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 ぱたり、と小さな水音が聞こえる。わずかに聞こえていただけのそれはみるまに量を増し、あっという間にざあざあという音に変わった。
 ついに降り出した。豪快に泣き出した空を見つめてイルカはぼんやりとそう思った。
 町から向こう。砂漠には雨は降らない。境界線のようにこの町にだけ降る雨。ざあざあと音を立てて降り続ける雨はこれから少なくとも二日の間は止むことはない。
 この雨がなければこの町は成り立たず、すぐに砂漠に没するだろう。恵みの雨だ、と誰かがいったのを思い出した。恵みの雨。農作物を栽培出来るほどではないにしても、人々の喉を潤すには十分な程度降ってくれる雨。
 イルカは雨がずっと好きではなかった。いくら雨のおかげで生きていけると分かっていても到底好きにはなれなかった。
 雨の日は孤独が増すから。水の檻に閉じこめられたみたいに、何も見えず町の喧噪も聞こえない。
 幼かったイルカと共に雨の日を過ごしてくれる人はどこにもおらず、世界にたった一人取り残されたような気分になった。
 だから、雨は嫌い。
 窓は開け放たれたまま、重い湿気を含んだ空気が部屋の中を満たしていた。閉めた方がいいのは分かっている。雨脚はこれからますます増していくのだから。徐々に勢いを増し明後日の午後まで降るだけ降り尽くしてぱたりと止む。長いときはもう一日か二日。
普通なら明後日の夜はもうぴかぴかに晴れ上がった星空が見えるはず。
 怠い体はカカシのせいだけじゃない。この雨がイルカの思考を鈍らせる。幼い頃に感じた、発狂しそうなくらいの孤独がひたひたと胸に甦るから。
 家にいてもここにいても同じ。結局はこうして一人きり。カカシがほんの気紛れに見せる優しさに縋ってみても結局は同じなのだ。売られてしまえばそれで終わり。
 自分を買ったその人が自分をどんな風に扱うのかは分からなかったけれど、自分の望む感情はきっと与えられないだろうと。
 吹き込む湿った風が冷たいと思う。のろのろと身を起こし開け放たれた窓に近付く。
 雨が掛かるのも気にしないままイルカはバルコニーへそっと出てみた。町は常になく静まりかえりイルカ以外の人が死に絶えてしまったみたいだと思う。
 幼い頃と同じ。雨の日には誰も側にいてくれない。こんなにも淋しいのに。
 眼下の庭を見下ろせば降りしきる雨に水溜まりが出来ていた。濁って茶色い水溜まり。庭に水があふれるくらいには雨が降るだろう。ぼんやりと思ってイルカはその場にぺたりと座り込んだ。
 冷たい床の感触と降り注ぐ雨の感触。しっとりと濡れて額に張り付く髪の毛をそのままに手摺りの間から飽きもせず庭を眺めた。
 庭から玄関へと続く道。玄関から真っ直ぐ伸びたその先にある表門は、わずか人が一人通れるくらいだけ開けられていた。
 ざぶざぶと降りしきる雨は着物をぐっしょりと濡らし、足首を捕らえている鉄の枷を冷やしていく。
 どのくらいそうしていたのだろう。寒さに湧き上がった悪寒にイルカはぶるりと身を震わせた。吹き付ける風が常になく冷たい。
 部屋に戻ってシャワーを浴びようかとイルカが腰を浮かしかけたとき、門のわずかな隙間から茶色い塊がふらりと入り込んだのが見えた。
 なんだろうか。不思議に思いイルカは浮かした腰をもう一度下ろして、手摺りの隙間からじっとその塊を見つめる。雨に濡れそぼりよろよろと力無く歩いているそれは茶色の子犬だった。痩せこけたそれは小さく頼りなく、哀れな鳴き声を微かに漏らしながらのろのろと歩いている。惨めでみっともなく哀れな生き物。濡れた子犬はみすぼらしく、けれどその鳴き声は胸を掻きむしるように小さくか細い。
 可哀想に。あの小さな生き物に、死がひたひたと近付いているのがイルカにも分かった。
 けれど。いくらあの生き物を哀れんだとてイルカにはそれを救う術がない。自分のことすらままならずこの部屋から出ることすら叶わないのだから。
 ひどく辛い気持ちでイルカは子犬を見つめた。たったわずかな距離しかないのに、自分はあの小さな命さえ拾い上げることは出来ないのだ。拾い上げ、この体温を分け与えることすら。
 それが、辛く悲しい。忘れようとしていた自分の境遇をまざまざと見せつけられて、尚辛い。
 床についた手を握り締めてイルカは小さく、ごめんと呟いた。ごめん、助けてあげられなくて。
 震える足で、けれど歩みを止めない小さな犬は、迫り出した玄関の庇の下に辿り着くとそのまま蹲ってしまう。
 ごめん、ごめんね。いくら謝ったとしてもあの犬はあのままあそこで冷たくなるだろう。やがて動くことも鳴くことも出来なくなり、あのまま。助けられるかもしれない命がそこにあるのに。尽きかけている小さな灯火。
 ぎりぎりと拳を握り締めたままイルカはじっと子犬を見つめた。
 誰か、あの子犬に気が付いて。誰か。呼びかけるように思っても相変わらず玄関の扉は閉ざされままで、屋敷には人気すらなかった。
 エビスが食事を持ってくるときを除けば、イルカはこの屋敷でカカシ以外の人間の気配を感じたことはほとんどない。或いは本当にイルカしかいないのだろうか。
 カカシやエビスは必要なときだけここに来て、あとは自分がたった一人この屋敷に残されているのかもしれない。
 だってイルカはあの玄関が開く所を一度たりとて見たことがないのだから。考えれば考えるほどあの子犬を誰かが見つける可能性は限りなく低いように思えてならなかった。
 湧き上がる予感にイルカは思わず身を震わせる。
 誰か。誰かどうか、あの子犬に気が付いて。祈るようにイルカが目を閉じたとき、かしゃんと金属の触れ合う音が聞こえた。
 驚いて目を開けば見慣れた銀髪がずぶ濡れになって門を潜るのが見えた。
 カカシ。金属音はわずかに開いていた門が閉ざされた音。その門を潜ったのは、カカシ。
 彼は犬に気が付くだろう。そうして、どうするのだろうか。食い入るように見つめていると、視線の先の男は軒先に蹲る茶色の塊を見つけたようだった。足を止め子犬を見下ろしている。子犬に向かって何か言ったようだったけれど声は良く聞こえなかった。声は聞こえないがこの位置からだとカカシの表情がよく見えた。
 不意にカカシは小さな犬の前に座り込み、その身体を抱き上げる。抱き上げられた犬は残されたあらん限りの力で尻尾を振ってるみたいだった。抱き上げ、目の高さまで持ち上げたそれにカカシはくしゃりと笑う。
 子供のような笑みだと思った。
 子供のようにあどけなく、優しい笑みだった。
 イルカの見たことのないカカシの表情。カカシはそのまま震える子犬を抱きかかえると、すたすたと玄関を潜って行ってしまった。
 あぁ。
 寒さにではなく、恐れにでもなく身体が震えた。じんわりと胸が熱くなるような感覚。かたかたと震える身体を叱咤してイルカはようやく部屋の中へ戻った。
 窓をぴっちりと閉めてその場にしゃがみ込む。
 あぁ、胸が苦しい。
 どきどきと早鐘を打つ心臓の上に手を当ててイルカは窓に背中を預けた。あの小さな生き物に笑いかけたカカシの笑顔が胸に焼き付いて離れない。自分にはけして向けられない種類の笑み。
 どうしてかその事が悲しくて仕方がなかった。あんな風に屈託なく笑いかけて欲しかった。何の含みもなく、ただ笑いかけて欲しいと、思った。
 どうして、どうしてそんな風に思うのだろう。きりきりと胸を締め付けるこの感情の名前は。
 商品だ、自分は。カカシと自分を繋ぐ糸はそれだけでしかない。その事がどうしてこんなにも。
 つうと頬に温かい物が伝ってイルカは自分が泣いていることに気が付いた。悲しい苦しい辛い。カカシと自分の間にある関係があまりにも感情の伴わない物でしかないのが、悲しくて苦しくて辛い。
 どうしてなんて、考えなくても分かる。いつの間に、こんな風になってしまったのだろう。
 あんなにも酷い人なのに。あんなにも優しい。
 ぽろぽろと涙を零しながらイルカは嗚咽の漏れる口を手の平で覆った。

