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    * * *



 視界に写る景色の曖昧さに、イルカは自分が覚醒しつつあるのを感じた。いつの間に眠っていたのだろう。目を閉じていても感じる光の多さからしてまだ日の落ちきった時間ではない。むしろ日はまだ高いだろうと思う。
 ではなぜ自分は眠っていたのだろうか。なぜ?
 疑問は徐々にはっきりとしてくる風景にますます深まった。視線が捉えたのは見覚えのない風景。背中に感じるのは常よりも柔らかなベッドの感触。
 ここは、どこだろう…。
 天井からはベッドを覆い隠すように真っ白な布が垂れ下がっている。そのせいでイルカには天井の色を確認することが出来なかった。こんな風景をイルカは知らない。まだぼんやりとしたままの頭を横に向けてみると、広いベッドの端に誰かが腰掛けているのが見えた。
 見覚えのない人だった。無造作に跳ね上がった銀の髪。すらりとした体躯。腰掛けた姿勢は少し猫背で、手に持った書類を覗き込んでいるようだった。
 思考がはっきりと覚醒しない。その事にイルカは苛立ちを覚える。いつもならばこんなにも寝起きが悪いなんて事ないのに。自称するのもどうかと思うが寝起きはかなりいい方だ。なのに、今日に限ってなぜ。
 見覚えのない部屋、見覚えのない他人。いつ眠ったかさえはっきりしないのはどうしてなんだろう。あの人はその理由を知っているのだろうか。
 ベッドに腰掛けたままぺらぺらと紙を捲る人物を見ながらイルカはぼんやりと思った。声をかけるのも何となく憚られてイルカは視線だけでその後ろ姿を辿る。
 どうしようか。声をかけてもいいんだろうか。
 イルカがぼうっとしたままそんなことを思っていたら、ふいに腰掛けていた人影が振り向いた。振り向いたその人がイルカの視線を捉えてほんの少し驚いたような顔をする。
「気が付きましたか」
 手に持っていた書類の束をばさりと放ると、膝をついてイルカの方ににじり寄ってくる。
「というか、いつから気が付いてたんです?」
 イルカの顔を見下ろす位置までやってきて銀の髪の男はそう聞いた。
「…あ、あの、ついさっき…」
 口を開いてそれだけ言うのがやっとだった。さっきは気が付かなかったけれど喉がからからに渇いていて上手く言葉を喋れない。けれどイルカは掠れた声のまま、目の前の男に話しかけた。
「……あの、失礼ですけど、ここ、どこですか?それにあなたは?」
 話すだけで頭がくらくらした。寝起きで混乱しているだけではない。薬を嗅がされたのだろうか。どうにもそう考えた方が自然なくらい自分の身体が思うようにならない。
 自分の状態が常とはあまりにも懸け離れていて、ようやくイルカは事態が思うよりも深刻なのではないかと気が付いた。
 急に表情を曇らせたイルカに男は面白そうに顔を歪める。
「オレの名はカカシと言います。ここはオレの家ですよ」
 カカシと名乗った男はそう言ってにこりと笑った。見下ろす男は笑ってはいたけれど、それはどこか底冷えのするような笑みだった。
「その、どうして私は、あなたのお宅に……?」
 よくない予感がひたひたと胸に寄せる。いまいちぼんやりとした感の抜けない思考。目の前の、どこか恐ろしいような気配を纏う男。
 不意に脳裏を過ぎった仮説にイルカは小さく頭を振った。
 そんなはずはない。
「あぁ、アナタね、道で倒れてたんですよ。たまたまオレがそこに通りかかりまして、ね」
 にこりと笑ったままカカシはそう言った。その言葉にイルカは僅かに安堵する。
 あぁ、倒れのか。丈夫だけが取り柄だと思っていたけれど、無理をしすぎたんだろうか。強張った表情を弛めてイルカは男に笑いかけた。
「それはとんだご迷惑をおかけしまして…」
 そう言ってまだ力の入らない体を無理に起こそうとしたとき、カカシは盛大に吹き出した。
「あはは、アンタホントにそんなこと信じてんですか?」
 カカシはベッドに突っ伏してげらげらと笑っている。呆然としたまま状況の飲み込めないイルカにカカシはようやく笑いを引っ込めて言った。
「そんな都合のいい出来事あるわけないでしょうが。アンタ売られたんですよ」
 何が可笑しいのかカカシはまたくつくつと笑い声を漏らす。
「……う、売られた…?」
 カカシの言葉が巧く飲み込めない。この男は、一体何といったのか。売られた。呆然としたままのイルカにカカシはずいと顔を寄せた。
「そう、売られたんですよ。貴族の中ではよくある話です。正妻が妾の子供を売り払うなんて事はね」
 透けるような深く青い瞳がひたりとイルカを捕らえる。カカシが言ったことが巧く飲み込めないままイルカは、よくある話、と口の中で繰り返した。
「跡継ぎが増えるのがイヤなのか単に目障りなのかは知りませんが、貴族の妾腹の子はよく売られてきますよ。貴族の子供ってのは妾腹だろうが何だろうがイイ値段になりますからね。こっちも美味しい商売させてもらってます」
 銀の髪の間から青い瞳が覗く。青いというよりは藍に近い瞳の色。にいと笑った表情とは裏腹に、深い深い藍の瞳はちっとも笑ってなどいなかった。
 未だぼんやりとしたままの思考はカカシの言葉を理解することを強固に拒んでいる。呆然としたまま虚ろに視線を投げるイルカにカカシは特に頓着した様子もなく、ふと体を離した。
