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 味気ない朝食を取ってシャワーを浴びるとようやく人心地ついたような気がした。さして重たくはない鉄の輪が気にならないといったら嘘になるけれど。
 拘束具に取り付けられた鎖は思いの外長くこの部屋の中くらいだったら自由に動き回れるくらいはあった。
 下着も着けず着物を羽織っただけの格好はどこか心許なかったけれど、新鮮な空気に触れたくてイルカは部屋の一面を覆う窓に近付いた。
 窓は入り口から向かって右側の壁を埋めている。柔らかい絨毯の上を歩くと、鎖の触れ合うちゃらちゃらという音がした。きわめて不快なその音をなるべく聞こえないふりをしてイルカは窓に手を掛ける。
 窓の取っ手を掴んで押し開くと、そこはバルコニーだった。
 イルカのそばを乾いた風が吹き抜けていく。熱い、乾いた風が。中天に差し掛かった太陽は白く白く輝きを放っている。窓から見える風景のなにもかもを白く染め上げるように。
 ごうごうと吹き込む風にほんの少し目を細めてイルカはバルコニーに出てみた。足の裏に感じるバルコニーの床のひやりとした感触が気持ちいい。手摺りのところまで歩くと眼下に街の風景が見下ろせた。
 一階ではないのか。逃げられないとは分かっていたけれど、ほんの少しその事に落胆する。真下を見下ろせばそれほど広くないけれど丁寧に手入れされた庭が見えた。視線を動かせばバルコニーに平行して玄関があるのが分かる。この部屋の方が玄関よりも少し迫り出したところにあるらしい。
 この部屋からは屋敷に出入りする人間が全て見えるのだ。何か、特別な部屋なのかも知れないな、とイルカはふと思った。そうしてしばらくぼんやりと玄関を眺めていたけれどこの屋敷に入る人間はおろか出て行く人間の気配すらない。玄関の扉は固く閉ざされたままで、その事にもイルカは小さくため息を漏らした。
 諦めようと思っても諦めきれない渇望が胸をちくりと刺す。無限に広がりを見せる風景はイルカにいらぬ願望を抱かせた。足首につけられた鎖をじっと見つめてイルカはそっと手摺りから離れる。
 諦めるしかないのだ。言い聞かせるようにイルカは唱えた。
 諦めるしかない。自分は誰かに売られるときまで決してここから出ることは叶わないのだから。
 外の風景を見ているといつまでも未練が胸を焦がすようでイルカは急いで部屋に戻った。
 低いソファーに腰掛け改めて部屋の中を見回す。
 広い部屋。イルカが屋敷で宛われていた部屋よりも遥かに広い部屋。敷いてある絨毯も置いてある家具もなにもかもが高価であることが一目で分かった。奴隷商人てのは随分と儲かる商売なんだな、とイルカはぼんやりと思う。ここにあるなにもかもが自分と同じように売られてきた人間を売り払った金で買ったものなのだろう、と。
 ソファーに沈み込んでいると急激な眠気が襲ってくるのを感じた。疲れているのだろうと思う。緊張と、慣れない性交のせいでイルカの身体はまだ眠りを欲している。
 このままここで眠っても良かったけれどきちんとベッドで眠った方が疲れが取れるだろうと思った。白々と日に照らされたベッドには昨日の情交を思い出させるものはほとんどなく、イルカはふらふらとそこに近付いた。
 そうしてふとベッド脇にあるもう一つの窓に目をやる。サイドボードの横、大振りの頑丈そうな机の丁度真上にもう一つある窓。
 何気なく見た窓からの風景にイルカはどことなく違和感を覚えた。
 なんだろう。けれど違和感の正体を探るよりも、身体の欲求の方が勝っていた。起きてから考えよう。
 そう思ってイルカは柔らかなベッドに身を沈めたのだった。



    * * *



 その日の夜も翌日もイルカはカカシに抱かれた。最初の日ほど手酷く抱かれることはなく、優しいと言っていいほどのカカシの態度はイルカの心をひどく傷つけた。
 ゆっくりと確実にイルカに快楽を植え付けるカカシ。大事な商品だからね、とカカシは言うけれど、どういう理由であれ優しさを与えられることはイルカの心をますます疲弊させていく。
 カカシを憎めなくなりそうで。優しさに馴れない心は憎い男が与える優しさにさえ悦びを覚えるから。
 閉じこめられた空間は孤独で淋しく、カカシの気配にすら安堵を覚えてしまう。
 死んでしまえればいいのに。死ぬ勇気も持てないくせにイルカはそんなことを思う。何もかもから解放されたくて、でも出来なくて。カカシに逆らう事も出来ないまま孤独を紛らわすようにイルカは目を閉じた。
 眠っているときは孤独も恐怖も息苦しさも忘れられるから。疲れた身体は都合よく眠りを欲してくれるから、イルカはそうして一日の大半を寝て過ごしていたのだった。



    * * *



「随分と御執心のようですが…」
 目の前に立ったエビスはいつものように不機嫌そうな顔をしたまま、中指でくいとサングラスを押し上げた。咎めるようなその口調に、カカシは書類に落としていた視線をちらりと上げる。
「何の話?」
 上げた視線をすぐに戻してカカシはそう嘯いた。
「商品であるということをお忘れないよう」
 ぱらぱらと書類を捲るカカシの目の前に、エビスはどさりと追加の書類を置いた。
「ちょっと、なにこの量」
 エビスの言葉を無視して抗議の声を上げれば、冷たい視線に晒される。
「最近別宅の方へばかり入り浸って、仕事に身が入らない方がおられるようでね。そのせいでこんなにも未決済の書類ばかりが溜まっているわけです」
 人差し指でとんとんと書類を叩かれ、カカシは溜息を吐き出した。
「入れあげてるって言うけどね。お前も随分と親切じゃない、あの人に」
 見ていた書類を放り出してカカシは椅子の背もたれに体重を預ける。
「…随分とお疲れのようです。もう少し気を遣っておあげなさい」
 僅かに口を噤んだ後、エビスは珍しくもそんなことを言った。
「どうしちゃったわけ?自分で言ったから分かってると思うけど、アレは商品だよ?」
 エビスの言葉を勘ぐるようにカカシは訝しげな視線を投げる。カカシの言葉にエビスは小さく溜息をついた。
「随分と疲れているように思います。あのままでは体力が持たない。そう思ったまでですよ」
 溜息混じりに吐き出された言葉に、カカシはふぅんと興味なさげな返事をした。エビスの表情にはどこか諦めが滲んでいる。
「何がそんなに気に入ったのか知りませんが、これ以上仕事に差し障るようならばアスマ殿に引き取って貰うよう手配しますぞ」
 もう一度くいとサングラスを押し上げたエビスにカカシはやる気なく手を振った。
「いい身体、してんだよね…」
 ぽつんと落とされた呟きを無視して、エビスはそのまま踵を返す。やってられない。
 どこかぼんやりとした主の姿に、どうにも良くない予感が過ぎるのをどうやって止めたらいいのかエビスにも分からなかった。



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