adagio in C minor
「ねえ、じゃあ付き合っちゃいましょうよ」
つきあっちゃいましょうよ。
イルカの脳味噌はカカシの言葉の意味を理解できず、全ての思考が停止してしまう。意味を理解した途端頭が真っ白になった。
ねえどうですか、とさらに答えを促すような問いかけが、半ば冗談のように聞こえるカカシの言葉が本気なのだと伝えている。さっきまで伝票を弄んでいた、指の長いカカシの手が視界に入りどきりとした。
あの手を自分のものにしないかと、囁かれている。
そして、そう思った瞬間に不幸慣れしたイルカの思考は負方向に突っ走った。
これがもしかして監視の最終段階に入ったということなのかもしれないと考えたのだ。
イルカの個人的な時間を出来るだけ一緒に過ごすには、恋人なり伴侶という立場が一番楽だし、それならば手っ取り早いし、後ろめたいことも一切無い。
一気にイルカの妄想力は冷え切ったカカシとの恋人関係まで想像してしまい、鬱な気分に陥った。
そして、黙り込んでしまったイルカの顔をカカシが覗き込む。
「…イルカ先生…?」
促されて、イルカは強張った顔を上げて、漸く口を開いた。
「…それって、監視の為ですか…?」
もはや聞かずには居られなかった。カカシのことを憎からず思っているだけに、聞かずには――――。
「は――――?」
カカシは呆気にとられた様子でイルカの顔を見返すが、イルカにはもうカカシの顔を正面から見据えるだけの元気がない。カカシがそこまで手段を選ばず、イルカのことを監視しようとするなんて思いもしなくて、その可能性を考えるだけで酷くショックだった。
「…監視って…ソレ、何のことですか…?」
強張ったイルカの表情に吊られてカカシの声も浮かれた雰囲気を失っている。
「…カカシ先生は、オレがあなたの素顔を見たから、オレがそのことを誰にも言わないように、誰にも言っていないか監視してるんでしょう?大丈夫ですよ、おれは誰にも言いません。きちんと墓まで持っていきます」
同僚に見た事を話してしまった事実は隠さず伝えて、それからイルカはカカシに頭を下げた。
「今後一切こういうことがないように己を戒めます。だから、もう…」
「何ですか、それ」
カカシはすこし憤慨した様子でテーブルを挟んだイルカに一歩詰めようとする。勿論テーブルがそれを阻み叶わないが、その衝撃で動いたテーブルの縁がイルカの腹に当たった。
「オレこれまであなたを一度も監視したことないですよ。素顔を見たくらいで監視するんだったら記憶を消しちゃった方が簡単です」
その意見はもっともだし、一度はイルカも考えたことを指摘されてイルカは思わず言葉に詰まる。
「あなたはオレに監視されていると思っていたんですか…?それとも普段からそういう視線を感じているとか…?」
空気が蜃気楼のように歪んでしまうような不穏な気配がむわっと立ち上る。湿度はあるのに異様に冷たい空気に感じられて、イルカは鳥肌を立てた。薄い障子をものともせずに外に漏れたカカシの怒気は他の客にも影響し、席が近い忍だけ戦慄していたが、視界を隔てているカカシもイルカもそれに気付かなかった。
「思ってません! 思っていませんけど…!」
「けど…何ですか…」
幾分空気が和らぎ、呼吸が楽になる。イルカは今の機会を逃さずに酸素を吸い込んだ。
「…か、カカシ先生がどうしてオレを構うのか理由が分からないからです…!」
イルカは覚悟を決めて全部話した。桔梗峠の任務からこっちカカシの自分に対する態度が変わったように感じたこと。それを同僚に相談したところ、顔を見たイルカを監視してるんじゃないかと提案してくれたこと。それについて自分がどう考えたか、最近知った周囲のカカシへの評価についても、この場がとても楽しかったことも、何もかも。
ただ、顔を見て話すことは出来ずに、ずっとイルカはテーブルにプリントされた木目を見ていた。
カカシは黙って聞いてくれた。顔は見られないからどんな表情をしているのか分からないが、蔓延していた怒気は次第に薄れていった。まるで高山地帯から低地へと戻ってきたような環境の良さだった。
「…さっきも言ったように…」
いつもの穏やかなカカシの声色に戻っていて、イルカは漸く顔を上げることが出来た。
「顔を見られるのがイヤなのは、まあ性分ですけど、どうしても我慢できなかったら記憶を消します」
カカシも体は完全に出口の方を向いていて、イルカの方を見ていない。子供がそっぽを向いたような体勢だ。自分の気持ちを伝えようと試行錯誤しながらの言葉は、少し拙く聞こえて、アカデミーの子供達と姿が重なった。
「あなたの記憶をそうしなかったのは…別に見られてもこの人なら大丈夫だろうって思ったから。その他に特に理由はありません。直感です。そういうのは結構大切にしているほうなんですよ。だから…というか、まあ他にもちょっと色々あって、里に帰ってからもあなたは気になる存在で…」
