よろりと身を起こしてイルカはしばらくぼんやりしてしまう。何を考えているのだろうか。
サイドテーブルの上に無造作に放り投げられた紙の束。暇なわけではないだろうと思う。多分きっと忙しいに違いないのに、どうしてそんなにも自分に構うのだろうか。
恐ろしくて憎いはずの相手は、けれどイルカが今まで接してきた誰よりも優しい一面をこうやって不意に垣間見させる。気遣う言葉とか温かい手の平とか、それはイルカが産まれ落ちたその時に無くしてしまったものだ。
今更こんなところでどうしてそれを与えられることになったのだろう。自分以外の体温がこんなにも温かいなんてどうして思い出させるのだろう。
これ以上ぼんやりしていても仕方がないと、イルカはのろのろとソファーに移動した。薄く黄みがかった柔らかい色のソファーに身を沈めてイルカは膝を抱える。
膝に顔を乗せて視線を落とせば足首を捕らえた無骨な鉄の輪が見えた。これさえなければ、まるで客分のような扱いだ。カカシが初めに言ったように、倒れたところを助けられてそのままお世話になっているような。
開け放たれた窓から吹き込む風は涼やかで、イルカはゆるりと目を閉じる。
「お待たせしました」
膝を抱えたままぼんやりとしていたイルカの耳に、ばさりと入り口に掛けてある布を潜る音が聞こえた。そうしてそれと共に聞こえてきた声。かちゃかちゃと堅い物の触れ合うような音。首を巡らせて振り返れば茶器をお盆に乗せて近寄ってくるカカシが見えた。
風に揺れる銀の髪。ぼんやりと見つめたままのイルカにほんの少し首を傾げてカカシはすとんと隣に収まった。
「どうかしましたか?」
ついとイルカに視線を投げて、それから手元に視線を落とす。
ポットから立ち上る温かい湯気。鼻孔をくすぐるのは茶葉の香気。黙ったままカカシの手元を見つめるイルカをどう思っているのだろうか。カカシはごくごく機嫌良さそうにお茶の支度をしていた。
「とっておきの葉っぱなんですよ。ちょっと前に荷を預かった商人から新茶を少しだけ分けてもらえたんです。いい匂いでしょう」
笑いながらカカシはポットからカップに紅茶を注いだ。黄金の液体が注がれた白い磁器のカップは丈が深くぽってりと厚い。濃い青色で模様の描かれたそれはどう見たって遠い異国から運ばれた物だった。たっぷりのミルクを混ぜて柔らかな色に落ち着いたお茶をカカシはすいとイルカの前に差し出した。
「どうぞ、今日は何も入ってませんから」
言われた言葉の意味を取り損ねてイルカは差し出されたカップを大人しく受け取る。丸めていた背筋と足を伸ばしふと横を見ればカカシがこくりと紅茶を嚥下したのが目に映った。
何も入っていませんとカカシは言ったのか。ぼんやりと思考を巡らせて、ようやく初めて出会った日の事に行き当たった。
あの時水に混ぜ込まれていた薬。イルカの自由と理性を奪った薬。動揺にわずかに手が震えたけれど、イルカはそれをようやく抑える。
イルカの動揺に気が付いていたのか、カカシは思いの外優しい笑みを浮かべて言った。
「熱い方が美味しいですよ。あとこれもね」
差し出されたお皿に載っていたのは甘いお菓子だった。
わずかに強張った身体からようやく力が抜ける。本能に刷り込まれた恐怖は全然消えてはいない。あの恐ろしい時間を忘れることなんてきっと出来ない。
けれどカカシとこうして過ごす穏やかな時間はイヤじゃないとイルカは思っていた。ただこうした当たり前みたいな触れ合いに憧れているだけだとは分かっていたけれど。
何気ないカカシの優しさはどうしてかイルカの心にじんわりと染みた。
「ありがとう、ございます…」
甘い甘いお菓子をぱくりと囓ってイルカは温かい湯気の立つお茶にようやく口を付けた。身に染みる柔らかな甘み。
