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「まだ寝てるんですか?」
 泣いて泣いて泣き疲れていつしか眠りに落ちてしまっていたらしい。イルカがようやく意識を浮上させたのはのんびりとしたカカシの声を聞いてからだった。
「え…?アレ……?」
 霞む視界とまだ覚醒しきらない意識が不意にカカシを捉える。
「アンタ泣いてたんですか?あ〜あ、こんなに目を腫らしちゃって。声もがらがら」
 半分はオレのせいでしょうけどね。ひっそりと笑ってカカシはイルカに手を伸ばした。腫れぼったくなったイルカの瞼をカカシの冷たい手が撫でる。ひやりとしたその感触がひどく気持ちよかった。
「取りあえず風呂に入って来なさい。それから目を冷やして」
 やれやれと仕方なさそうにいうカカシは、けれど傍目から見てもとても機嫌がよかった。
 そして、とても優しい。カカシが水差しから汲んでくれた水を受け取って、イルカはこくりとそれを口に含む。
 どうしてこんなにも機嫌がいいのだろう。自分がようやくいなくなるからだろうか。やっと厄介払いできるからだろうか。自らの思考にまた視界がじわりと歪む。
 ここで、カカシの目の前で泣く訳にはいかない。ずるりと暗闇に沈み込もうとする思考を留めて、イルカは殊更なんでもないように関係のない問いを口にした。
「あの、カカシさんはオレを買った人のことを知ってるんですか?」
 カカシの方は見ないままイルカはまた水を口にする。そんなイルカをカカシは少し意外そうな表情で見た。
 そうして、笑う。イルカが自分を見ていないことを知って、それは実に楽しそうな笑みを浮かべた。
「とてもよく知ってますよ」
 イルカはまだ俯いたまま。カカシが悪戯っ子のような幼い笑みを浮かべていることなど知らないまま、俯いて空になったグラスをじっと見つめている。
「…ど、どんな人ですか?」
 グラスを握る指先がほんの僅か、震えた。問い掛けに答えるカカシの声はとても楽しそうに聞こえて、イルカには顔を上げることが出来なかった。カカシの表情を見たらきっと絶望してしまうに違いない。
「そうですね、悪い人じゃないと思いますよ。ちょっと変わってるらしいですけど」
 よく知っているという割にはカカシの答えはどうにも要領を得ない。困惑したままそろりと顔を上げたイルカにカカシは笑いかけた。
「なんて言うんですかね。オレ自身はそんなに変わってるとは思わないんですけど、周りの評判からするとちょっと変わった人だそうです。マァ、少なくとも悪人じゃないのは確かですから、そんなに悪いようにはされないですよ。安心して下さい」
 言いながらイルカの手から空のグラスを取り上げるとカカシは、さぁ、と促した。
「さ、そろそろ支度して下さいね。これはもう外してあげますから。ネ」
 上機嫌のままカカシはイルカの足元に屈み込む。ポケットを探って小さな鍵を取り出すと、イルカの足を拘束していた鉄の輪を外した。かちん、と音を立てて拘束が外れる。
 カカシと自分を繋ぐ、たった一つの物理的なものが今、なくなってしまった。
 イルカの体温に温まった金属はそっとカカシの手によって外されてしまう。
 もうこれで。本当に終わり。
 そろりと身を起こしたイルカはベッドに腰掛けて床の上に足をつけるとぼんやりとカカシを見る。
 機嫌のいいカカシ。自分がいなくなるから。この厄介でどうにもならない荷物がようやくなくなるから。ふいに刺々しい気持ちになってイルカはカカシに言った。
「随分と機嫌がいいんですね」
 足枷をベッドの隅に放ったカカシはイルカの言葉にふと笑う。
「そうですね、とてもいいことがあるので」
 ふふ、とカカシは堪えきれないように笑いを漏らす。カカシの思ういいことは自分がいなくなることなんだろうか。熱くて腫れぼったい目蓋にまた新たな熱が湧いてくる。
「どんなことか、聞いてもいいですか?」
 泣くな、と言い聞かせた。最後なんだから。これ以上みっともない真似をしてカカシの心象をさらに悪くするのだけはやめよう。そう思ってイルカは唇を噛み締めた。
 鼻の奥が酷く痛んで噛み締めた唇を開いたらもう駄目だと思った。
「いいですよ」
 そんなイルカに気が付いているのかいないのか。カカシは普段よりも浮ついた声で頷いた。
「あのね。ちょっと前から自宅に引き取りたいと思ってたモノがあったんです。引き取るには色々と手続きやら準備が必要でネェ。思ったよりずっと時間がかかっちゃってなかなか引き取れなかったんですけど昨日やっと全部の準備が整いましてね。今日、うちにやっと引き取れるんですよ」
 嬉しそうに話すカカシの様子にイルカは噛み締めていた唇をようやく解いた。