それはカカシなりにイルカのことを信頼しているという告白と一緒で、そんな場合ではないというのに頬が紅潮してくるのをイルカは感じた。
「何度誘ってもちっとも嫌な顔をしないから、良いんだなと思っていました。確かにこの一週間くらい少し様子がおかしいなとは感じていました。時々何かあからさまに隠し事をしているようなはぐらかし方をするし、時々真剣に虚空を睨み付けているし…疲れているのかな…と」
それはきっと、ボロを出さないようにと踏ん張っていたときの話だ。イルカは自分の余りにもわかりやすかった態度に小さくなるしかない。
「…でも、まさかそんな風に考えられていたとは、流石にちょっとショックです…」
カカシは大きく溜息を吐いて項垂れたようだった。確かに「付き合おう」と言ってもいいと思っていた相手に、監視されている――――下手をすればストーカーされていると受け取られてしまえば気分が良くない。それが例えイルカの早とちりで、周りの入れ知恵で、完全な誤解だと分かったとしても。
そして、これは最悪の結末じゃないか――――とイルカは思い至った。
イルカはだってカカシとの酒席が好きだったのだ。カカシの誘いに毎度一も二もなく飛びついていたのはその事実があるからだ。それをこんな誤解でカカシの気分を害してしまっては、もう二度と同じ関係には戻れない。
あの時話をした同僚の顔を思い出し、酷く憎らしく感じた。アイツの言葉さえなければ、疑問を抱きながらもカカシと仲良くやれていたかもしれないのに――――と埒の明かない逆恨みが心の中で沸々とわき起こる。その道を選び取ったのは弱い自分の心だと、きちんと分かっているのに。
「…本当に済みません…」
カカシを傷つけてしまった。イルカの正面で、打ちひしがれたようになっている。こんなカカシの姿を見ることになるなんて思わなかった。愚かなイルカは、心中で作り上げた悪徳カカシの魂胆を見抜き対策を練った気分でいたのだ。自分が傷ついて気分が萎れるのは当然のことだと思った。こんなあほうも珍しいに違いない。
「…流石に傷つきました…」
カカシは容赦なくイルカの傷を抉るように聞こえる声で呟く。もしかしてイルカの人を疑う心が、イルカの心だけに棲んでいた悪徳カカシをこの世に生み出してしまったのかもしれない。
「…ごめんなさい…! おれが悪かったです…。どうすればカカシ先生の気がおさまりますか…」
せめて悪徳カカシがこの世に産み落とされることだけは避けたいと、イルカはそんなことを口にした。ふっとそのイルカの言葉に興味を牽かれたのか、カカシが振り返る。
「…な、何でもします…出来る範囲で…っ」
もう一押しとイルカが言葉を募ると、カカシは身を乗り出してきた。
「…何でも?」
確認してくる所が怖い。でもここで退けば一生イルカはカカシの不興を買ったままで生きて行かなくてはいけなくなる。それはそれは木の葉はとっても良いところになるだろう。何せカカシは優秀な忍。
だから、イルカは覚悟を決めて頷いた。カカシの目を見て。――――ただし、歯は食いしばって。
そんな強張りきったイルカとは対照的に、その男の約束を取り付けたあとのカカシは、とても柔らかく笑った。それまでの不機嫌な態度はなんだったのかと思うくらい、雰囲気を一転させて。
「じゃあ、オレと付き合って」
再びイルカの視界は真っ白に。「何処へ?」とおきまりの答えも思い浮かんだが、声帯が震えることはなかった。
「何処に…って聞くのは無しの方向でお願いします。平日だけじゃなくて、休日にも会いましょうよ。勿論これからも対等な立場で。疑ったことなんて水に流すから」
それはカカシからの条件提示ではなくて、お願いになってしまっている。
「…おれ、男です…」
辛うじて出た言葉はひどく冷静なものだった。カカシの判断も至って冷静で「知っています」という返事が返ってくる。
「ねえ、『はい』って言って」
逡巡している視界にカカシの手が入った。それはすぐ手の届きそうな所にあって、イルカの手もテーブルの上に置かれている。少し伸ばせば触れることが出来そうだった。
少し伸ばせば触れられるのだろうか。
みんなが憧れている人だ。きっと周囲には自分よりも魅力的な人は沢山居る。そんな人が自分を選ぼうとしてくれている。それこそ何故だか理由は分からないけれど、こんな幸運は二度と無いんじゃないかと思えた。
はたけカカシという人の時間が自分の為に使われるという考えは、イルカの思考を甘く浸した。
だからイルカは頷いた。
「はい」
その瞬間、カカシが微笑んだ。今まで見たこともない、ひどく嬉しそうな顔で。それを引き出したのはカカシの要求に対する自分の返事で、イルカはぎゅうっと胸が熱くなるのを感じる。
「嬉しい…」
そう言ってカカシはイルカの指に触れた。これまで何度も一緒にお酒を飲む機会があったが、こうして皮膚と皮膚に意識して触れ合うのは初めてだ。そこからじわりとむず痒いような熱が生まれ、イルカの手首を這い、脳と胸に突き刺さる。けして不快なものではなく、むしろ陶然としてしまうような濃厚な甘さを持っていた。躊躇うカカシの指に、イルカもどうして良いか分からずにただ硬直した。
