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adagio in C minor




   ***








 結局里に帰り着くことが出来たのは二十五日の早朝だった。街はしんと静まり返っていたし、カカシもぼろぼろだった。こんな寒い日に異国の神様は馬小屋で生まれたのか〜と感心する。産んだ母も相当根性が据わっていたか、実際産むとなったら場所を選んでいる余裕さえなかったのか下世話な妄想を繰り広げた。
 口から漏れる息は白く、土を踏めば足下で霜柱の折れるざくざくという軽快な音が響いた。殆ど裸木にぶら下がっているような状態だった柿もほぼ収穫されて、軒下で干し柿になっている。鮮やかな色はなくなって、くすんだような彩度の落ちた色合いが街を覆っているようだった。
 ――――疲れた目がそう見せるのかも…。
 カカシはふらふらと一旦自宅に帰る。そこで風呂に入り、体を温めて、湯船に浸かったまま少し眠ってしまい、慌てて着替えて家を出た。
 報告書は先んじて忍犬に持たせてある。カカシが向かうのはイルカの家だった。
 昨日は一人で淋しい思いをしたのに違いないと考えると居ても立っても居られなかったし、疲れなど感じる余裕もなかったのだ。
 まだ店が開いている時間じゃなかったし、土産が売っているような所に任務に行った訳じゃないから、手ぶらだ。もしも食料品が既に尽きているようなら改めて買い出しに出ればいい。
 イルカの部屋の前に立つと、ほんの数日しか離れていなかったのに、妙な懐かしさを感じた。敷居を跨いだことも一度しかないのに、奇妙なことだと思う。
 もしかしてまだ寝てるかな、と思いながらもカカシはイルカの部屋の戸を叩いた。
「イルカ先生〜」
 ほとほとと、空洞を叩いているような淋しい音がする。もう一度叩くと、今度ははあい、と掠れた声が聞こえた。眠っていて起きないようだったら出直しかなと思っていただけに、反応があって嬉しい。暫くそこで忠犬よろしくじっと待っていると内側から扉が開いた。
「ああ、カカシ先生。おはようございます…」
 まだガサガサしている声だったが、最後に会ったときよりも元気そうだった。カカシがナルトに持たせたマスクも使ってくれているようだが、その下に浮かんでいると思われる笑顔が全部見られないのは残念だ。
「具合は、大分良くなったみたいですね」
「ええ。上がって下さい」
 漸く正式にお招きいただいた、と感動しながらカカシは遠慮なくイルカの部屋に上がり、そして、先客の存在に気が付いた。
 居間の絨毯の上に寝袋があり、そこにこんもりと人型に盛り上がっている。まさか間男かと意気込み覗き込んでみると、それはナルトだった。カカシが訪れたことなど全く勘付く様子もなく、安心しきって眠っている。
 昨日は確か日向家で子供達のクリスマスパーティという話じゃなかったのか。
「昨日ヒナタの家でクリスマスの集まりがあって、その後に来てくれたんです」
 振り返ったイルカの傍の食卓にはナルトが持ち込んだと思しきケーキの箱や、チキンの入れ物が乗っていた。どうやら忠実にナイト役をこなしてくれたらしい。粋な事をしてくれるなあとナルトの男気にちょっとだけ妬けてしまった。
「今日戻ってきたんですか…?」
「はい、今さっき」
 イルカがお茶を淹れてくれるつもりなのか、薬缶を火に掛ける。そして、散らかったままのテーブルを大雑把に片づけてカカシに座るよう促した。カカシはそっとナルトが眠る居間とキッチンの境目のガラス戸を閉めてから、勧めに従う。
「心配をおかけしました…」
「いいえ、元気になって良かったです。もう、完全に熱は下がったんですか?」
「ええ、まあ、だいたい」
