Novels


adagio in C minor




   ***



 まさかアカデミーの行事や里全体のお祭り以外で自分がこうした季節の催しに便乗するとは思っても見なかった。七夕や花見、月見なんかは良く酒がつきまとうから都合があえば勝手に一人で参加していたことはあるけれど、それがよもやクリスマスにまで。
 冬場のイベントはどうしてもカップルでないと参加しないようなイメージを持っていた。クリスマス然り、バレンタインデー然り。一人で参加するには淋しすぎる。
 しかし今年のイルカには、カカシが居る。家族すら居なかったイルカが、今年は一人じゃないのだ。これまで付き合った人間が一人も居ないとは言わないけれど、この時期に重なる人は今まで居らず、今年は久しぶりに盛り上がっているのを感じていた。
 まず手始めにイルカは料理の本を買った。カカシの好みの料理はあっさりとした和食だと知っているけれども、クリスマスに魚の煮付けはないだろうと思う。部屋中に醤油の臭いが染み込むのは何だか興醒めのような気もする。せめてブイヤベースにしたい。ちょっと噎せそうだが、その日ばかりはバターの香りを部屋一杯に充満させたい。メニューの候補が多すぎてまだどれにするか決めてないけれど、早めに決めて練習を重ねなくてはと思っていた。
 何にしろ、食べるのはイルカの家。そう鯱張っても格好が付かない安普請のボロアパートだ。部屋は畳だし、襖には寝ている間に蹴破った大きな穴が開いている。カカシを迎えるために何から準備して良いのか分からず、悩んでいる内に時間はどんどん過ぎてしまっていた。
 手始めにイルカは襖の修繕をした。もう少しお給料が貰えるようになって、結婚だとか人生の転機が訪れたときは流石にこの部屋を出るだろう。その時に綺麗にすればいいと思っていた襖を、取り替えた。年明けが近いしと自分に言い聞かせてぴかぴかの真っ白な襖を入れて貰った。壁がくすんでいて、とても浮いていたが、それは見ない振りをした。綺麗なものに入れ替わったと言うだけで満足だった。
 畳を張り替えるお金はないから、綺麗に払拭して上に絨毯を敷いた。ちょっと値が張ったがホットカーペットでカバーは起毛の大きな柔らかいものにした。春になって何処に収納するかを考えずに購入してしまったのだが、イルカがそれに気付くのはもっとずっと先のことだった。カーテンもシーツも何もかも替えたかったが、イルカに出来るのはそこまでだった。
 せめて壁を磨きカーテンを洗濯して、家具に溜まった埃を出来る限り拭き取り、窓を磨けば、荒涼としていたイルカの部屋はいくらか巣穴から部屋へと体裁を整えることが出来たように思えて満足だった。思えばここ何年も大掃除らしい大掃除をしていない。いくらか大掃除には早い時期だったが、掃除する気にさせてくれたカカシには感謝だ。
 その間もイルカはカカシとの逢瀬を重ねた。ほぼ毎日受付で顔を合わせ、都合があえば一緒に食事をしたし、最近ではキスをすることにも馴れてきた。未だにカカシはイルカと口付けるときに断りを入れ、許可を求めるのが恥ずかしかったが。
 イルカと口付けるためだけにあの端正な顔を寒気に晒し、そっとそれをイルカに近づけてくるのは堪らない。首っ玉に縋り付いて、いつの間にかメロメロにされてしまうのだった。
 しかし、カカシが積極的に触れてくるのはそこまでで、カカシはイルカに遠慮をしているのか、後込みをしているのか、まだ一線を越えたことがなかった。どんなにくたりとイルカが身を預けてしまっても、カカシはイルカが落ち着くまで抱きしめて待ってくれたし、背中を撫でてくれる手つきはあくまでも優しかった。そこに奪いに掛かってくるような勢いはなかったし、イルカの方からそんなことを言い出すことも出来なかった。
