adagio in C minor
「なあにぼんやりしてるんですか?」
その甲高い声にカカシははっと我に返る。声のした方を向いてみるとそこにはサクラが居て、カカシを不審そうな目で見上げていた。
「なんかにやけてたみたいだってばよ…」
サクラの向こうを歩いていたナルトも汚物を見るような目でカカシのことを見ている。それも仕方ないだろう。カカシはイルカとの接吻が忘れられないのだ。昨日交わしたその行為を何度と無く反芻し、その度に夢心地でにやけてしまうのだ。
「ああ、もうまた!」
サクラが容赦なくカカシの腕の薄い皮膚を抓った。適度に鍛えられたカカシの腕は女子供のそれとは違い皮下脂肪が殆どないため、つまみ上げられる皮膚は薄く伸び、何気ないその抓るという刺激が非常に痛い。しかも丁寧に磨かれたサクラの爪は攻撃力が高く、容赦なく食い込む。
「あ〜あ〜、ごめんなさい。集中します集中します」
サクラはちっと舌打ちせんばかりの勢いでカカシの皮膚を離した。若い女と、老婆がその様子を心配そうに見つめていた。二人は七班の同行者だ。
二人とも忍ではなく、若い女は昨日のイヤリング探しの依頼主で、車椅子に乗った老婆を連れてきていたのだ。今日報告を受けに来た彼女とカカシ達七班がばったりと受付で出会ってしまったのが運の尽き。正式な任務の他に、彼女たちを例の古物商まで案内することになってしまったのだ。イヤリングが見つかったことを知らなかった子供達は、一人で見つけだしたカカシに、尊敬の目をカカシに向けてくれたのだが、今はその影もない。カカシが始終ぼんやりとしている所為なのだが、今日一日はきっと地に足が着かないことだろう。
何とかしっかりしたサスケの先導で一行は例の古物商の店にたどり着いた。店の前でカカシは一行から熱い視線を受けて、仕方なく最初に敷居を跨ぐ。本来は既にカカシの手から放れた案件だからこんなことをしてやる必要もないのだけど、これ以上子供達から信用を失うのは避けた方がいい。何せナルトはイルカとごんぶといパイプを持っているのだから。何を言いふらされるか分かったもんじゃない。
「コンニチワ〜…」
気乗りしないまま、カカシは店内に声をかける。あの時は夜で、店の中には明かりが点っていたからとても眩しく感じられたが、日中に訪れてみると、案外薄暗い。依頼主の女性も不審そうな顔をして入ってくる。車椅子の老婆は相変わらず生きているのか死んでいるのか分からないような状態で車椅子に座ったままぴくりとも動かない。
「おや、昨日の」
奥から現れた店主は流石にカカシの怪しい出で立ちを覚えていたらしく、すぐに相好を崩し、それから連れを見回して「家族?」と聞いた。さばさばしているのは良いけれど、ちょっとこの主人はネジが一本どこか緩いようだ。ナルトは満更でもないらしく「家族だって〜」と笑いながら照れて感情が忙しないのと対照に、サスケとサクラは硬直してしまっている。わかりやすい。
「違いますよ。それよりも、昨日の片割れのことで話があるんですが」
はいはい、と主人は出てきたときと同じ身軽さで奥へと赴き、それから例の小箱を片手に戻ってきた。
「これですね」
と開けて見せた小箱に依頼主である娘が飛びつく。
「これだわ…! これよ、見つかったわおばあちゃん!」
若い女は大事そうに両手で小箱を持ち、車椅子の傍らに跪くと老婆の視界にそれを持っていく。それまでぴくりとも動かなかった老婆がぎくしゃくとした動きを見せる。そして若い女の手中の小箱へと手を伸ばす。
「あ、ああ…」
嗄れた嗚咽が零れて、どれだけ彼女がそのイヤリングを求めていたのかが切々と伝わってくるようだ。生まれたての赤子の頬に触れるようにおそるおそるという手つきで金細工を指先で確かめている。何か思い入れのある品なのに違いない。あのイヤリングは娘のものではなくて、この老婆の所有物のようだった。勝手にこの娘が拝借した挙げ句、なくして帰ってきてしまったというところだろうか。
「…どうもありがとうございました」
娘はカカシと店主に交互に頭を下げる。