 歯切れの悪い言葉にまだ微熱が残っているんだろうなとカカシはすぐに理解した。ベッドから立ち上がってすたすた歩いているくらいだから、体のだるさは取れたのだろうが、その治りかけにぶり返すことを分かっていないようだから釘を刺すことにした。
「今日までお休み取った方がいいですよ」
「いや、もう、今日は出勤するつもりですよ」
 ホラ来た。自分の健康を過信しているからこんなことになった筈なのにイルカはそれを理解していない。
「今日まで休んだ方がいいです。きっちり治してから復帰しないと菌をまき散らすことになりますし、その長引いたまま年末を迎えることになるかもしれませんよ」
 そうだ。クリスマスはもう取り返せないけど、年末は一緒に過ごしたい。
「ねえ、年越しを一緒にしましょうよ。クリスマスはダメになっちゃったから。オレも絶対休みを取ります。だからイルカ先生もね、年末に向けて体をきちんと治して下さい」
 そのカカシの提案にイルカはむず痒い顔をして、それから視線を逸らす。何に悩んでいるのか分からないが、最終的には頷いてくれた。顔は薬缶の方へ背けられてしまったが紅く染まったイルカの耳を見て、カカシの独りよがりではなく、イルカも満更でもないのだと少し嬉しくなった。
「じゃあ、今度こそ料理頑張って作りますね」
 とんと目の前にお茶が置かれる。カカシの家には急須も湯飲みも置いてないから少し感心してしまった。
「おせち料理ですね〜、楽しみにしておきます」
 料理の話になると、空腹を覚えた。そう言えば昨日の晩から殆ど徹夜だったため、十二時間以上は絶食している計算になる。ここでぐうっと腹が空腹を訴えはじめないか心配だ
「お、おせち料理はちょっと〜…ていうか無理ですよ…。せめて年越し蕎麦くらいなら…」
 それでも手料理には変わりないからカカシは満足だ。まあ、イルカが料理上手に越したことはないけれど、カカシが求めるのは料理上手な奥さんではなく、イルカなのだから、作ってくれたものが食べ物であれば及第点なのだが、ある種失礼な話なので黙っておいた。
「じゃあ、吉でおせち料理の予約をしておきましょうか。なんか張り紙してあったでしょ?」
「ああ、ありましたねえ。それも楽で良いですね。じゃあ、そうしましょう」
 二人で額を突き合わせ、こんな風に秘め事のように話し合うのはとても楽しい。その時に今回準備できなかったプレゼントを渡そうとカカシは心に決めた。
「…そろそろお腹がすきましたね。カカシ先生、良かったら朝ご飯食べていきませんか、そんなに大したものは作れませんけど…」
 それは嬉しい申し出だ。しかし、イルカは今日仕事を休む身で、これから年末の忙しい時期も控えている。無理をさせるわけにはいかない。
「オレがしますよ。イルカ先生は温かくして待ってて下さい」
「…そんなお客様なのに」
「まだ完全に治ってないでしょ? 大事にして下さい」
 イルカを寒い台所に長居させるわけには行かない。尚も抵抗しようとするイルカのマスクを引き下げ口付けてやった。
「――――!」
 男が意中の相手に身につけるものを贈るのは脱がせたいと思っているためだと言うけど、まさにそうなってしまったなあと愚にもつかないことを考えた。
 案の定イルカはカカシの腕の中で大人しくなってしまい、すぐにぐったりと体を預けてしまった。睨み付けるような視線で、「伝染ったらどうするんですか〜」と強がった言葉を吐く。濡れた唇が目の毒なので、口を塞ぐ変わりにマスクを元に戻してカカシはイルカをベッドへと運んだ。
「勝手に冷蔵庫開けますからね」
「…はい…」
 ふくれっ面をしていたが、イルカは素直に横になる。
「冷凍庫にご飯のパックが入っているので、使うならレンジで温めて下さい。一個四分です」
 イルカは全てカカシに任せる気になったのか、そのまま目を閉じた。ついでにずっと頭の下に敷かれていたと思われる氷枕を回収し、流水で軽く洗ってから冷凍庫へと入れた。もう暫くはお世話にならなくても大丈夫だろう。
