* * *
あの人はどういう反応をするだろうか。その時のことを想像すると自然と口元が弛むのが分かって、カカシは頭をがりがりと掻いた。
さっきからずっとこんな調子だ。気が付けばそんなことばかり考えている。
きっと驚く。そうしてぽかんとした顔でカカシを見つめるだろう。あの真っ黒な瞳でカカシを穴が開くくらいじっと見つめるに違いない。
その後はどうだろうか。泣くか怒るか、それとも喜ぶだろうか。最終的には喜んで貰わなくてはならないけれど、その前にどんな反応が返ってくるのか。
考えてみればあの人が心の底から笑っている顔を見たことがない。いつも泣いているか怒っているか悲しんでいるかだ。カカシがそういう風に接していたのだから仕方ないけれど、あの人はどんな風に笑うのだろうかと思う。
時折お茶を淹れてあげると、ほんの小さくはにかむように笑うときがある。その笑顔もどこか愁いを帯びていて、そのことが惜しいと思った。心の底から、なんの憂いもなく笑って欲しいと、思った。
午後一番で別宅に帰ろう。一刻も早くあの人を抱きしめるために。カカシの思惑になんて全然気が付かないまま暗い顔をしているあの人を、とびっきり甘やかして依存させてカカシなしでは生きられないようにしてしまおう。
浮かぶ想像は楽しくまた書類を捲る手が止まっていた。午後一番には別宅に帰りたいと思うが、そのためにはこの目の前の書類をなんとかしてしまわないといけない。
けれどどうにも集中出来ない。朝の捨てられた子犬のようなあのイルカの反応とか、縋る指とか思い出さずにはいられなくて、気が付けば時間ばかりが過ぎて書類の山はちっとも高さが変わっていなかった。
もう明日でもいいか、と思うがエビスには相当無理をさせただけにこの有様を見せるのはちょっと忍びない。怒るだろうなぁ、と思いながら渋々書類に手を伸ばしたとき、ばたばたと廊下を走る音が聞こえた。騒がしいことだとカカシは息を吐き出す。
ああいう走り方をするのはこの屋敷の中ではナルトだけだ。ここに向かっているのだろうからナルトには厳重に注意するとして、明日になったらエビスにも文句を言ってやろうと思う。ナルトの行儀作法に関してはエビスに一任してある。
音がだんだんと近付いてくる。子供にしてはやけに重たいその足音にカカシは眉を顰めた。走り寄る気配は大人のものだ。
イヤな予感がひしひしと押し寄せてカカシは持っていた書類を机に放り出した。
そうして。
「大変です!」
言いながら息を切らせて駆け込んできたのはエビスだった。
「騒がしいな。どうした?」
エビスは今、イルカがいる別宅の方にいるはずなのになぜこんなところへ来るのだ?沸き上がるイヤな予感を振り払うように冷静に問えば、エビスは大きく息を吐き出した。
「イルカ様が連れ去られました!連れに来たのはイルカ様のご実家で身辺警護をしているイビキという者です」
一息にそれだけ告げるとエビスは小さく咳き込んだ。
「屋敷のガードは何をしている?!」
あの屋敷には万が一を考えて相当数のガードを配置してあったのに。
「全て突破されました。あの者は強い」
言いながらエビスは壁に飾られていた一振りの剣をカカシへと投げて寄越した。カカシはそれを掴むと開け放たれた窓へと向かう。
「馬は正面玄関に。急げば屋敷に連れ戻される前に姿を捉えることが出来るかも知れません。勝てるとしたらカカシ様、あなた以外にはない」
「後は頼んだぞ」
エビスの言葉を背に受けながらカカシは窓枠をひらりと飛び越した。大地を踏みしめ正面玄関へと走る。ここまでようやく来たというのに、今更失うわけにはいかない。
本当に今更、だ。アレはもうとっくに身も心もオレのモノだというのに。どこにいたって取り戻す自信なんてあるに決まっているけれど、それにしたってふざけた真似をしてくれたものだ。
馬に飛び乗りカカシは轟々と砂煙を巻き起こす強い風の中に躍り出る。
蹄が砂混じりの大地を抉る。蹴り上げられ巻き上がった砂塵は、あっという間にカカシの姿をも砂煙の中へと掻き消したのだった。
* * *
カカシの屋敷から連れ出されて、久し振りに元の屋敷の門を潜った。大理石の敷き詰められた床はひんやりとして裸足のままのイルカの足に心地よい。
肩に担ぎ上げられそのまま馬に乗せられここに辿り着いた。容赦なく照りつける太陽の熱と馬の振動は消耗しきったイルカの身体をますます痛めつけたけれど、そんなことは心の痛みに比べればたいした問題じゃない。
イビキに支えられながらぺたりぺたりと自室へと向かう。カカシを裏切ってしまったのだという思いが、屋敷に着いた途端じわじわと湧き上がってきていた。
あの人を裏切ってしまった。あの人の大切な商売を邪魔してしまった。自分に出来ることなんて大人しく売られることだけだったのに、それすらも満足に出来なかったのだと思うとイルカは泣きたくなる。
どうして大人しく付いてきてしまったのだろう。ソファーに齧り付いてでもあの場に残るべきだったのに。
