* * *
瞼に覆われた眼球に感じる光の多さにイルカはようやく眠りから覚めた。否、眠りから覚めたというよりはようやく意識を取り戻したといった方がいいかも知れない。犯され続けた身体は結局意識を手放すことで解放されたのだ。
身動ぐだけで軋みをあげる身体にイルカは溜息を漏らした。
今はいつ頃なのだろう。ぼんやりと首を巡らせると壁一面を覆った窓から午前の陽光がさんさんと降り注いでいた。
昨日まだ日の高いうちからカカシに犯された。どのくらい長い間その責め苦を受けていたのかイルカにはもう分からなかったけれど、信じられないくらいの絶望がその胸を満たしている。
カカシは確かに、酷いことをするとイルカに告げた。優しくしようと思ったけれど、酷くする、とわざわざ告げた。あの時は自分が売られた事に対する衝撃でこれ以上の酷いことなどある訳がないと思っていたけれど、カカシの言葉の正しさを今になって理解した。
快楽に乱れた身体。イヤだと頭では思っていたのに、身体は易々と思考を裏切ってカカシの手に落ちた。薬のせいだと思いたかったけれど、まざまざと甦る自分の痴態にイルカは吐き気さえ覚えた。
本当にイヤだと思っていたのだろうか。自分の思考すらあやふやでイルカは知らず重い溜息を漏らす。
アレは暴力ではなかった。痛みすらも凌駕する愉悦を貪る身体。無理矢理突っ込まれた時でさえ最後には快楽を拾い上げていた。
たった一夜にしてイルカの身体は男を受け入れるように作り替えられてしまったのだろうか。あの、カカシによって。
それは何という絶望。痛みは堪えられる。きっと、どんな痛みだっていつかは癒えるのだから。
けれどこの身体は男を受け入れることを悦んでいる。なんて浅ましい、醜い、汚らしい自分。
死んでしまいたかった。もうこのまま誰にも必要とされずただ玩具のように犯され続けるのならば、死んでしまいたかった。
死んでしまおうか。イルカはふと思う。自分をこの世に留め置くものはもう何もない。このままこうして自分の意志とは関係なく身体が裏切り続けるのなら、いっそここで死を選んでしまおうか。
それはとても甘美な誘惑に思えた。そうすればもう何も辛くない。肉親の裏切りも肉体の裏切りもカカシの嘲笑ももうこれ以上受けなくて済むのだ。舌を噛み切ってしまいさえすれば。
恐ろしいほどの絶望感に苛まれながらけれど涙は出なかった。イルカにはそれが不思議なことのように思えた。あまりにも深い絶望に晒されたとき人は泣くことも出来ないのだろうか、とふと思う。そうしてどろりと濁った思考にイルカが引き込まれたとき、不意に知らない男の声がした。
「失礼します。もうお目覚めですか?」
高くもなく、低くもない声。平坦で整った声だと思った。どこから、と思って入り口をみるとカカシと同じくらいの身長の男がこちらに向かってすたすたと歩いてくるのが見えた。
淀みない足取り、真っ直ぐに伸ばされた背筋。短く切られた漆黒の髪。そうして顔には室内だというのになぜかサングラスをかけていた。
その男はベッドの脇までやってくるとイルカを見下ろして、くいと中指でサングラスを押しあげた。
「お目覚めですか?」
見下ろしたまま礼儀正しくそう訊ねる男に、イルカはシーツにくるまったまま、ハァ、と気の抜けた答えを返すのがやっとだった。
「お目覚めならば朝食をお持ち致しましょう。それとこれを」
そうして男は手に持っていた前開きの薄い綿の着物をイルカに手渡す。見たこともない着物だとイルカは思う。へんてこなものだが手触りはよかった。
「洋服の類は着用しないようにとのことです。その代わりにこれを。バスルームとトイレはあちらにございますのでお好きなようにお使い下さい」
てきぱきとした態度にイルカはどうしていいのやら分からない。
「それでは朝食をお持ち致しますのでしばしお待ちを」
言いたいことだけ言って男はくるりと踵を返した。その後ろ姿にイルカは慌てて声をかける。
「あ、あの…!」
イルカの言葉に反射的に足を止めて、男はきっちりと体の向きを変えた。
「何か?」
柔らかく問われている訳ではなく、イルカは一種威圧的ともとれる男の態度にほんの少し言葉を紡ぐのを躊躇した。
「あの、あなたは一体どなたですか?」
聞きたいことはおそろしく沢山あったけれど、イルカに問いかけられたのはそんなことだった。込み入って色々聞けるような雰囲気ではない。
「あぁ、これは失礼致しました。私はエビスと申します。カカシ様よりあなたの身の回りの世話を言い付かっております。何か不自由がありましたら何なりと申して下さい」
そう言ってエビスと名乗った男は、また、くいとサングラスを押し上げる。彼の癖なのだろうか、とイルカはふいに場違いなことを思った。
そうして思う。何なりと、というのならば、自分の一番の願いを叶えてくれないだろうか、と。無理だとは分かっていたけれど、イルカはそれでもエビスに問うた。
「そう仰るのなら、ここから出しては頂けませんか?」