 カカシとイルカにそういう性生活が訪れるのだとしたら、きっと自分が下に敷かれるのだろうなと漠然と思っていた。カカシなら抱けないこともないと思うのだが、百戦錬磨という顔をしているカカシに勝てる自信も満足させる自信も無かったからだ。カカシも自分が受け手になることを全く考慮せずにイルカに付き合おうと申し出たのだろう。これまでの付き合いはカカシがイニシアチブを取ってきたから余計にそう思う。
 だが、カカシはイルカに迫ることもなく、そんな臭いもさせずに涼しい顔をしている。イルカの方はカカシに触れられるたびにずきずきと疼くこともあるのに。
 カカシに肉欲が無いというのなら仕方ないとも思えるし、そう言って欲しい。イルカだって男だから触れられれば反応してしまうのだ。男同士だから、負担が大きいセックスなんてしなくて済むならそれに越したことはないし、自分で前もって処分もできる。付き合っている特定の相手が居るのに一人でするのは淋しいものを感じるが、セックスは一人では出来ないし、相手の同意も必要だから仕方ない。
 それにもしかしてと言う気持ちもあった。
 クリスマスになれば、流石にちょっとのんびりしているカカシもそういう気分になるのかもしれない。
 そういう期待がイルカにはあった。
 積極的に抱いて欲しいとか、そういうことは思わないけれど、何となくこの曖昧な状況をどうにかしたいという思いが強かった。欲求不満になっていたのかもしれないし、カカシとの付き合いに慣れてきてしまって、もっと強い刺激を求めていたのかもしれない。
 だからイルカはクリスマスに力を入れていた。
 女のようだとちらりと思ったものの、楽しみなものに男も女もないよなと簡単に都合良く悟り、そんな考えも一瞬で払拭されてしまった。
 カカシが里に居ない日は、イルカはだから専ら料理の練習をしている。沸き立つ心を抑えるように煽るように。
 窓の外は既に冬の色を濃くしていて、葉の落ちた柿木が必至に実を抱きかかえて立っていた。
 もう十二月に入っていた。
 案の定カカシにもイルカにも膨大に仕事が降り注いできて、あたふたしながらもこなすしかなく、勢いカカシと一緒に過ごす時間も少なくなっていた。このまま自然消滅してしまうんじゃないかと焦ってしまう程だ。だが、受付やアカデミーでちらりと顔を合わせるたびに、親しげな笑みを浮かべてくれて、そんな心配は不要なんだと態度で示してくれる。
 少しイルカは自分が欲張りになっていることを感じながらも、毎日不満と仕事とちょっとの喜びで生きていた。その、ちょっとの喜びの半分以上がカカシによるもので、疑っていたのはついこの間のことだったのに、イルカは自分が変化してしまったことをイヤでも自覚する。
 カカシのことが好きだと思った。





 その日、イルカは休みで、カカシを迎えるための大掃除を続けていた。少しだけ中途半端にやり始めると細かいところも気になりだして、新品の襖で覆い隠せる筈の押入の中まで片づけていた。中には要らない衣類なども溜まっていて、それをビニール袋に詰めて一纏めにする。クリスマスまでにあとゴミの日は三回しかない。それまでに必ず出しておかないと、とイルカはカレンダーにゴミの日を書き込んで、再び作業を続けた。
 そのカオスだった押入の中に秩序が戻りつつある頃に、イルカはそれを見つけた。
「…あ…」
 金糸をふんだんに使われた錦の布に包まれた刀だった。父の形見で、中忍になった折りに任務で使おうと部屋に持ち込んでいたのだったと思い出す。大人が使っていたものだけあって、中忍になったばかりのイルカには重くて扱えなかった。それなりの業物らしいが、イルカにはよく分からない。しまい込んであったのも、イルカには結局使いこなせなかった所為だ。投げて良し手元で扱って良しのクナイに慣れてしまった身で刀を自在に操ることは難しく、それを悟ってから結局そのままにしていた。
 少しくたびれた柄を握り、室内で慎重に鞘から抜いた。一部に錆が浮いているものの、刃こぼれはなく、美しい姿を保っている。
 勿体ない。
 イルカは忍としては凡庸だったけれども、もっと才能溢れる人にこの刀を使って貰いたいと思った。
 ふと思い出したのはカカシだった。
