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adagio in C minor




 翌朝は早めに起きたが、風呂に入らなければいけなかった上に持ち帰った書類を失念していて、結局普段より遅い出勤になった。
 始業時間ぎりぎりにアカデミーの職員室に飛び込むイルカを迎えたのは朝のさわやかな挨拶ではなく――――様々な意志を含んだ、視線だった。
 ――――え。
 まるで間違えて人の家に入ってしまったかと思うような違和感だった。一度躊躇ったが、予鈴がイルカの入室を促した。
 妙な視線の意味が分からず戸惑いながらも、時間が無い。もしかして慌てて結い上げてきた髪がおかしいのかもしれない。それならば子供達から指摘があるはずだ。大人よりも子供の方が物怖じせずにそういう指摘をしてくる。
視線を気にしないことにして、イルカは必要な荷物を持って教室へと急ぐ。今日職員会議の日でなくて良かった。
 しかし、教室に入ったイルカは思ったような指摘を子供達から得られず、内心首を傾げた。身だしなみにおかしい点がないのなら、職員室でイルカは何を見られていたのだろうか。子供達はイルカの姿を認めると慌てたように自分の席に座り、授業の準備を始めていて、イルカへ注意を向けるものは誰もいなかった。
 そうなると、あの反応は大人特有の理由からだと、イルカはピンときた。
 何となく嫌な予感がしたものの、子供達にものを教えるのにそんな集中の切れた状態で良いわけがなく、イルカはその違和感を意志の力で追いやり、いつもと同じように授業に全身全霊をかけた。


 三十人もの子供を一人の大人で面倒を見るのに限界を感じながら、イルカは今日もどうにか授業を終えて、職員室に戻ったのはお昼の時間が始まってから十五分は経過していた。机上授業にも拘わらず鉛筆で遊んでいて怪我をした子供が居たのだ。その子供を医務室に連れて行き、治療をしながら適度な説教をしていたらいつの間にか昼休みに割り込んでいた。
 午後から受付だなあ、とぼんやり思いながらイルカは職員室の引き戸を開いた。自分の席に辿り着くまでに、再びいくつもの視線を集めるのを感じる。朝よりもいくらか遠慮がちなものだったが、それでも、勢いは容赦ない。だからといって誰かイルカに用事があるという風でもなく、居心地は最悪だ。
 ――――何なんだ〜!
 内心悶えながら、イルカは漸く自分の机に辿り着いた。隣の席の同僚までがじぃっとイルカを見ていて、視線が合った途端にあからさまに視線をばっと背けられた。
「何だよ〜、その態度〜!」
 二年間も隣の席で仲良くしてきたはずなのに、急にそんな態度をとられると流石に腹が立ってくる。しかもイルカにはそんな視線を受ける理由が分からないため、その怒りをどこに向けて良いか分からず、その同僚がスケープゴートになってしまった。
 恵まれた体格をしたイルカに襟刳りを掴まれて、小柄な同僚はあたふたとし、そして逃げられないと知ると引きつった笑みを浮かべた。
「はい、笑って誤魔化そうとしてもダメ。何があったのか吐きなさい」
「でも大したことじゃないんだよ〜」
「…でも知ってるんだろ?」
 彼はうひと変な声で呻いた。吐くまで離さないという脅しを込めて、少し襟刳りを掴む手を強くすると僅かに首が締まったらしく、「ギブ、ギブ」とイルカの腕を二度叩いた。
「本当のことを言うな?」とわざわざ確認して、頷くのを見届けてからイルカは手を離した。
「いや、昨日の受付で大声で喋ってたんだろ? だからみんな知ってるんだよ〜」
「だから〜、何のことだよ〜!」
 そこがイルカには分からない。そこが聞きたいのに、勿体ぶったように口にしないからイルカは焦れたように促した。
「はたけ上忍の素顔を見たって話だよ」
 とぼけるなよ〜と、言った同僚の顔が一瞬にしてモノクロになったようなショックを受けた。そんなことがあったことを忘れていた自分も自分だが、カカシの素顔に興味を持っている人間がこんなに居るとは思わなかった。イルカに視線を向けた人間の全てが、はたけカカシという人物を知っていると言うことであり、彼の口布の下を見たことが無く、不思議に思っているかもしくは興味を抱いているという事実を把握した。
「なあなあ、それでどんなんだったの、はたけ上忍の素顔って…!」
「…え…っ!」
 まさか知りたいと言い出すとは思いもしなくて、イルカの頭はモノクロから真っ白になった。
 そして、周囲で同時期に「言うな!」とか「え、何々?オレも知りたい!」「私も!」と意見が真二つに割れに割れ、いつの間にか職員室はイルカを中心の人だかりと、それを遠巻きに離れた人垣が出来て、まるで逆ドーナッツ化現象が起きていた。
 それで、カカシの素顔はどんな風だったのかと迫る人だかりと、遠くから聞こえる「言うな!」「言うなよー!」という怒りの声にイルカは押しつぶされそうになる。
 まるで職員室が二極化した戦場のようになっている。その中心はイルカだ。
 ただカカシの素顔を見てしまっただけなのに、こんな戦争に巻き込まれてしまうなんて。
「いいなあ、はたけ上忍の素顔を見たなんて! それってかなり信用されてるってことでしょ?」
「口布しててもかっこいいのが分かるもんねえ!」
 と間近でイルカを取り巻いている人間の中には年若い女性が多く。
「言うな、言うなよ! おれはまだ死にたくないんだ!」
 と叫んだのはこの前家を新築したばかりの教頭を始め、何らか人生にしがらみの出来てしまった人々が多い。
 人間の背景が透けて見えて面白いな、と考えてしまうイルカの混乱した頭は、状況を打開することを考えるのではなくて、自分がここにいないものとして見ていて、無意識に現実逃避をしていた。
 そんなイルカを現実に引き戻したのは一本の腕だった。誰ものかは分からない。今イルカはおしくら饅頭の真ん中に居るようなもので人と天井以外視界に入らないような状態で、そんなイルカの腕を誰かが引っ張った。
「ねえね、イルカ先生! それでどんなんだったの。かっこよかったの?」
 そう間近で問うてきた彼女の腕だったのかもしれない。
「左目は写輪眼だって言うけど、それは見た?」
「眉毛ってそう言えば銀色なのかしら。そしたら睫毛も銀色?」
「これで鼻毛出てたら幻滅よねえ…」
 そうやってイルカに意見を求めながらも勝手に盛り上がって推測している分にはまだ良かったが――――。
「ねえ、変化してみてよ。それが一番わかりやすいって!」
 誰かがそんなことを言い出し、その渦は一気に高まった。やれやれ、見たいと煽る紅い熱と、止めろ死にたくないと言う暗い熱が渾然一体となってイルカに襲いかかる。
 そんなに押されたら組める印も組めないって。
 ――――というか、イルカにはカカシの素顔を晒すつもりはない。
 イルカだって命は惜しいし、人が隠しているのを不意に見てしまったからと言って、勝手に晒していいはずがない。イルカは漸くその自分の意志を見つけて、
「オレは!」
 興奮している同僚達に向かってイルカは漸く口を開いた。その一言だけでしんと静かになってしまう。まるでその場のイルカはその場の注目を一身に受けるステージ上のスターのようだった。
「オレは今後一生カカシ先生の素顔のことについて喋るつもりはありません!」
 冷静なればとても変な宣言だと思うが、その時のイルカはそんな冷静さなど持ち合わせていなかったし、周囲も同様に興奮の極みにあった。
 呆気にとられている同僚達を振り切って、イルカは必要な荷物を取ると一目散に職員室を逃げ出した。
 しばしば子供は怪物だとか怪獣だとかそういう表現をされてしまうが、大人も十二分に恐ろしい存在だ。職員室は今や伏魔殿となってしまった。
 嘆きながらイルカは空腹を抱え受付に駆け込んだのだが、受付でもほぼ同様の現象が起こり、その日はほとほと疲れ果てたのだった。