 冷蔵庫にはカカシが買った卵と昨日のチキン残り、ベーコン、漬け物が入っている。野菜は萎びたレタスとシメジくらいしかない。
 少しばかりイルカの食生活が偲ばれた。
 三人分のベーコンエッグを焼きながら、無条件にキッチンを使わせてくれるイルカに喜びを感じ、これまで浅からぬ付き合いをしてきた女性達のことを思った。これまでカカシは誰にも台所に立たせたことがなかった。湯を沸かす程度のことをした女はいたかもしれないけれども、カカシの部屋もしくはカカシは相手の部屋で一切食事を摂るようなことをしてこなかった。
 自分が徹底的に避けてきたことであるはずだったのに、運命って不思議だなあと思いながら自分の分の朝食も他人の家で調理した。
 出来上がったのはベーコンエッグと、ローストチキンとソテーしたシメジの簡単のサラダ。イルカが用意してくれたインスタントのみそ汁とご飯。
 ナルトは最初カカシが居ることに驚いていたようだったが、「オレとイルカ先生は仲良しなのよ」とそれだけで納得したらしく、それよりも食い気なのか、カカシが促す間もなく食卓へと移動した。うとうとしていたイルカも起こして三人揃っての朝食となった。
 イルカは酷く幸せそうに笑うから、やはりこう言う一家団欒に似た状況が好きなんだろうなとカカシは思った。
 嫌がるナルトに野菜ジュースを飲ませて、一度帰るというから見送った。
「カカシ先生もゆっくり休むといいってばよ。イルカ先生の傍はよく眠れるもんな!」
 あいにくカカシはまだイルカの傍で眠ったことはない。何度かあるけど、任務の時で意識したことはなかった。
「お前は授業中も寝てたんだろ?」
 寝袋を背負ったナルトを小突くと、大げさにいてーと叫び、ばれたーと喚きながら走っていってしまった。
 カカシもナルトを可愛いと思う。恩師の忘れ形見だ、憎く思うはずもない。まだ二十代のカカシをおやじ扱いしたりするちょっと憎たらしいところはあるけれど。
 自分も師匠をおやじ扱いしていたかなあと首を傾げながら部屋に戻ると、イルカがベッドの上に座ってぼんやりしていた。
 寝乱れてぼさぼさの黒髪に着草臥れた寝間着姿のどこからどう見ても男だったが、妙に可愛く見えてしまうのは惚れた脳の弱みか。きっと一般男性で言うところの深窓の病弱なお嬢様くらい好物に見える。
「ナルトは帰りましたか…」
「ええ…」
 イルカは受付を今日まで休む旨はさっき電話で伝えていた。まだ熱は完全に下がっていないし、当然の判断と思うのだが、やはりイルカはとても申し訳なさそうだった。始業の時間になって一人だけ横になっているのが惜しいと言うようにベッドの縁に腰掛けている。
「さ、横になって。イルカ先生。それともお茶でも飲む?」
 イルカはぼんやりと視線を彷徨わせて、それから、諦めたようにベッドの中に戻ろうとして、止めた。絨毯の上に座り込むと、何かのスイッチを入れた。どうやらその絨毯はホットカーペットだったらしい。
「飲みます」
 イルカがそう答えたからカカシは薬缶を火に掛ける。傍で湯が沸くのを待っている最中もイルカはやはり体調が万全ではなかったらしくて、ぼんやりとしていた。流石に明日は休ませるのは無理だろうから、ちょっと強い薬を調合して上げた方がいいかもしれない。
「はい、どうぞ」
 居間に設えられた卓袱台にお茶を乗せる。
「ありがとうございます…」
 イルカは温かい湯飲みを早速手に取り、その手で暖かさを味わった後、一口啜った。
「カカシ先生はもう報告書出してるんですか?」
「ああ、はい。忍犬に持たせました」
「…そうですか。じゃあ、もう今日の任務は無いんですか?」
 その質問はカカシに早く出て行かなくていいのかと促しているように聞こえた。
