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「今日はもう寝ましょうね」
 オレも疲れたし、雨だし。イルカの隣に潜り込んでカカシはそう言って笑う。
 あのあと、泣き続けるイルカを無理矢理抱え上げたカカシは、そのまま風呂場へと向かった。二人で濡れた体をただ温めて、そうして今に至る。
 冷え切った身体はすっかり温まり、乾いた布が素肌に気持ちいい。ベッドに横たえられて、そうしてカカシが隣にいる。イルカを抱くでなく、ただそこに。
 カカシは泣いている理由を問いはしなかった。そのことが嬉しくて淋しい。聞いて欲しくなくて、でも聞いて欲しかったのかもしれなくて。
 イルカはままならない自分の心を持て余したまま、そっとカカシを見上げた。カカシは笑っている。相変わらず右目は長すぎる前髪に隠れて見えはしなかったけれど、深い藍色の瞳は柔らかな色を湛えていた。
 乾ききらないイルカの堅い髪の毛を梳いて、カカシはほんの少しその身体を引き寄せる。引き寄せられるままにカカシの側に身を置いて、イルカはふいに思い付いた疑問を口に上らせていた。
「ナルトは…、ナルトをどうして引き取ってるんですか?」
 下から覗き込めばカカシはゆるりと笑みを浮かべた。
「あの子はね、忌み子なんです」
 言葉の意味を取り損ねて、イルカは首を傾げた。カカシの手は相変わらずイルカの髪を梳いたまま。あんまりにも優しいその感触にイルカはほんの少し胸が痛んだ。
「あの子は元々貴族の出ですが、あの子が産まれた少し後、家が盗賊に襲われました」
 抑揚のない声でカカシは言葉を続ける。
「ナルトを残して家族使用人全てが殺された。運良く生き残ったナルトは親戚の家に引き取られたそうです」
 最初はね、ただの不幸な子供だったんですよ。家族が皆死に絶えた哀れな子供だった。
 ゆるゆると髪を撫でたままカカシは淡々と続けた。聞いておきながらどうかと思うけれど、どうしてカカシが教えてくれる気になったのかイルカには分からなかった。いつものようにはぐらかされてしまうと思っていたのに。何となく口にした疑問は重い重い事実をイルカに伝えている。
「でもね、引き取られた親戚の家も盗賊に襲われた」
 全員が死んだわけじゃないけど、ナルトは次の親戚の家に預けられた。そうして、また、そこでも。
「最後に引き取られた家には盗賊は入らなかったんですけどね。病気で主が死んだあとバタバタと人死にが出てね。そうしてついに矛先はナルトに向けられたんです」
 忌み子だ、と言いだしたのは誰だったのだろう。不幸を運ぶ、忌むべき子供。
「ナルトは奴隷として売り払われました。けれどそんないわくのある子供を引き取る人間もいなかった」
「だから、あなたが引き取ったんですか?」
 言葉尻を攫うようにイルカが問うても、カカシはただ穏やかな笑みを浮かべただけだった。
「これを」
 そうしてカカシは自らの右目を覆っていた前髪をかき上げた。
 情事の最中でもけして見ることの叶わなかったその右目。そこに、あったのは。目蓋の上を走る傷跡。そうして藍色の瞳の横には、赤く燃え上がるような深紅の瞳。
 驚いて声を発することも出来ないイルカにカカシは話を続けた。
「同情したんでしょう。オレもかつては同じように忌むべき物とされていた。あいつが哀れだったのもあるけれど、謂われのない言いがかりで全ての可能性を閉ざされたあの子に希望を与えてやりたかった」
 一体この人はどんな思いを抱えて生きてきたのだろうか。左右の目の色が違うということが、この人をどんなに苦しめたのだろうか。
 ひっそりと明かされた事実はあまりにも重く、イルカは我が事でもないのに辛そうに眉を顰めた。
 ナルトが、カカシが、哀れでならない。そうしてカカシに引き取られたナルトが、どこか羨ましかった。カカシの心の一部を手に入れたナルト。自分が欲してならない物を、手に入れているナルト。
 目蓋を降ろしゆるゆると息を吐き出すイルカをカカシはゆったりと抱きしめた。
「すいませんね、どうも辛気くさい話しちゃって」
 ぴったりと胸に抱き込まれてカカシの顔を伺い見ることは出来なかったけれど、その言葉にイルカは小さく首を振った。
「もう寝ましょう、どうも雨の日は良くない」
 背中を撫でる手をそのままにカカシはほんの少しだけ弱ったような声でそう言った。
「お休みなさい」
 ぴったりと寄せたカカシの身体から規則正しい鼓動が聞こえて、イルカはそっと目を閉じた。寄り添った体温が温かく、イルカは自分の心臓が鼓動を早めているのを感じていた。
 ただ寄り添って眠るだけなのに。こんな事今までだっていくらでもあったのに。頬が熱くなる。
 セックスの匂いのしない触れ合いは慣れていなくて、イルカはなかなか寝付くことが出来なかった。