その様子にカカシはあれっと違和感を覚える。まさかこの娘はそのままイヤリングを自分たちのものだからという主張で持ち帰るつもりなのだろうか。そして、その予感は的中し、娘は車椅子の老婆に「じゃあ、帰ろうか」と車椅子を操りながら話しかけている。
「ちょ、ちょっと…!」
店主がそう制止するのは当然のことだと言えた。娘は何で止められるのか分からないと言った顔で振り返る。
「それはもううちの商品なんだよ。お金を払って買ったものだ。返せ!」
店主は老婆の手の中にあった小箱を勢いよく奪う。老婆は咄嗟のことに反応できず、その小箱を取り上げられて、今にも泣きそうな顔になっている。
「そ、それはおばあちゃんのものなんです、本当なんです。ちゃんと片割れも持っています!」
「…そんなのこっちは関係ないよ。これはお金を払って買ったものだ。もううちの商品で、買って貰えない限り渡せないよ」
古物商の主張は当然のものだが、娘も子供達もどうしてなのか分からない、理不尽な目に遭っていると言う顔をしている。
「…いくらなんですか…?」
カカシは店頭に飾られていたときの値札を見ている。それ以上の額をふっかければ流石に娘の味方についてやろうと思ったが、店主はきちんとその値段を覚えていたらしく、その額を娘に教えた。
「…そんな、高い…!」
依頼主の娘からすれば高い金額だろう。間違いなくお小遣いで買えるような値段じゃなかった。
「おーぼーだってばよ、それってばガラス玉なんだろ。ふっかけすぎだってばよ〜!」
ナルトは徹底的に弱者の味方なのか、そんな根拠もない文句を言い始めた。サクラはちょっと娘の主張に疑問を持っているらしく、サスケは面倒くさいと言わんばかりの顔をしている。カカシだって面倒くさい。こんなのは任務の内ではなくて、完全にサービスで、後は勝手にやってくれと店を後にしたかった。
「そんなお金有るわけ無いじゃないですか!」と娘は逆ギレしはじめて、「こんなことになるなんて聞いてないよ!」と店主はカカシの所為だと言わんばかりに詰め寄ってくる。
何故か空気はカカシが一番悪い人間のようになってしまっていた。
イヤリングを拾った人間が恨めしくなり、忍犬使って探し出してやろうかと思った。拾った人間が自己中心的な利益を考えずに大人しく拾得物として届け出てくれればこんなことにならなかったのだ。
しかし、放っておきたくても里の名前で仕事をしているからには世辞綱対応というものが求められるわけで、巻き込まれてしまった以上は落着するまで面倒を見るしかない。
「…まず、そのイヤリングの詳しい由来を教えて下さい…」
もう敬語を使うのもどうかと思うほど敬意も払えなくなっているが、癖で出てきた。娘は渋々語り出す。
「本当はおばあちゃんのものなんです。おばあちゃんが死んだおじいちゃんから大昔に貰ったもので、ずっと大事にしていたものなんです」
「…で、それがどうして道の真ん中で落とすことになったの?」
「…それは…っ」
娘はぐっと言葉に詰まって、それから俯いた。
「…その由来も知らなかったから、私が勝手に借りたんです…。綺麗だったし可愛かったし、私他にそんな宝石持ってなかったから…ちょっとだけ借りて、みんなに自慢して見せようと思って」
全く共感できない話だが、女や一部の男が宝石を好む習性は知っていたから納得は出来た。やはり若くても幼くても女は女だ。むしろ未熟なだけに質が悪い。人のものを見せびらかして何が楽しいのだか。
「…例えば、そのイヤリングじゃなくて、落としたのが財布だったならどうなると思う?」
何でこんな話をしなくちゃいけないんだろうと思いながらカカシは頭を回転させる。どうしたらこのちょっと緩い頭の娘を納得させられるか、こんな説得のような仕事はカカシではなくてイルカの方が得意そうだとか、そんなことが一瞬のうちに浮かんでは消える。
「…どうなるって、お金は…取られると思います…」
「財布のもつ価値は、そうして拾った人間の手に移る。本来これは届け出られるべきもので、正しい行動じゃない。けどそう言った行動もしばしば取られると言うことは理解できますよね」
娘はこくんと頷く。
「拾得者はだから今回もそうしただけ。拾得物を売りさばき金にした。この店主はそんな由来も何も知らずに商品を買い取っただけなんです」