「……今日は休みなんですよ。任務が早く終われたから、その分休み。また明日には多分子供達と一緒に仕事だと思いますが…」
 そうカカシが告げると、イルカはそうですか…と安心したように体を弛緩させる。思っていたのと違う反応だと思った。一人にして欲しいとかそう言うことを言い出さないか冷や冷やしていたのに、イルカは安心したと言わんばかりに体を緩く微笑んだ。
「…正直、ナルトをここに寄越してくれて助かりました…。なんか一人じゃ、ちょっと…」
 イルカは手の中の湯飲みを見つめたままそう言葉を濁した。
 イルカが続けたかった言葉が「淋しかった」だとすれば、それはとても嬉しい。約束が果たされなくなって淋しい思いをしていたのがカカシだけじゃない、イルカだってそうだったと言ってくれていることになるから。
「…アイツはしゃいであなたの熱を上げることになるんじゃないかと思ったんですけど、ちゃんと面倒見たみたいですね」
「ええ、買い物も行ってくれたし、洗濯もしてくれてとても助かりました。一人前になってて吃驚しました。晩ご飯も作ってくれたんですよ」
 何だか話を聞いていると、カカシよりもナルトの方がイルカの彼氏みたいだ。カカシが任務に出ていたから信用のおけるナルトを代役に立てたわけだが、全て一歩先んじられた気がして面白くない。
 カカシが微妙な顔をしていることなんて気付かない様子で、イルカはおもむろに立ち上がり、ベッドサイドに立てかけてあった生成の袋を手に取った。それを持ってカカシの前にさっきと同じように座る。
「これ、カカシ先生に」
 そして、その細長い袋を両手で捧げ持ち、カカシに差し出した。
「本当は昨日の晩に渡そうと思っていたんです。クリスマスプレゼント」
 その言葉にカカシは硬直してしまった。
 まさかイルカから貰えると思っていなかった。というか考えていなかった。自分が何を与えるかその思考で一杯一杯だったからだ。
「なんか色々予定が狂ったので、今渡しておきます…」
「は、はい…」
 なんだか受け取るときは照れくさかった。イルカが両手で差し出しているからカカシもそれを両手で受け取る。
 手にずっしりとかかるその重みに中が金属だとすぐに分かった。
「開けてみても良いですか」
 その質問に、イルカはとても真面目な顔をして頷いた。括られている紐を解き生成の絹の間から姿を見せたのは刀だった。
 下げ緒は葡萄色、それ以外は黒だった。黒は黒でも柄捲き、鞘、柄頭その全てが微妙に色合いの異なる黒だ。素材が違うから色合いも違って見えるのだろう。鍔の意匠は橘、鞘にも橘の螺鈿が施してある。
 全身黒の刀を見て、カカシは思わず鳥肌を立てた。
 ゆっくりと鞘を払い、刀身を空気にさらす。研ぎたての銀色が閃き、普通なら禍々しいと感じたかもしれない。
 しかし、その刀をイルカのようだと思ってしまったらもうダメだった。
「父親がもともと使っていた刀なんです。オレも中忍に成り立ての頃に何度か使ったんですけど、振り回されてしまって、巧く使いこなせませんでした」
 刀にしては軽い方かもしれないけれど、それでも十六、七の未熟な忍の使う道具ではない。きっとイルカの父親もイルカと同じくらい体格に恵まれていたのだろう。手足が長くないと扱えない業物だ。
「…とても良いものですね…」
 刃物を見慣れたカカシでさえそう思う。研ぎ師も勿論いい腕だが、金属の状態を良く見極めた鍛匠の功績による所が大きい。
「…でも、これは形見なんでしょう…?」
「良いんです。おれが持っていても宝の持ち腐れですから」
 両手で扱うのが基本の刀だが、これくらいの軽さだったら片手でも扱えるかもしれない。揮ってみたい気分がむくむくと沸いたが、それを抑えて鞘に仕舞った。
 殆どが黒で統一された飾り気の無い刀は、黒髪黒瞳のイルカを彷彿とさせ、手にした瞬間から愛着が湧く。
