確か自分は使いに出ていたはずだ。第二夫人から頼まれて身の回りのものを市場に買いに行き、言いつけられた買い物がようやく済んだのは太陽が西に傾きかけた頃。また、愚図だ何だとどやされるな、と思いながら自分は家路を急いでいたはずだったのだ。
そこからの記憶がすっぱりと切り取られたように抜け落ちている。自分は間違いなくそこで攫われたのだろう。これほど見事に記憶がないところをみれば薬でも嗅がされたに違いない。物思いに耽りながら咀嚼していた果物はいつの間にか種だけになってしまっていた。
「まだ食べますか?」
不意にカカシの声がして、手の平に残された種がひょいと摘み上げられる。
「あ、いえ、もう結構です。それよりも、その、私はこれからどうなってしまうんですか?」
愚問だ、とは思った。攫われて運び込まれた先。つまりそれは奴隷商人の所に違いない。その奴隷商人にこれからどうなるか聞くなんてホントに馬鹿げている。
けれどカカシの親切な態度にイルカは警戒心をいつもよりも弛めてしまっていた。イルカの言葉にカカシはくすりと人の悪い笑みを浮かべて濡れたタオルを差し出した。
「手、べたべたになってますよ。どうぞ」
質問には答えないままカカシはまだ親切な態度を取る。ひょっとしたら、そう悪いようにはされないのだろうか。馬鹿げた希望だと分かっていたけれど、そう思わずにはいられなかったし、そう思えるほどにはカカシの言動は優しかった。
湿ったタオルで手を拭ってイルカはもう一度カカシを見る。答えの続きを促すように。
ゆるりとイルカの視線はカカシと交わった。カカシは視線を外すことなくイルカからタオルを受け取るとテーブルに放った。
「どうなるか、聞きたいですか?」
カカシはにい、と口元を歪める。笑ってるように見えるけれどそれは恐ろしく無表情にも見えた。
「はい、それに私は、本当に売られてしまったのでしょうか?」
一見優しいように見えるけれどカカシは全然優しくなどないのかも知れない。底冷えするような視線に晒されて、イルカはほんの今まで抱いていた僅かな願望を捨てた方がいいのかも知れないと思う。
カカシはイルカを見つめたままソファーの背もたれにゆったりと身を沈めた。
「何を期待してるのか知りませんけど、アンタは間違いなくここに売られてきたんです。売られるって事がどういうことかぐらいアンタにもわかるでしょ?」
からかうような響きすら滲ませたカカシの台詞にイルカは言いようのない怒りを覚えた。
「……奴隷に、なるんでしょうか」
極力抑えたつもりの声はけれど突然湧き上がった怒りに僅かに震えていた。
なぜ、なぜこんな目に遭わなくてはならないのか。いつだって自分を押し殺して生きてきたではないか。目立たず主張せず主の血を引いているにもかかわらず何一つ贅沢などしなかったではないか。召使いと共に暮らし、食べるものも着るものも父達とは比べものにならないほど貧しいものを纏っていたというのに。
どうして、それなのに。あまりにもひどい仕打ちだと思った。
「ご名答。分かってるじゃないですか、アンタ奴隷になるんですよ」
軽く言い放ったカカシの台詞にイルカはかっと頭に血が上ったのを感じた。どうしてこんなひどい目に遭わなくてはならないのか。誰も誰も誰も、あそこでは優しくなどしてくれなかった。父も父の大勢の妻たちもその子供たちも自分からは一線を引いていた。共に暮らしていた召使いたちも主の血を継ぐ自分をどこか違うものとして扱っていた。屋敷で暮らす、多くの奴隷たちも。けして自分には近付かなかった。
あの広大な屋敷で一人。淋しくて辛くて、けれどそれでも血の繋がった父がいるからと堪えてきたのに。
どうして。
「辛い?悲しい?それとも腹立たしいの?でもこんな事はよくある話ですよ」
何もアンタが特別不幸ってわけじゃない。
見透かしたようなカカシの言葉にまた頭に血が上る。口を開けば何かひどくみっともないことを喚きそうでイルカは唇を噛み締めた。
「しかもね、アンタは性奴隷だ。腹の出た脂ぎったおっさんにケツの穴に突っ込まれてあんあんよがるのがこれからの仕事になる。可哀想に」
ちっとも可哀想だなんて思ってない口調でカカシはさらりとそう告げた。台詞のあまりの内容にイルカは目眩を起こしそうだった。
性奴隷、と言った。どこまで貶めれば気が済むのか。ただの労働奴隷ならいざ知らず、男に犯されろというのか。
怒りで頭がくらくらしていた。誰にこの怒りをぶつけたらいいのか、それすらも分からない。言葉もなく身を震わせるイルカにカカシは畳みかけるように言葉を紡ぐ。
「アンタも可哀想だけど、オレも可哀想だ」
その言葉にイルカは思わず顔を上げた。
なぜ、カカシが可哀想なのか。少なくとも自分と同列に並べるほどにカカシが可哀想だとは思えない。
訝しむようなイルカの視線にカカシは人の悪い笑みを浮かべた。
「アンタを仕込まなくちゃならないんだから」
仕込む、とカカシは言った。自分を仕込むと。深すぎる怒りに囚われていたイルカにはその言葉の意味を理解することが出来ない。
「ホントに可哀想ですよ。アンタみたいな野暮ったい男を相手にセックスしなくちゃならないんだから」
そうしてカカシはくつくつと笑う。可哀想だと自分を憐れむわりにその表情はとても楽しそうに見える。