奴隷になったというのに、家にいるよりずっとずっと大切にされている。カカシの淹れてくれたお茶は過去に飲んだどんなお茶よりも美味しくて、イルカはどうしていいのか分からずにほんの少しだけ途方に暮れた。
「あの、聞いてもいいですか?」
さくさくとお菓子を噛み砕いてイルカはふと隣に黙って座るカカシに問いかけてみる。答えが返ってくるかどうかは分からなかったけれど。
「どうぞ?」
お茶のお代わりを継ぎ足しているカカシ。
白磁のポットを掴む指先は平たく骨張っているけれど、ひどく白い。カカシの出自はどこか異国なのかも知れない、とイルカは思った。砂漠にあってこれだけ白い肌をしているのだから、きっと元々色が白いのだろう、と。
「オレは奴隷なはずなのに、どうしてこんな風に丁寧に扱うんですか?」
ポットをテーブルの上に置くとカカシはカップを持ち上げてイルカを覗き込んだ。
白い肌、白銀の髪。長い前髪に邪魔されて左目は見えなかったけれど深い藍色の瞳に自分が映っているのが分かる。ずっと気が付かなかったけれどなんて綺麗な人なんだろう。人としておおよそ持ちうる限りの美貌を兼ね備えているんではないだろうか、とイルカは思った。無駄のないしなやかな筋肉に包まれた身体。声は甘く滑らかで低い。
「そりゃまぁ、アンタがまだ本当は奴隷じゃないからです。売り払われたといっても当然非公式なわけだからいろんな書類が整うまでに二週間ぐらいかかる」
湯気の立つ温かいお茶をわずかに含んでカカシはソファーに身を沈めた。柔らかすぎるほどのソファーに埋もれたままカカシはお茶を啜っている。
イルカはカカシの言葉の意味を取り損ねて首を傾げた。書類が整わない、だから売りに出せない。それならば分かる。自分がここに留め置かれる理由はそこにあるのだろうと思う。
けれど、でも。なぜそれがイルカを丁寧に扱うことに繋がるのかは全く分からなかった。
「それ以上は今はちょっと秘密です。内緒」
悪戯っ子のように笑うカカシは、けれどどこか絶対の拒絶を含んだ目でイルカを見る。だからイルカはそれ以上は何も問いかけることが出来なかった。
* * *
まず、キスの仕方を覚えさせられた。次は口淫の仕方。後ろでの快楽を覚えさせられ男を喜ばせる手管を覚えさせられた。
直接的な暴力を振るわれることはなかったけれど、少しでも逆らえばもっと酷い目にあった。嬲るだけ嬲って射精を塞き止められるのだ。あの、堅くて長い指がイルカの根本を塞き止める。泣いて懇願して許しを請うてイかせてもらえるときもあれば、気を失うまでそのまま責め立てられることもあった。
上手くできれば優しく髪を梳いて、いい子だね、とカカシは言う。必ずそうやってイルカを甘やかす。
出会ったときカカシは自分を調教するのだといったけれどそれは少し違うとイルカは思った。これは調教なんかではなく、多分躾なのだ、と。男なのに同じ男に股を開いて喜ばせるように躾られているのだ。犬に躾をするように、手酷い仕打ちと甘い言葉でイルカを躾ている。
カカシのことを憎いと思うのに、彼から受ける優しい言葉がどうしてかイルカの心にはひどく染みた。甘やかされ、優しくされるから手酷い仕打ちに耐えられない。
優しくされることに慣れていないから。ずっと独りぼっちだったから。
仮初めでも与えられた温もりは心地よく、だから酷いことを言われるのはなお辛い。
優しくして欲しくてイルカはカカシの言う通り従順に快楽を覚えざるをえなかったのだ。浅ましい身体。浅ましい心。
心はすっかり麻痺したまま、けれど慣れた温もりから手放される日がそう遠くないことも分かっていた。
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