「それに、カカシ先生に任務へ持っていって貰いたいんです」
「え…」
 大事にして欲しいとかではなく、遣ってくれと言う。それは道具を贈る上で正しい要望だし、この刀は実用的なものだが、形見のものを与えているのにそれはちょっと意外だった。
「大切に飾っておいちゃいけないんですか?」
 シンプルだが、十分鑑賞にも堪えうる拵えだし、こういった長い刃物はすぐにカカシの膂力に負けて折れてしまいそうだ。長く保つためなら飾って置いた方が勿論いい。
 イルカは一度口ごもり、少し考えてから、やはり湯飲みの中を覗き込んだままガサガサの声で呟く。
「おれはカカシ先生と一緒の任務にはなかなか行けないので、それを持っていって欲しいんです。邪魔には…多分ならないと思うので…」
 つまりそれは何か。一緒に行けないイルカの替わりにイルカに似たこの漆黒の刀を持っていけとそう言うことか。
「…邪魔にならないように、黒にしたんですよ。拵えももっと派手でも良かったし、そう勧められましたけど」
 確かに黒だったら闇に紛れやすい。イルカ自身に似せるためでなく、実用的な面を考えてこういう拵えになったのかとカカシは漸く理解した。
「ありがとうございます、イルカ先生」
 カカシのことをよくよく考えて選んでくれたプレゼントだと言うことはよく分かったし、実際に役に立ってくれそうだった。大事な親の形見を分けてくれたこともそうだが、何より、カカシのことを考えて選んでくれたイルカの気持ちが嬉しい。
 もし戦いのさなかに折れてしまったとしても、ぜったいに持ち帰り小太刀に打ち直したりして使い続けようとカカシは心に決めた。
「とても嬉しいです」
 なんだか言葉を知らない子供のような感想しか言えない自分が歯がゆかったが、わき出る気持ちを素直にあらわすにはその言葉が一番で、イルカもほっとしたような笑顔を見せてくれたから、それで良いのだと思った。イルカの気持ちがカカシに伝わったのと同様に、嬉しいカカシの気持ちがイルカにも伝わったのに違いない。
「…オレも、年末には用意しておきますね」
 そのカカシの言葉を聞いて、イルカはきょとんとした顔をして、それから不意にぷっと吹きだした。
「おれも今日渡せなかったら年末に渡そうと思っていたんです。『本年はお世話になりました』って。なんだか考えることが一緒で気持ち悪いですね」
 気持ち悪いですね、と言いながらとてもイルカが嬉しそうに見えた。シンクロしている思考に幸せを感じてくれているのか。
「似たもの同士ってことですね」
 それは酷く相性が悪いかもしくは最上級に相性がいいかのどちらかだ。後者であることを願いつつ、カカシは刀を丁寧に袋に戻し、漸く温くなったお茶を一口口に含んだ。
 高いお茶ではないことが分かったけれど、仄かな香りと温かさがとてもおいしいと思った。






 翌日カカシもイルカも通常の任務に戻った。相変わらずインフルエンザは蔓延しているようだけども、そろそろ収束方向に向かっているらしい。今年の風邪の一番厄介なところは長引くところのようだった。
 カカシは上忍控え室で本を開き読む振りをしながら、イルカが受付で苛められたりしていないだろうか、と考えていた。
 今日は一緒に吉に行っておせち料理の予約をする予定だ。しかしそれも同僚がイルカを早めに解放してくれるという前提の予定であって、もしも早く上がれないようだったら、カカシが一人で行く羽目になる。あわよくば一緒に晩ご飯と考えていたが、どうなるか分からない。定時になったらイルカの同僚を刺激しないように受付を覗いてみようと思っていた。
 それから暫くイチャパラを堪能し、数人の上忍達と任務やそれにまつわる世界情勢、経済の話しに花を咲かせているうちに定時となった。
「どうですか、カカシさん。これから飲みに行きませんか?」