 浅く覚束ない眠りからイルカが目覚めたとき、世界はまだ沈黙の中にあった。午後から降り続く雨はまだまだ止む気配すらなく、月明かりのないぶん辺りはいつにもまして暗い。
 目蓋をあげれば隣にはカカシが眠っていた。静かな寝息を立てて眠るカカシはひどく美しく見える。まるで異国の彫像のようだ、とイルカは思う。
 綺麗で、冷たい。
 わずかに身を起こしてイルカはカカシを覗き込んだ。よく、眠っている。時折こうしてカカシはイルカを抱かない日にも隣でただ眠ることがあったけれど、その寝顔をまじまじと眺めるのは初めての経験だった。
 整った顔。闇夜の中でも光を吸い込んだように淡く光る銀の髪。右目の上に掛かった前髪をそっと上げてみれば、閉じた目蓋の上をうっすらと縦に傷が走っているのが見えた。
 自分の知らないカカシの過去。閉じられた目蓋の下にあるのは、赤い焔。
 何があったのだろう。カカシ自ら傷つけたのだろうか。それとも誰かに傷つけられたのか。
 ふと疑問が湧き起こったけれど、それに対する回答は永遠に得られないこともイルカには分かっていた。
 あと何日、この人の側にいられるのだろうか。生まれて初めて好きになった人。永遠に手の届かない人。
「………好き、です」
 イルカは本当に小さく呟いた。
「好き、あなたが好き」
 聞こえないと分かっていたから。告げられない想いが可哀想でイルカは眠ったカカシに小さな告白を落とした。永遠に届かない想い。
 カカシの元から離れ、そうしてやがては死んでいくしかないこの想い。
「好きです、カカシさん」
 涙がこぼれ落ちそうだった。切なくて苦しくて辛くて。
 じわりと浮かんだ涙をごしごしと擦ってイルカはそっと身を屈めた。眠るカカシに口付けを落とし、もう一度囁きを落とす。
「好きです」
 届かない声、届くことのない想い。叶わないと知っていても言わずにはいられなかったこの想い。
 窓の外からはごうごうと雨風の音が聞こえている。切り取られたこの空間に二人きり。この先雨が降るときは、きっと今のこの時を思い出すだろう。
 切なくて苦しくて愛おしいこの時間を。
 ベッドに潜り込みカカシに擦り寄りながらイルカは目蓋を閉じた。偽りでもいいから、もう少しだけこの幸福な時間を。
 身を寄せたカカシの身体は温かく、イルカはひっそりと一筋涙を零したのだった。



    * * *



「エビス、書類を用意して」
 デスクに腰掛けたままカカシは不意にそう言った。その瞳はエビスの方には向けられておらず、ただぼんやりと窓の外を眺めている。
「何のですか?」
 返ってきた問いにも振り返らない。ただ窓の外を眺めたまま、そうしてそのまま、また口を開く。
「あの人、オレが引き取ることにしたから。ちょっと偽造書類とかいると思うけどよろしく頼むわ」
 外をぼんやりと眺めたまま怠そうに言ったカカシに、エビスは聞こえるように溜め息を吐いた。どことなくそんなことになるような気がしていたけれど。
「了解しました」
 短く答えた部下にカカシは続けて問うた。
「何日かかる?」
 窓の外はまだ雨が降っている。昨日から降り出した雨はまだ止まない。あの人は部屋で一人、きっと淋しい思いをしているだろう。
「五日で」
 答えを弾き出した部下にカカシはようやく振り返った。
「三日で何とかしろ。あとオレ、今日はもう帰るから」
 あとよろしく、と言ってカカシは椅子から立ち上がった。主人の気紛れは今に始まったことではなく、無理難題も今更だった。エビスはやれやれと溜め息を吐いて立ち去る背中に小さく頭を下げた。
「了解しました」
 エビスの言葉にひらひらと手を振って応え、そのままカカシは出て行ってしまう。多分きっとこうなるだろうとは思っていたけれど。下げていた頭を元に戻してエビスはサングラスを中指で押し上げた。
 予想していたこととはいえ、実際そうなってみると実に憂鬱だと思う。どうせあの主人は後に起こるゴタゴタもエビスに一任することは目に見えていたから。
 本当にやれやれだ。エビスはもう一度深い溜め息を吐いてようやく姿勢を正す。
 何はともあれ今は時間がない。かつりと足を踏み出して部屋の一点を目指す。そうしてエビスは部屋の壁面に備え付けられた引き出しから書類を何枚か取り出したのだった。



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