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 ぺちぺちと頬を叩く手の平の感触でイルカは意識を取り戻した。
「大丈夫ですか?」
 覗き込むカカシの心配そうな顔。風呂場で結局あのまま気を失ってしまったのだとイルカはぼんやりと思った。
 またカカシに迷惑をかけてしまった。最後なのに。今日が最後なのに。この綺麗な人とこうしていられるのは今日で最後なのに。
 我が儘を言って困らせて挙げ句こんな風に世話を焼かせてしまっている。
「あの、すいませんでした…」
 覗き込むカカシに小さくイルカはそう告げた。なるべくならカカシの心象を悪くしたくなかったから。自分とのことはカカシにとってあまりいい思い出ではないだろうけれど、だからこそ少しでも、と思う。
「まー、それはイイです。オレも悪かったし。それよりも起きられますか?服を着なくちゃ」
 そう言ってカカシはテーブルの上に置いてあった洋服に手を掛ける。よくよく見ればイルカはベッドの上に寝かされているのではなかった。背の低いソファーに裸のまま寝かされている。
 渡された下着を身につけ、イルカは本当に何週間かぶりにきちんとした洋服に袖を通した。その事に僅かな安堵感を覚える。
 身につけたものはどれもイルカが今まで着ていた服とは比べものにならないほどに肌触りがよく相当高価なものであることが知れた。
「うん、よく似合いますね」
 洋服を身につけソファーに腰掛けるイルカを見下ろしてカカシは満足そうに笑った。
 何か言いたいのに。カカシを見上げながらイルカは思う。
 何か、カカシに言いたいのに。
 これが最後だから。彼と言葉を交わす最後の機会なんだから。
 何か、何でもいいから。そう思うのだけれどイルカはカカシに何を言っていいのかまるで分からなかった。
 言うべき事はなく言いたいことは澱のように胸の底にこびり付いている。言いたいことはある。この気持ちを、伝えたいと。カカシが好きだという気持ちを、彼にぶちまけてしまいたいと思う。
 眠っている彼でなく、意識のある彼に。今、目の前に佇むこのカカシに。けれど言える訳がなかった。そんなことは、絶対に。
 売られる自分。
 この先カカシと会うこともないだろう。そんな人に思いを告げてどうするというのだ。軽蔑されるか、笑われるか、それとも、哀れまれるか。
 哀れまれるのだけはイヤだった。この恋心だけは綺麗なままで持っていたかった。蔑まれてもいいけれど、この恋心を可哀想なものにだけはしたくなかった。
 告げることは、出来ない。うろうろと視線を動かして、けれどイルカはカカシを見上げる。
 最後に焼き付けるように。少しでも多くカカシの仕草を思い出せるように。イルカの視線を受け止めてカカシはまた笑った。柔らかい、笑み。
「じゃあ仕事で出なくちゃならないんでそろそろ行きますね」
 午後の早いウチには迎えが来ますから。最後にくしゃりとイルカの髪を混ぜて、そうしてカカシは行ってしまった。
 歩み去る後ろ姿を未練がましく見つめながらイルカはまた泣きそうになる。
 少し猫背のすんなりとした後ろ姿。柔らかな銀の髪が開け放たれた窓から吹き込む風にさわりと揺れる。あの髪の柔らかさをあの肌の温度をもう二度と感じることはないのだと。
 そう思うと痛みに打ちのめされそうだった。ゆったりと歩くその姿はやがて入り口に掛けられた布をひらりと潜って見えなくなった。
 振り返ることもないまま。
 鼻の奥がつきんと痛んだけれど、イルカは奥歯を噛み締めてそれを堪えた。けしてもう、泣かない。この胸の痛みは一人で堪えなくてはならないから。もうけして、泣くことはすまいと。いつ消えるのか分からないこの痛みさえも、愛しく思いたいと。
 カカシの残像を追うように入り口に張り付いたままの視線を引き剥がし、イルカはソファーに横になった。
 窓から吹き込む風がさわりさわりとイルカの頬を撫でる。風は涼しく気持ちがよかった。肉体的な疲労と精神的な疲労を許容量以上に溜め込んだイルカはいつしか眠りに引き込まれていた。