「腹、減ってませんか?喉も渇いてるでしょう。何か持って来てあげますよ」
 唐突に、本当に唐突にカカシはそう言うとベッドから出て行ってしまった。色々な物事の展開にイルカはついていけないまま、立ち去るカカシの背中を何となく視界に映している。
 売られた、とカカシは言った。本当に自分は売られてしまったのだろうか。イルカは覚束ない思考を無理矢理働かせてそんな風に考えた。確かに自分はあの家で優遇されてはいなかった。優遇されていなかったどころか冷遇されていたといってもいい。そのくらい第二夫人や第三夫人には憎まれていた。
 母親は身分の卑しい女だったにもかかわらず、父の寵愛を受けていたらしいから余計に憎まれていた。母は自分を産んだせいで死んでしまったから、イルカは父親からも疎ましく思われていた。
 イルカの前に父が姿を現さないのをいいことに、イルカは召使いと同じ境遇で扱われていたのだ。そんなことくらいイルカだって知っている。
 けれど、まさか。まさか売られるなんて思ってもみなかったのだ。数多くいる父の妻や父自身からよく思われていないことは知っていたけれど、まさか売られるなんて本当に考えてもいなかった。
 売られたということは自分は奴隷になるのだろう。召使いよりもまだ更に下、一生を主人のために捧げるだけの奴隷に。あまりのことに衝撃すら忘れそうだった。
 そんなにも疎まれていたとは。我が息子を、奴隷に貶めるほどに憎んでいたとは。父のあずかり知らぬところで、彼の妻たちが企んだことなのかも知れないけれど。
 けれど。父はおそらく知っていても止めはしなかっただろうとイルカはひどく冷静に思った。
 底のない沼地に放り出されたように、ずるりとイルカの思考は濁った。事態は酷いとか酷くないとかそういう次元を遥かに超えていて、イルカは現実を放棄したいと思う。
 カカシが最初に吐いた嘘のように、ただ自分は往来で倒れたのだったらよかったのに。たまたま親切な人に助けられ、介抱されている途中ならよかったのに。
 視線を動かす気力も奪われ、イルカはカカシが去った方向をまだ見つめていた。入り口に掛けられた白に近い薄い色の布がひらりと捲られ、出て行ったときと同じように少し猫背気味なカカシがふらりと入ってきた。手には大きめの盆を持っている。部屋の中央に置かれた背の低いテーブルの上に盆を乗せると、カカシはイルカの方に近付いてきた。
「起きられますか?」
 ベッドを覆うカーテンを揺らしてカカシはイルカに問いかける。カカシの問い掛けにイルカは反射的に首を縦に振った。頭は痛むけれどもうそんなに酷くはないだろう。
 けれど腕にはあまり力が入らなくてイルカは縋るようにカカシを見てしまった。
「手伝いましょう。こっちに手を貸して」
 その言葉通りにイルカはカカシに手を伸ばす。細身の体躯のどこにそんな力があるのか、カカシはそのままイルカの手を取ってひょいとその身体を抱き上げた。
 無駄のない動作にイルカは驚きを隠せない。無闇に太ってはいないけれど、自分だってそれほど軽い方じゃないのに。
 イルカの驚きなど微塵も気が付かないままカカシは抱き上げた身体を軽々とテーブルの前に移動させた。カカシは自分の肩にもたれ掛かるようにイルカを座らせると、水がなみなみと注がれたグラスを取り上げた。
「ハイどうぞ」
「………どうも」
 渡された水に口を付けて、ひどく喉が渇いていたことに初めて気付く。こくこくと水を飲み下しながらイルカはふいに思った。どうしてカカシは自分に親切にするのだろう。
 売られた、と言った。カカシは確かにアンタは売られたんですよ、と言ったのだ。ではカカシは、自分を買ったのではないのだろうか。貴族の子供はイイ商売になるとそう言わなかっただろうか。
「果物ぐらいしかないですけど、何か食べますか?」
 空のグラスを握り締めたままぼんやりと考え事をしているイルカに、カカシは不意にそう言った。盆の上にはどっさりと果物が盛られている。イルカの返事も聞かないままカカシはその一つを手にとってするすると器用に皮を剥き始めた。辺りに漂う熟れた甘い匂い。
 どうして。イルカの疑問は解かれないまま目の前に皮の剥かれた果物が差し出される。
「ハイ」
 差し出された果物を手に取ることも出来ないでイルカはカカシを見た。ならばどうしてこんなにも親切にするんだろう。売られたのなら、この男に買われたのなら自分をどうしてこんなにも丁寧に扱うのだろう。
 奴隷ならば今頃はこんな風には扱われていないのではないだろうか。果物はまだイルカの目の前に差し出されたままだった。
 ぴくりとも動かないイルカに焦れたのか、カカシはその手に未だ握られたままのグラスを取り上げる。そうして無理矢理その手を取って果汁の滴る果物を乗せた。甘い匂いが鼻を突く。
「美味しいですよ」
 随分と優しげな口調でそう囁かれてイルカはぼんやりとその果物に口を付けた。かしゅりと音を立てて果物が口の中で崩れる。カカシの言う通り果物は十分に熟れて甘く美味しい。口の中に広がる果物の甘みを飲み込んでイルカはようやくここに至るまでの経緯を思い出した。



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