カカシの屋敷にはイビキが倒した人があちらこちらに転がっていた。死んでいるのか生きているのかはイルカには判断が出来なかったけれど、あんな有様では今日の取引は先延ばしになったかも知れなかったのに。そうなったとしたらカカシともう少し長くいられたかも知れないのに。
傷つき倒れた人々の心配もしないでこんな事ばかり考える自分に吐き気がした。自分のせいで死んだかも知れない人がいるというのに、考えるのはカカシのことばかりだ。
そうして思う。カカシがあの屋敷に留まっていなくてよかったと。彼が仕事で不在にしてくれていて本当によかった。
カカシにもしものことがあったらイルカは生きてはいけない、と思う。
ぺたりぺたりともどかしいほどの速度で歩きながら、イルカは気怠い身体をのろのろと進めた。ようやく部屋に辿り着いて粗末なベッドに倒れ込むように横になったとき、それまで黙っていたイビキがようやく口を開いた。
「ゆっくりお休みになって下さい」
どこか痛みを堪えるような顔をしたイビキに、この人は自分に何が起こったのかを知っているのかもしれないと不意に思った。どうでもいいことだけれど。
「………どうして父は私を連れ戻しのですか?私は売られたのでしょう?」
そうして屋敷にイビキがやって来たときから疑問に思っていたことを口にする。
カカシは売られたといったのに。アンタは売られてきたのだと、そう告げたのに。
なぜ、今頃になって。
「売られた?貴方がですか?そんなことがあるはずがない」
驚いたように問い返したイビキにイルカは僅かに視線を投げる。
「でも、言われたんです。妾腹の私は私を邪魔に思う屋敷の誰かに売り払われたのだと。よくある話だと言われました」
身を沈めたベッドからは嗅ぎ慣れた自分の匂いしかしない。カカシの匂いなんてどこにもなかった。当たり前のその事実になぜかイルカは酷く打ちのめされた。
「イルカ様は騙されたのですよ。他の貴族はどうか知りませんけれど、貴方に限ってはそんな事実はどこにもありません」
きっぱりと言い切ったイビキにイルカはただ事実を告げた。
「けれど父上は私を疎んじておられる」
その声に何の感情も込めることは出来なかった。ずっと昔から知っていたことだから。
「まさか、そのようなことがあるはずがございません」
否定の言葉を口に上らせたイビキにイルカは心がささくれ立つのを感じる。
何も知らないくせに。この屋敷での孤独などオマエは知らないくせに、と。
「そのようなことがないと言うのならば、父はなぜ私と目を会わそうともしないのでしょう。目も合わせず口も聞かず私の姿を見ることさえ厭うておられる」
吐き出すように告げたイルカを見下ろして、イビキは痛みに耐えるような顔をした。
「……お辛いのです。貴方があまりにも母上様に似ておられるから、その事が逆にお辛いのです。厭うておられるはずがない。今回のことも貴方が攫われたと知って、旦那様がどれほど心を痛められたか。貴方を捜し出し無事保護するよう命じたのは、他の誰でもない旦那様なのですよ」
反吐が出そうだ、と思う。何を今更都合のいいことを並べ立てているのだ、と。イルカが辛くないとでも思っているのだろうか。
母を失い父に疎まれ、誰にも相手にされなかったこの孤独を分かっていてなお、そんな事を言うのだろうか。あまつさえ父の大勢の妻たちがイルカにした仕打ちを知っていて見ないふりをしていたというのに。
「…今更、何を都合のいいことを…」
思わず漏れたのは一番イルカの心理を端的に表している言葉だった。都合のいいことだらけだ。父にとって、本当に都合のいい事実。
自分の受けた痛みなどどこにも介在しない答え。
「そう思われるのも無理はありません。けれど」
分かった風な口を叩くイビキに心底腹が立った。オマエになど、分かるものか。
「けれど?けれど何だと言うのです?だから父を受け入れろと?」
感情も顕わに言い募ったイルカにイビキは言うべき言葉を失った。今までの彼の境遇を考えれば当たり前の反応だ、と。
沈黙したイビキにイルカは小さく息を吐いた。彼が悪い訳ではないのに。彼は何もしてはいない。父に命じられ自分を救出しに来ただけのだったのだから。
「すみません、貴方が悪い訳ではないのに」
憂いを顔に滲ませてイルカは疲れたような笑みを顔に貼り付けた。
「いえ、私こそ出過ぎたことを申しました。申し訳ありません」
折り目正しく頭を下げるイビキにイルカはゆるりと首を振った。
もうどうでもいい。そんなことはどうでもいいと思う。
父に疎まれていなかったとしても、だからといってイルカの生活が変わる訳ではないだろうから。別にそんなことは、もう今更どうだってよかった。
例え自分の境遇が変わったとしてももう喜べはしないだろう事は、イルカには痛いくらいよく分かっていた。
だってここには、カカシがいない。カカシがどこにも、いないのだから。きしきしと痛む胸を押さえてイルカはベッドに顔を埋めた。
泣かないと決めたから。泣いてしまいそうな自分を叱咤してイルカは息を吸い込んだ。
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