ぽつりと呟いたイルカにエビスは僅かに沈黙する。
「申し訳ありませんが、それには主の許可がいります。許可さえあればあなたを解放することも可能ですが…。おそらくそれは無理だろう、と思います」
努めて冷静に答えを返したエビスにイルカはほんの少し笑った。諦めを滲ませたその笑みにエビスは慰めるように言葉を続ける。
「主は、カカシ様は悪いお方ではないのですが、どうにも性格がよろしくない。あなたに辛く当たることもあろうかと思いますが、早まった判断をなさいませんよう」
こぼれ落ちたエビスの言葉にイルカはふと視線をあげた。
「お疲れのようでしたら朝食はもう少し後になさいますか?」
問いかける口調はどこか優しく聞こえた。
「……どうして、私にそんなにも丁寧な態度を取るのですか?」
私はここに売られてきたのに。ぽつりと呟くイルカにエビスはほんの少し複雑な表情を浮かべた。
「その事について今私から申し上げることは出来ませんが…。そうですね、主にもう少しあなたに優しくするよう申しておきましょう」
それはエビスの見せた明らかな気遣いだった。
どうして、と思ったけれどそれについて答えてもらえないことがイルカには分かった。少なくとも、今はエビスからこれ以上のことを聞くのは無理だろう。
「それよりも朝食はどうなさいますか?あなたの健康を損なうようなことがあったら主から叱られてしまいますからね」
その口元に笑みを浮かべてエビスはそう言う。その言葉と表情にイルカはふと力が抜けたような気がした。きりきりと張り詰めていた何かが不意に弛んだ感触。
死んでしまいたいくらい辛い境遇かも知れないけれど、さっきのように切羽詰まって死にたいと、今は思わなかった。
「では、頂きます」
ゆるりと笑みを浮かべてそう返したイルカに僅かに頷いて、今度こそエビスは立ち去った。
淀みないその足取り、しゃんと伸ばされた背中。印象だけでは随分とエビスの方が背が高く見えるのはカカシの姿勢が悪いせいだ、とイルカは今更ながらに思った。
そうしてエビスの言葉を反芻しながら思う。カカシという人は本当はいったいどんな人なんだろう、と。
そうして自分の置かれている境遇について。売られたという割にはどうしてこんなにも大事に扱われるのかが分からなくて、イルカはため息を落とす。
分からないことだらけだ。
けれど、カカシに抱かれることを除けば家にいるときよりもずっといい暮らしをしている。ぼんやりとイルカはそんなことを思っていた。
程なくしてエビスが朝食を運んできた。立ち上がろうとするイルカを制してエビスはそれをベッド脇のサイドボードに載せる。
「あとで朝食を下げに来ますので何か用事がありましたらその時にでも申しつけて下さい」
その顔には先ほどのような柔らかさはない。怒っている訳ではなさそうだからこの人は元々こういう不機嫌な顔の人なのかも知れないな、とイルカは存外失礼なことを心の中で呟いた。
「ありがとうございます」
イルカがぺこりと頭を下げるとエビスも小さく腰を折る。そうしてそのまま先ほどと同じようにきびきびと出て行ってしまった。
そろそろと身を起こしてサイドボードの朝食を取ろうとしたとき、イルカは右の足首に僅かな違和感を感じた。
なんだろう。不思議に思ってシーツを捲れば鉄の輪に拘束された自分の足が見える。その刹那、心臓がひやりと冷えたような気がした。
これはなんだ?
けして細くはない自分の足首にまとわりつく無骨な金属。鈍く光るそれを見たとき唐突にひどい嘔吐感に襲われた。
慌てて口元を押さえてベッドに身を投げ出すとイルカは小さく息を吐き出した。
囚われの身なのだ。いくら親切に丁寧に扱われようと自分は奴隷でここに囚われているに過ぎない。
分かっていた、分かっているつもりだったけれど今ようやく身に染みてそれを実感したような気がした。
犯されたときよりも尚深く。あの時のように思考が混乱している訳でもなく、薬を盛られている訳でもない。正常な思考の元、日の光に晒されたそれは何よりも如実にイルカの立場を語っていた。
ごとん、とイルカの胸の中に重しが落ちた音がした。
囚われている。売られ、辱められそうして囚われたままここで犯され続け、また売られていくのだ。
理解したくなかったその事実がその時すんなりと心の中に落ちた。あぁ、売られたのだ。そう思った。どこにも行けないのだ。自分はここに囚われたまま。
痛む身体を叱咤して無理矢理身を起こすとイルカは深く深呼吸した。抗いがたい運命が自分の上にのし掛かってしまったことが、今はただ悲しいことに思えて。
けれど自分を哀れんで流す涙も持ち合わせず、イルカはくしゃりと硬い髪を混ぜた。
朝食を食べよう、と思う。朝食を食べてシャワーを浴びて、そうしてきちんと現実と向き合わなくては。
相変わらず幸福とやらには見放されているらしい、とイルカは自嘲気味に笑った。
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