困った。
照れながら指を絡めてくる同性に、イルカは残念ながら気持ち悪いと思う心を持ち合わせず、ただ、その手を甘受するしかない。
いつの間にこんなに意識していたのだろうか。
にこにこと幸せそうなカカシを見ていると、こちらまで気分が和んでくる。緩い笑顔は敵対心や競争心のような闘争本能を緩やかに、しかし確実に柔らかく丸くしていくようだった。
じんわりと熱を保った手が、カカシの少し温度の低い皮膚に触れて汗が滲んでくる。それを恥ずかしく思ったが、イルカは振りほどくことも出来ずに、ただ俯いてカカシが満足するまでその手に耐えた。
くすぐったいカカシの指はいつまでもイルカの無骨な手を弄び、イルカがカカシに尿意を告げるまでその他愛ないふれあいは続いたのだった。なんとも味気ない終わり方にイルカも何だか申し訳なかったが、アルコールをたらふく摂取した体に訪れる生理現象としてはひどく真っ当なものだった。
結局その店を出た時間は十一時を過ぎていて、今までカカシと同席した酒宴の中では最長記録に間違いない。それは明日のことなど考えなかった結果で、離れがたいものを感じていたからに他ならなかった。帰る二人の足取りもとぼとぼと酷く遅いものになる。端から見れば二人してパチンコですってしまった落胆の帰り道のように見えるのではないだろうか。
とうとう辿り着いてしまった分岐点で立ち止まる。
「…じゃあ、イルカ先生。また…明日…? ね」
その言葉にイルカは思わずカカシの顔をじっと見つめた。
また明日だなんてそんなことを言われるとは、今日飲みに来たときには考えられなかった。運命って不思議だ。
カカシは何も言わずにじっと自分を見つめるイルカに小首を傾げた。なんでもないのだとイルカは首を振ってみせる。
「…また、明日…」
離れがたい気持ちがまだ尾を引いていたが、そろそろ帰らないとと理性がイルカに覚醒を促している。まだそこに留まりたい感情を振り切ってイルカは踵を返した。カカシもそんなイルカの様子を見て、自宅への道を辿り始める。それを振り返って確認したかったが、もしカカシもこちらを向いていたりしたら、駆け寄ってしまいそうだと思って何とかその衝動を耐えて、耐えて歩いた。
カカシの後頭部とイルカの後頭部がゴムで繋がっていて、離れる一歩ごとに引力が強くなっていくような気さえする。
どうにか辿り着いた自宅で漸くその引力の魔法から逃れられたような気分になり、玄関先でイルカはどっとへたり込んでしまった。前回に引き続き今回も緊張を強いられていたため消耗が激しい。半分は自分の思いこみのせいだが、もう半分は思いがけないカカシとの申し出の所為だ。
じっとしていると、自分の心臓がたてる拍動音が聞こえる。まだ緊張しているようで、その音がやけに明瞭に耳に届く。
イルカは自分の体を抱きしめるようにぐうっと小さくなって、床に額を擦り付けた。
本当にこれで良かったのだろうかと、その時になって漸く考えた。イルカは同性と付き合った経験なんて無い。断れる雰囲気でも無かったし、何よりイルカがそうしても良いかなと思ったからはいと答えてしまったが、今後のことが酷く不安になってきた。
カカシのことは多分好きだ。今までそんな自覚はなかったけれど、付き合っても良いと思えるくらいだから、きっとそうなんだろう。けれどイルカは教育者で、子供達の範となるべき立場の人間だし、カカシは、それはもう、もてる。周囲が歓迎しないのは目に見えていた。
それにお互いいい年をした大人なんだし、付き合うとなると、当然ソッチも込みの話なのだろう。
――――あのひとのちんこ、舐めちゃったりするのかなあ…
床に額を押し当てて、まるで土下座のような格好でそんなことを考える。性的接触は、多分避けて通れない。
のそりと立ち上がりイルカは漸く部屋に上がった。顔を洗って風呂は明日に回すことにして手足だけを簡単に洗い寝間着に着替えて、布団に潜り込む。火照った体に冷たいシーツが気持ちよかった。
きっとカカシが何とかしてくれるだろう、とイルカは問題を今から作り上げることを止めた。まだ始まったばかりだし、きっとカカシは恋愛にも強そうだからイニシアチブを取ってくれることだろう。それはカカシに身を任せることになるのかもしれないけれど、カカシにならいいかなと思える自分がいる。
変なことになってしまったと思うけど、後悔はない。
むしろ、まだドキドキとしているくらいだ。
アルコールも疲労も適度に体を侵しているのに、それでも少しの興奮がそれらのもたらす眠気に抗っている。自分を落ち着けるためにもイルカは目を閉じた。
暫くじっとしていると、そのまま眠りに落ちてしまった。
それが、イルカに彼氏が出来た初日のことだった。
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