    * * *



 がやがやという大勢の人間の言い争う様な物音にイルカは目を覚ます。迎えが来たのだろうかと一瞬思ったが、部屋の中には相変わらずイルカしかいなかった。
 物音はまだ続いていた。遠くから聞こえていたその音はだんだんとこの部屋に近付いている。
 いったい何が。迎えが来るにしては様子がおかしいとイルカが思ったその時、甲高い金属音が響いた。刃物の交わる音だ、とイルカはひどく冷静に思う。
 あまりにも日常からかけ離れていたその音はひどく現実味を欠いていた。音は大きくなる。そうしてどさりと何かが落ちるような音がした。
 この部屋の、すぐ外で。麻痺した思考がようやくイルカに身の危険を訴えた。何かが起こっている。この屋敷では本来起こりえないことが。
 逃げることも思い付かないまま、イルカはただじっと入り口に掛けられた布を見つめていた。
 そして。ばさりと音がして布が切り落とされ、そこから巨大な影が現れる。
「こちらにおいでだったか。ご無事ですか、イルカ様」
 カカシがいつもくぐり抜けたその布を無惨にも切り落としたその影は。
「……イビキ…!」
「さあ、帰りましょう。旦那様がお待ちですよ」
 驚愕に目を見開いたままのイルカにイビキがつかつかと歩み寄る。
 なぜイビキがここに?どうして父の護衛隊長がここにいるのだ。迎えなのだろうか。彼が、迎えだとしたら、自分を買ったのは父なのか?そんなことがあるはずがないと分かっていながら、イルカは今のこの状況に何を思っていいのか分からない。
「…どうして?どうして貴方がここにいるのですか?」
 歩み寄るイビキがとても恐ろしいもののように見えた。
 異端者だ。イルカはそう思う。この屋敷では彼は異端者だ。柔らかく白で統一されたこの屋敷の、この部屋の中で。血に濡れた刀を携えた彼はどう見ても侵略者にしか見えない。
 知らず身を震わせるイルカにイビキはほんの少し困ったような顔をした。
「貴方が攫われてからずっと行方を捜していたのですよ。突き止めるのにこんなにも時間がかかるとは思いませんでしたけれど、無事救出できそうでほっとしました」
 さぁ、早く。そう急かされたけれどイルカにはイビキの言葉の半分も理解できなかった。
 攫われた?誰が?イルカは売られたのだ。イビキは何か勘違いしている。イルカはそう思って必死で首を振った。
「イルカ様!」
 駄々をこねるように首を振り続ける態度に焦れたのか、イビキはソファーに蹲るイルカを無理矢理担ぎ上げた。
「や、やめて下さい!降ろして!」
 嫌がって身を捩ってもイビキの腕はびくともしなかった。
 何で?どうして?
「ここにいてどうなさるおつもりか?このまま奴隷として売られたいのですか?」
 詰問するようなイビキの口調にイルカは言葉を詰まらせる。口を噤んで抵抗をやめたイルカを肩に担ぎ直して、イビキは揺るぎない足取りで部屋を後にした。
 常よりも高い視線で揺られながらイルカはぼんやりと目に映る風景を眺めた。思えばここに来てからあの部屋しかみたことがなかったのだと改めて思う。
 そうしてふと息を漏らした。奴隷として、売られる。確かにこのままここにいても奴隷として売られてしまうのだ。
 カカシには二度と会えない。分かっていた。分かっているつもりだった。けれどここを離れがたいのはカカシの面影がここにあるからだ。
 あの部屋にはカカシの温もりさえまだ残っているような気がする。カカシとの思い出の全てがあの部屋にあるのに。本当なもう少しの間だけあの部屋で思い出に浸れていたのに。
 でも、もうそれも無駄なことだ。カカシには会えない。声を聞くことも、姿を見ることもない。
 売られた先ならば何かの拍子にカカシを見かけることもあるのかも知れないけれど、それはそれでとても辛いことだろうと思う。諦めるにはいい機会なのかも知れない、と。カカシを知らなかった頃の日常に埋もれてしまうのが、彼を忘れる一番いい方法なのかも知れないと、そう思う。
 忘れないだろけれど。この先誰かを愛することがあったとしても忘れることなんてないだろうけれど。胸の中の一番綺麗な箱の中に大切に仕舞ってしまわなくてはならないのだろう。
 この、想いは。
 眼前に開け放たれた玄関が見えた。空のてっぺんに座した太陽が白々と世界を焼き尽くしているのが、見えた。
 まるでイルカのちっぽけな恋心さえ焼き尽くすように。



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