 カカシが元々暗部に在籍していたことは知っているから、彼ならば刀も自在に扱えるのではないか。暗部は一通りの武具に精通しているはずだし、何より背中に小太刀を帯びている。小太刀は刀と違い両刃の直刀だが、大きさは似たようなものだろう。
 カカシがこの刀を佩いた姿はさぞ凛々しいだろうと妄想してしまう。カカシは長身で手足が長いからこの刀も余裕で扱えるだろう。
 拵えが少しくたびれているのを修理すれば、きっともっと美しいに違いない。それを思うとイルカはわくわくした。
 丁度クリスマスも近い。イルカはカカシにこの刀を修理してプレゼントしようと決めた。
 イルカは中忍だし、内勤が中心だからカカシの任務には前回みたいに特殊な状況でないと附いていけない。だが、この刀ならイルカの変わりにカカシに附いていくことが出来るし、カカシのことを守ることもできる。
 室内のリフォームで特別クリスマス予算を大分食ってしまっているが、ボーナスを少し足せばどうにか乗り越えられるはずだ。十二月に入ってから忙しくなったために外食の回数も少なくなって、出費も抑えられているからいくらか無理は利くだろう。
 そうと決まれば行動は早いほうが良い。というか、クリスマスまで時間もない。今から鍛冶屋にメンテナンスを頼んで間に合うだろうか。慌ててイルカは財布とその刀を抱えて飛び出したが、外は思った以上に寒くて一度上着を取りに戻り、それから改めて鍛冶屋に駆け込んだ。
「ほう、これは良いもんだな…」
 親方と思われる職人が抜き身の刀身を見て、溜息混じりにそう零したのが誇らしい。ちょっとだけ売ったらいくらになるのだろうか考えもしたが、そんなイルカの邪な考えは、妄想の中のカカシが放つ後光によってすぐにうち消された。
「それでどうする? 研ぎ直しは当然として…、柄、鍔、鞘はこのままにするかい?」
 古いものだと分かるから、思い出の品だと悟ってそう聞いてくれるのだろうが、イルカは首を横に振った。
「新しくして下さい。全部」
 もう、これはイルカの手を離れて、イルカの替わりにカカシを守るものとなるのだ。だから絶対に邪魔にならないように。
「…全部黒で」
 カカシの活躍する場所はきっと月もない暗闇だ。装飾は最低限で良い、刀がカカシを活かせばいい。刀が前面に出る必要はなく、カカシを形容するものの一つになればいいと思う。
 そのためには影にひっそりと従うような黒で良い。きっと黒はカカシの銀色を引き立てるに違いない。
「勿体ねえな、こんなに綺麗な刀なのに。まあ、それも粋かな」
 イルカはその場で鍔や柄の拵えを選んだ。
「それでいつまでに仕上げたらいい?」
「できれば〜…二十三日までに何とかなりますか」
 そのイルカの言葉に鍛匠はイルカの顔をまじまじと眺める。
「…ちょっとクリスマスのプレゼントにしちゃ無骨すぎねえか〜?」
 確かに女性に贈るようなものではなくなってしまう。柄も鞘も黒。銀の螺鈿が小さく入る以外は装飾も殆どない。女性に向けるなら拵えは白が良い。下緒も臙脂にして金細工を入れた方が繊細で女性向きだ。そういうきらびやかな刀も似合うかもしれないけれど、実用的じゃないような気がする。イルカはカカシにこの刀を任務に持っていって貰いたかった。
「良いんですよ」
 男の人にあげるものだから。そうは言わなかったが、主人は了解してくれた。
「まあ、努力してみるよ」
 イルカは前金を支払って、二十三日に取りに来る旨を伝えて鍛冶屋を後にした。今から出来上がりが楽しみでわくわくとして、出費は痛かったが、家路を辿る足取りは軽い。
 これでカカシに贈るクリスマスのプレゼントも決まったし、あとは部屋の片づけをきちんと済ませて、料理の腕を磨くことが課題として残っているだけだ。
 ついでだからイルカは金物屋に寄ることにした。カカシが好きかどうか分からないが、洋菓子にも挑戦してみようと思っているから、それに必要なステンレス製の型を手に入れなければと思っていたのだ。