 という後輩の誘いを、先約の存在を匂わせることによって断り、待機所を後にした。きっとイルカは残業だろうから、急いで行っても仕方ないとのんびり歩く。
 外の空気はめっきり冷たくなっていて、カカシの猫背は更に丸くなる。日が落ちる時間もいつの間にか早くなっていて、既にあたりは夕闇に満ちていた。
 ――――そういえばこの前が冬至だったか。
 これから夏至の間までどんどん日が長くなっていく筈だというのに、まだ冬本番ではないような気がしている。春の一歩手前が一番寒いような気がするのはどうしてだろう、とぼんやりと考えながら歩いた。
 前から歩いてくる人影があった。見覚えがあると感じるのと同時にどきっと胸が高鳴る。よくよく目を凝らしてみると、イルカだった。うつむき加減に歩いていて、まだこちらに気付いていない。帰り支度が済んでいる様子で、予想外に残業はせずに済んだらしい。
「イルカ先生!」
 その様子に喜んで声を掛けると、イルカは漸くカカシに気付き、ぱっと顔をほころばせたかと思うと、それは見る見る萎んでいってしまった。
 何かあったに違いない。何でも表情に出てしまう人だなあと思いながらカカシはイルカに歩み寄った。
「お疲れさまです、今日は残業じゃなかったの?」
「お疲れさまです…。残業は、無いです。今日の出発と帰着の任務は思いの外少なかったので…」
 やはりその表情は晴れずに、とってつけたような笑顔が歪んでいる。もしかして風邪がぶり返してしまったのだろうか。
「具合は大丈夫ですか? ふらふらしない?」
「…それは大丈夫です、もう。カカシ先生が作ってくれた薬が効いたから」
 結局昨日は昼過ぎになって調合した薬をイルカに飲ませた。強い薬で、飲んだ後は失神したように眠ることになるが、翌日には体の毒素が抜けているという暗部の秘薬だ。暗部ならば八時間ほどで目を覚ますが、イルカは、カカシも不安になるほどたっぷり倍の十六時間眠ったあと、本人が言うように今朝はけろりとして起きてきた。
「ちょっと問題が起きまして…、取り敢えず、吉に行きましょう」
 まあ、具合が悪いんじゃないならカカシがそんなに心配することでもないのだろう。アルコール摂取する元気がないのなら、ただ夕食を共にするだけでもいい。カカシはイルカの提案に頷いて、後に従った。
 吉の暖簾をくぐると、すぐに指定席へと通される。やはり壁におせち料理の予約についてのチラシが貼られていて、カカシはまじまじとそれを見た。予約受付最終日は二十六日、つまり今日までらしい。
「イルカ先生、おせちの受付今日までですよ。ギリギリ!」
 それを聞きつけた女将が、「申し込まれますか」とにこやかに応じてくれたが、イルカがそれを遮った。
「あの、ちょっと待っててもらえますか…?」
 女将はにこやかな表情を崩しもせずに「はい」と応じて、二人におしぼりを出し、一旦下がってしまった。
「イルカ先生?」
 おせちは吉で頼むという話で一致していたのに、どういうことだろう。イルカは俯いてしまっている。
「…カカシ先生に、謝らなきゃいけないことが…」
 俯いたままの翳った表情でそんなことを切り出されてしまうと、何だか嫌な予感がむくむくと沸いてくる。不幸慣れしてしまった思考が色んな可能性を考え出して、カカシを不安にさせた。
 あの、イルカのような形見の刀を返せと言うのか、それとも他に好きな人が出来たとか、別れましょうとか、どちらかが長期任務に就くことになったとか――――。
 どれもあり得そうな話でカカシの動悸は早くなってくる。イルカが言い出しあぐねているその間に、カカシの顔色がどんどん青ざめて行っていたに違いない。
しかし、イルカが意を決して口にした言葉は意外なものだった。
「…あの、年末の話ですが…。オレ、年末のシフトに組み込まれちゃってたんです…!」
