。もう幾度となく自分を慰めたその感触。カカシがここにいるのだ。
嘘でも幻でもなく、本当にイルカの側にいる。
「さてと、しっかり捕まってて下さいね」
そう言ってイルカを抱え直すとカカシはゆったりと歩き出した。
帰ろう、とカカシは言った。では帰れるのだ、もう一度、この人の元へ。その事が嬉しくてイルカは涙が止められない。
あやすようにイルカの背を撫でるカカシの手の感触を感じる。
あとはもう、優しいカカシの肩に顔を埋めてイルカは声を上げてただ泣いていた。
←back |
next→