「…でも、片方だけだなんて、絶対に変に思ったはずです…!」
確かに違和感を感じたと店主も言っていて、その覚えがあるのか店主はカカシから視線を逸らし、身を縮めた。
「例えそうだとしても彼は正当な売買をしました。この場合あなたが、拾得者にそのイヤリングをただで渡してしまったようなものなんですよ」
「…そんな……」
今頃になって漸く自分の浅はかな行動を悔いているのに違いなく、娘は手を震わせて顔を覆ってしまった。
勿論カカシにはそのイヤリングを買い与えてやるだけの財力を持つし、きっと老婆にもそのくらいはあるだろう。しかしそうしてやるにはこの娘の侵した罪は重いような気がした。自分で責任をとるべきだとカカシは思う。
言い過ぎだってばよ、とナルトは口を尖らせていたがカカシに突っ掛かってこないところを見ると、その意見を正論だと理解しているのだろう。
「…高い勉強代になったわね…」
そう呟いたのは老婆だった。口を利けたのかとカカシは驚いた。
「おばあちゃん…!」
助けてくれるのかと、娘は顔を喜色に輝かせる。しかし老婆の言葉は容赦なかった。
「ご主人。この店はローンを組めるのかしら。若くても適用されるのかしら」
つまり、最後まできっちり己で責任をとれとそういう言葉だ。娘は硬直してしまっている。カカシもそうした方がいいと思っていただけに胸がすくような気分だった。
「最後まできっちり自分のしたことの責任をとりなさい。あなたはまだ私がどれだけこれを大切にしていたのか分かっていない」
おそらくは実の祖母だと思われるのに、孫娘に対して容赦ない態度だと思う反面、亡くなっている夫をとても想っていたのだろうと、カカシは頑なにも見える老婆の態度を見て考える。
そんな老婆の相手を思う気持ちに敬意を表し、カカシは店主にも口添えして置いた。
「…商売抜きで金額設定してあげてくれませんか。曰く付きのものだと分かって購入したんでしょ?」
そう、店主にだって後ろめたい所はあるのだ。愚かな娘の肩の荷を軽くするだけの行為になるかもしれないが、そうしたくなったのだから仕方ない。渋々と店主も仕入れた金額に毛の生えた程度の金額を提示し、それで月々払っていくということになったようだった。
イヤリングは無事に、持ち主の手元に帰っていった。
「ああ、もし拾得者を捜したいなら、また相談に来てどうぞ」
一応カカシは営業努力もしておいた。依頼主の娘は酷く憔悴したような顔になって、もうそんなお金はありませんよと、力無く笑った。老婆はうっとりと天鵞絨の小箱に入った装飾品を見つめ、時折感触を確かめるように指で愛しげに撫でていた。
それはとても印象的な姿だった。
恐らく、亡くなったという夫はまだ彼女の中に深く住み着いているのに違いなく、その思い出を色濃く呼び覚ます品としてあのイヤリングが存在していたのだろう。
夫からの贈り物である装飾品を大事に抱えた老婆の姿はイヤでも目に焼き付く。もしかして彼女の夫は忍だったのではないだろうかと思うとそれこそ胸を締め付けられるようだった。
カカシはイルカにそんなものが残せるだろうか。愛すべき家族に試練を与えてしまうほど大事にする宝物を与えられるだろうか。
あれが、品物の価値だけではなく、思い出が沢山付随した逸品だと言うことは分かっている。彼女と夫君が結婚したときに身につけていた品なのかもしれないし、初デートとか結婚の約束とかそういう重要な曲がり角の時に身につけていたのかもしれない。
亡くなった旦那が羨ましいとカカシは思った。
そんなものをイルカに贈りたい。そのためにはずっとイルカと一緒にいてその品と共に過ごすことが重要なのだけど、とにかく最初は大事にして貰えるもの。
クリスマスまでもう一月ほどしか時間がない。それまでにカカシは見つけられるだろうか。イルカが欲していて、そして思い出を一緒に刻みつけていくことが出来る何かを。
明日をもしれない身だからこそ、カカシはそれを必至に求めていた。
イルカに自分の存在を刻みつけたいと思っていた。
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