 ほんの少しだけほっとする。カカシが浮かれている理由は自分が厄介払いできたからじゃない。そんな些細なことにひどく安心した。
 けれど、今度は嫉妬が胸を焦がす。そこまでカカシを惹き付けてやまないモノ。それが単にモノなのかそれとも本当は人間なのかイルカには分からなかったけれど、どちらにせよそれが自分でないことが悲しい。
 自分だったらよかったのに。カカシがそんなにも求めてやまないものが自分だったらよかったのに。
 無理なことだとは知っていた。みっともない感情だと、何の取り柄もなくカカシの役に立つこともない自分が抱くには本当に浅ましい願いだとは知っていたけれど。けれど。
 成り代われるものならばカカシの家に引き取られるというものになりたかった。
 見知らぬ男に売られていく自分。カカシの家に引き取られる何か。涙は零さないと、心に決めたのに。
「…風呂に、入ってきますね」
 長い間詰めていた息を吐き出して、イルカはそう言ってカカシに背を向けた。喉の辺りに熱い塊があってイルカの呼吸を止めようとしてるみたいだった。
 泣かないと、決めたから。泣いてはいけないと知っているから。カカシへの恋心は自分だけのもので、カカシの前で泣く権利すらないことを知っているから。
 ふらつく身体を無理に立たせてイルカは駆け込むように風呂場に入った。脱衣所を抜け浴室に入り急いでシャワーのコックを捻る。
 ざぁ、と辺りに水音が響いたのを聞いてようやくイルカは喉に詰まった塊を吐き出した。
「ふっ、…っく…」
 堪えても堪えても嗚咽が喉の奥から込み上げてくる。ざあざあと冷たい水に打たれながら、長い間イルカは涙を止められなかった。



 そうしてどのくらい水に打たれていたのだろう。イルカの手足の感覚は既になく吐き出す息は白かった。ようやく収まりのつきそうな涙腺にイルカはほっと息を吐き出した。
 その時。がちゃりと音を立てて浴室の扉がふいに開けられた。
「まだですか?」
 いつまで経っても出てこないイルカを不審に思ったのだろう。無遠慮な侵入者は浴室の扉を開けて僅かに目を見張った。
「アンタ何してんですか?!」
 もうもうと湯気の立ち込めているはずの浴室の中は、けれど寒々しい空気が覆っていた。イルカが水を浴びていたことがカカシには分かってしまっただろう。
 刺々しい雰囲気のまま浴室に入ってきたカカシにイルカはびくりと身を竦ませた。
「…やっ」
 がしりと手首を掴まれてイルカは小さく身動いだ。冷え切った身体にカカシの手の平はひどく暖かく感じられて、その広い胸に抱き込まれたときようやく止まった涙がまたほろりと頬を伝った。
「こんなに冷えて、全く何考えてんですか?」
 イルカを易々と抱き込んだままカカシは水の温度を調節する。ようやく温かいお湯がシャワーから出始めるとイルカの身体をその下に押し込んだ。
「アンタに風呂に入れって言ったのはオレですけど、何も水浴びをしろと言ったわけじゃありませんよ」
 ざあざあと温かい飛沫がイルカの冷え切った身体を温めていく。
 カカシにきつく抱き込まれているせいでイルカは動くこともままならないまま、その肩に顔を埋めた。ぐりぐりと肩口に顔を擦りつけてイルカはカカシに縋った。
 どうしてこの人は。こんな風に。
 あまりにも沢山の感情がイルカを揺さぶってもう涙を止めることなど不可能だと思う。
 洋服のまま自分が濡れることも頓着しないでイルカを気遣うカカシ。どうしてこんな風に優しくするのだろう。
「また泣いてるんですか?アンタは泣き虫だね」
 俯いた後頭部にカカシの骨張った大きな手が乗せられて、濡れた髪をくしゃりと混ぜた。
 背中をあやすように撫でられ、イルカは堪えきれない嗚咽をひくりと漏らしてしまう。
 あぁ、泣かないと決めたのに。決めていたのに。
「大丈夫ですよ。もうこれ以上待遇が悪くなることはありませんから。言ったでしょ。そんなに悪い人じゃないって」
 見当違いなカカシの慰めにイルカはふと可笑しくなった。本当にこの人は自分のことなど何とも思っていないのだ。
 ただの商品。それもひどく手間のかかる厄介な。けして高値で買ったわけではないだろうけれど、それでも採算の取れるかどうか分からない不良品も同然の自分。せいぜい高く売りつけるために大事に扱っているだけなのだ。
 それを優しさと勘違いしたのは自分。優しくされたと勘違いして勝手に好きになったのは自分。
 自分だけが、カカシを好きで。滑稽で哀れな自分。
 何も言わないイルカをどう思ったのかカカシはゆるゆるとその背中をさすってくれた。



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