 本通りに出て目的の金物屋へと歩いていく。休日で人通りの多い道をすいすいと渡り歩く。街全体がクリスマスムード一色で、昼間だというのに店頭が電飾でチカチカと通りの客にアピールしていた。今年はこの波に自分も乗り遅れていないことが何となく嬉しくて、イルカは落ち着き無くきょろきょろと周囲を観察しながら歩いた。
 すると通りに面した店の中に、カカシを発見してしまった。銀色の頭が視界に入ったため、思わず目を凝らしたらカカシだったのだ。
「――――!」
 よく見れば子供達も一緒で、同じテーブルに仲良く四人で座り、のんびりとお茶をしているようだった。
 微笑ましい光景に更にうれしさがこみ上げてきた。今日イルカは休日だしカカシとは約束していなかったから会わないだろうと思っていたのだ。それがこんな所で会えるなんて。
「こんにちわ」
 思い切って声をかけてみる。イルカの顔を確認した途端に、ナルトが破顔して飛びついてきた。
「イルカ先生!」
「あー先生だ。こんにちわ、お買い物?」
 サクラも今まさに口に入れようとしていた団子を皿の上に戻してイルカを振り返る。
「カカシ先生こんにちわ、お疲れさまです」
 カカシはサクラやナルトのように感情を露わにすることなく、静かにイルカに頭を下げる。
 ――――今鍛冶屋に行って来たんです、カカシ先生にプレゼントを用意したんですよ。
 そんな風に今してきたことの全てを喋ってしまいたいような気分になったけれどもそれはぐうっと堪えて、あんまりカカシを見ているとその思いが溢れてしまいそうだから、自分にしがみついてくるナルトに視線を落とした。こんな調子でこの子はカカシに迷惑をかけてないのだろうかと不安になるくらい、突然のイルカの姿に興奮しているようだった。
「今日は任務か?」
「そうだってばよ、当然。あ、勿論どんな任務かは言えないってばよ〜!」
「守秘義務って言うヤツだな」
 そうそれそれと、ナルトが手を引いて四人で座っていたテーブルにイルカを座らせようとする。流石に任務中である彼らの輪の中に入ることは出来ないような気がして、イルカは椅子には座らなかった。
「何で? 今休憩中なんだってばよ。イルカ先生もゆっくりしていけばいいのに」
 ナルトの強い押しにイルカがカカシを窺えば、カカシはどうぞとイルカを笑顔で促してくれた。監督者の許可が下りれば躊躇うことはなく、「少しだけだからな」とナルトに釘を刺すつもりで自分に言い聞かせた。あんまり邪魔をするのも良くないだろうと思うからだ。
「イルカ先生も何か頼みますか?」
 しかし、誰もイルカのことを邪魔だと思っていないようで、カカシがメニューを差し出してくれたり、サスケが何も言わずにセルフサービスのお茶を注いできてくれたりする。
 歓迎されているようだと居心地が良くなってしまうじゃないか、とイルカは心中で煩悶した。イルカの部屋はまだ台風が過ぎ去った跡のように荒れ果てているのだ。しかし、こんな機会もなかなか無い。子供達とカカシと揃ってお茶なんて――――
 葛藤しながら、イルカはみぞれ餅を頼んでしまった。
 そういえば、カカシとイルカが付き合い始めてから子供達を交えてこんな風に会うのは初めてだ。これまで何度かラーメンを一緒に食べに行ったことがあったけれど、何だか新鮮な気持ちだ。カカシと付き合っていることは少しばかり後ろめたいような気もするけど、それを押し隠せないほどイルカは子供でもないし、物慣れないわけでもなく、カカシも全く態度を変えないから、素知らぬ顔をして第七班に溶け込むことに決めた。
 そのまま偶然の再会を楽しみ、一時間もせずに「そろそろ行こうか」というカカシの声で素直に立ち上がって任務に戻る子供達の背中を見送る。
 二人きりでないのが少し残念だったが、良いことがあったのだから良しとしよう、とイルカは自分に言い聞かせる。
 楽しかった余韻を引きずりながら金物屋へと赴き、目的のトレイを購入した。今日は収穫の多い一日でとても満足だった。



←backnext→