ようやくカカシの台詞の意味を理解してイルカは怒りと羞恥に顔を真っ赤に染めた。
「なっ!あ、アンタにそんなこといわれる筋合いはない!」
怒りのままに吐き出してイルカはソファーから勢いよく立ち上がった。
馬鹿らしい。売られたか攫われたか知らないがどうしてこんな茶番めいたことに自分が付き合わなくてはならないのか。
奴隷、言うに事欠いて性奴隷とは冗談にしてもタチが悪すぎる。大体ホントに自分が売られてきたなどという証拠はどこにもないではないか。目覚めてから、嗅がされた薬のせいか妙にこの男のいうことを信じてしまっていた。けれど本当に自分が売られるなんて事あるはずがない。イルカはまだ怒りに震える身体を一度両手で抱きしめてから踵を返した。
「どこに行くんですか?」
怒り狂うイルカとは対照的にひどくのんびりとした声が耳朶を打つ。
そうして腕をぐいと掴まれた。その事にイルカはさらに怒りを深めた。
「帰るんです!こんな茶番には付き合っていられない!大体オレが売られたなんて証拠はどこにもないじゃないか!」
捲し立ててイルカは掴まれた腕を振り解こうとした。けれど。
掴まれた腕は振り払うどころか動かすことも出来ずイルカは愕然とする。
「帰るところなんてありゃしませんよ。オレの言葉を信じる信じないはアンタの勝手ですけど確かにアンタはここに売られてきたんだ。そうなった以上アンタを高値で売り払うまではここから出すわけにはいかないよ」
振りほどけない腕にイルカは本能的な恐怖を覚えた。売られたとか攫われたとかは問題じゃない。それが真実であろうとなかろうと、ここから出ないことには自分は奴隷の身分に落とされてしまうのだ。
イルカはゆっくりと振り返ってカカシを見る。相変わらずカカシの表情に大きな変化はみられなかったけれど、逆にそれが恐ろしい。
「アンタは売られてきたんです。その事を分かって貰わないと」
にやりと歪められた口元を凝視して、イルカは唇を噛み締めた。悔しいけれど何気なく掴まれた腕は振り払うことも叶わず、イルカにはこの状況を打開する手段がまるでない。せめてもの抵抗にイルカはぎりぎりとカカシを睨み付けた。
「そういう挑戦的な態度も悪くないけど、アンタみたいに商品価値の低いモノを調教するこっちの身にもなって下さいよ」
切れるほどに噛み締めた唇をゆるりと撫で上げ、溜め息を吐くように目の前の男は言い放つ。まるで欠陥品のようなその言い方にイルカは思わず声を荒げた。
「さっきから聞いてれば何だ!商品価値とか調教とか!人をなんだと思ってるんだ!」
噛み付くようなイルカの台詞にもカカシはにやにやといやらしい笑みを浮かべるばかりだった。
「商品ですよ、アンタは。けどね、価値は低いよ。十代の生娘とはいかなくても女ならまだしも男でそれも二十を過ぎてるなんて、よっぽど後ろの具合でも良くなきゃ誰も買ってくれないでしょ?せっかくの貴族だってのにこのままじゃホントに商売にならない」
唇をなぞったカカシの手はそのままイルカの頬を滑った。
「これからアンタをよく仕込んでせいぜい高値で売りつけないと赤字ですよ。ホントこんなの寄越してどういうつもりかな、あの男は」
くつくつと堪えきれない笑いを零して、カカシはイルカを拘束していた腕をおもむろに解いた。
「逃げるなら逃げてもイイですよ。ただアンタは売られたってことを忘れないでネ。アンタにはもうどこにも戻る場所はないんですよ」
今なら逃げられる。そう、今なら。
けれどカカシの言葉にイルカは身動きすら取れなくて呆然と立ち尽くした。カカシの言う事が本当ならばイルカにはもう帰る場所すらないのだ。
それどころか。
「さて、アンタのそのやたらに高そうな矜持をめちゃくちゃに壊してしまわないとね」
にたりと笑ってカカシはイルカの首をつうと撫でた。その感触に思わず身を震わせる。
「そうだね、まず、…じゃあ服脱いで」
「なっ!」
反論の余地を与えない冷えた瞳がイルカを捕らえた。
「ホラ、早く」
逃げなくては、そう思うのに体は動かず、けれど服に手をかけることも出来ないままイルカはイヤな汗が背中を伝うその感触にただ身を震わせていた。
何をいきなり言うのだろう。さっきまで、ほんのついさっきまではとても親切にしてくれていたのに。一瞬の隙に人が入れ替わってしまったかのようにカカシの態度もころりと変わってしまった。
それがとても恐ろしかった。けれどだからといってここで簡単に服を脱いで犯されるわけにもいかない。
そう、逃げなくては。この先二度とあの家には戻れないとしてもここで大人しく奴隷になるわけにはいかないではないか。
きょとりと不安げに視線を揺らめかしたイルカをカカシはまだ面白そうに見つめていた。
「オレが優しいうちに言うことを聞いておいた方がイイよ」
伸びすぎて肩に付くほどになったイルカの黒い髪をカカシは一房手にとって言う。ぞくりと恐怖に背筋が強張るが、イルカはきつく唇を噛み締めたまま睨むようにカカシを見据えた。
奴隷ではない。自分はけして奴隷などではない。だから。
髪を掴んだカカシの手を振り払ってイルカはおもむろに駆け出した。どこでもいい、ひとまずこの男から逃げなくては。そう思って。
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