 半泣きでイルカが漸く口にしたことはそんなことで、思わずカカシは唖然としてしまった。違う意味で驚いた。
「く、クリスマスに、良い時期に休んじゃったから、この時期に休んだ人間は全員年末か年始のシフトに組み込まれちゃってて…、オレ、大晦日まで仕事なんです…!」
 そう言ってイルカは木目の綺麗に磨かれた吉のテーブルに突っ伏してしまった。
「折角、カカシ先生が大晦日一緒に過ごそうって、誘ってくれたのに…っ、オレがクリスマスに風邪引いた所為で…っクリスマスもダメにしたのに…」
 この世の終わりだとばかりに嘆くイルカに、漸くカカシは事態が飲み込めた。イルカはカカシに別れ話を持ちかけようとしていた訳じゃないことは確かだ。
「…だからおせち料理は、注文しないっていうこと…?」
「だ、だって…おれ、三十一日も仕事だから…蕎麦も用意できないし…」
 どうやらクリスマスも大晦日も料理の腕を揮うと言っておきながら、その約束が果たされないことが一番悔しいらしい。確かにイルカの手料理が食べられないことは残念だったけれども、カカシはイルカとの付き合いの中でそこに重きを置いていない。
「大晦日の仕事は何時まで?」
「…十八時には閉めるので、多分十九時くらいには上がると思います…」
「じゃあ、年越しは一緒に過ごせるじゃないですか」
 カカシの提案に、イルカは半泣きの目のまま意外と言いたげな顔を上げた。
「オレの家で年越ししましょう。オレがイルカ先生に料理を作っておきますよ。あなたの料理が食べられないのは残念だけど、だからって、会うのは止めなくても良いでしょ?」
 そのカカシの言葉にイルカは何度も頷いて、ぐっと何かを堪えてそうですねと笑った。
「頼みましょうよ、おせち料理。それで一緒に正月を迎えましょう」
「はい」
 漸く納得してくれたイルカと一緒に飲物を選び、それから改めておせちのことを女将に尋ねた。
「あら、ご注文いただけるんですね。嬉しい」
 女将はいそいそと二枚の注文票を持ってきてくれた。残念ながら、二人に一枚で十分ということに、このときはちょっと居たたまれないような気分にさせられる。頻繁におとずれるこの小料理屋でもカカシとイルカが恋人同士だという認識はないのだろう。イルカが照れながら「じゃあ、カカシ先生の名前にしておきますね」と勝手にカカシの名前を書き入れていたが、それでもまったく嫌な感じはしなくて、どこかくすぐったいばかりだった。
「お引き取りは大晦日の十四時から十九時までですが、ご都合が悪ければ早めにご連絡下さい」
 女将は丁寧に控えをカカシに手渡した。お会計は今日の飲み代と一緒に支払うことになった。
「ちょっと高くないですか…」
 ぼんやりとイルカがそう耳打ちをしてきたことが何だかおかしかった。そのおせち料理よりも、今までカカシと飲んできた料金の方が十倍くらい多いに違いないのに。
「まあ、三が日分の食費ですからね〜」
「持つかなあ、三日間…」
 持たないだろうとカカシも思う。イルカもカカシも良く食う。一日持てば御の字じゃないだろうか。しかし、カカシはそれを口にしなかった。緩く食べ続ければそれは三日間イルカがカカシの家に居ると言うことだ。イルカは何も気にしていないようだったが、指摘して一日で食い荒らされてしまっては何だか悲しい。サイドメニューに色々買いそろえておいて、出来るだけ手を着けさせないように細工をしておこうとカカシは心に決めた。
 刀のお礼の下準備も進めておかなければいけない。
「楽しみですね」
 何気ないイルカの一言にカカシは激しく同意した。新年を迎えるという何気ない一日をこんなに待ち遠しく思ったのは生まれて初めてのことだ。



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