 あぁ、オレは、あの人が好きなのだ。

 自覚した感情は急速に根を張り、そうしてかつてないほどイルカを打ちのめした。売られたと聞いたときよりも初めて抱かれたときよりも、なお強烈にイルカを打ちのめした。
 自覚しても仕方のない感情。どんなに恋い焦がれたとしても叶うはずがないのに。自覚した途端に終わる恋なんて、気が付かなければ良かった。
 ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭うことすらしないでイルカは泣き続けた。涙と一緒に恋心も流れ落ちてしまえばいいのに。ひくひくと嗚咽を漏らしながらイルカは泣いた。
 たった一人雨の中、切り取られた空間で。水の檻に閉じこめられて泣いた幼い日よりもなお一層孤独なまま。痛みに耐えかねるように息を詰めて泣くイルカは、だから部屋に入ってきたカカシに気が付かなかった。
 濡れそぼったまま肩を震わせて泣くイルカの前に、カカシはそっと跪いた。
「イルカさん、どうかしましたか?」
 ゆるりとイルカの髪に触れる手。いつの間に現れたのか、思い人をいきなり目にしてイルカはひどく狼狽えた。柔らかく髪を撫でそうして抱き寄せる堅い手の平。
「何を泣いているんです?」
 座り込んだイルカを引っ張り自分の胸の中に抱き込んで、カカシはあやすように背中を撫でた。服こそ着替えてはいたもののカカシの身体もまだ冷たく、頬に当たる髪の毛も濡れていた。
 子犬はどうしたんだろうとか着替えてすぐにここに来てくれたのかとか、他愛のない疑問がふと頭を過ぎったけれど、触れ合った所からじわりと温かさを感じてイルカはまた泣いてしまう。こんな格好じゃあカカシを濡らしてしまうと思ったけれど、それよりも離れたくなかった。
 広い背中に手を回し、イルカはその肩に頬を埋めてただただ涙を零す。きつく抱きついた身体からはよく知ったカカシの匂いがして、イルカはそれが嬉しくて悲しかった。
 カカシは黙ったままイルカの背中を撫でてくれている。柔らかく優しく。
 触れる手の平の大きさも形も感触も知っているのに、そのどれ一つとして自分の物ではないことが悲しい。この優しささえもイルカ自身に与えられたものではないことが。
 商品なのだから丁寧に扱うのは当たり前。思い付く事実は全てイルカを打ちのめしていく。
 心が痛くて痛くて張り裂けそうだと思った。愛しい男の腕の中で、イルカは絶望に打ちひしがれて泣き続けていた。



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