 この一件でイルカが理解したことと言えば、はたけカカシがあらゆる人の興味を引く存在だったということだ。
 確かに目立つ存在だとイルカも思っていた。忍が目立つのは余り良くないことだろうが、自然と目がいってしまうのはイルカも認める。
 まず身長が高い。猫背なのに殆どイルカと視線の高さが変わらないということは、長身である方のイルカよりも更に高いと言うことだ。
 そして、あっちこっちにはねた銀色の頭髪。まるで自己主張しているみたいで、人混みの中でもその高さと相まって相当目立つことだろう。
 極めつけはその怪しげな風貌だ。額宛を斜めに宛て左目を隠し、更に口布で鼻から下を覆っていて、顔は殆ど露出していない。だからこそこうしてまことしやかに噂されるのだ。
 そういった外見に加えて忍の経歴実力共に一流となれば、注目したくもなるのも当然かもしれない。あんまり普通に接してくれるものだから、イルカにはカカシがスゴイ人だとかみんなの憧れだとかそんな認識はまるで無かったのだ。
 どちらにしろ、何だか落ち着かないような変な気分だ。
 イルカに顔を見せたカカシ。これは事故だったのかもしれない。けれど、その後頻繁に夕食に誘ってくる。これだけもてるならば他に行きたいと考えている魅力的な人はいくらでも居るだろうに、イルカをわざわざ誘ってくれる。
 ――――やっぱり、監視するためなんだろうな…。
 その考えは納得行くものだったのだが、何故かイルカは少し落胆してしまった。
 カカシが受付に姿を見せたのは、その翌日だった。自分のことで騒ぎがあったことなど何も知らず、個人の任務の報告書を持ってやってきた。
 その姿を見た瞬間に、イルカの胸がしくりと痛んだような気がした。カカシは迷うことなくイルカの姿を認め、そして真っ直ぐにイルカの元へ報告書を運んできた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
 いつも通り愛想をたっぷりと漬け込んだ挨拶を交わし、報告書を受け取る。書類に記入ミス記入漏れがないかを確認し、領収書など貼付された書類にも抜けがないかを一枚一枚めくって目を通して、確認印を押す。それをカカシのファイルに収めてしまえば受付は終了だった。あとはそのファイルが経理を巡り火影を巡り、巡り巡って給与に響く。
「イルカ先生、今日は何時に終わりますか?」
 正直、来た!――――と思った。そのカカシの言葉を待っていた。話を、真剣な話をしようと思っていたのだった。イルカから階級が上であるカカシを誘うことは難しい。その話し以降、こうして誘ってくれることは無くなってしまうかもしれないけれど。
「今日は定時に…十七時に終わりますよ」
 残業はしない。きっと今日はこれから精神的に疲れるだろうから、それ以上に疲れる作業はしたくない。カカシとの話に全エネルギーをかけるつもりだ。
「じゃあ、晩ご飯食べにいきましょうよ」
 カカシはなんの力みも感じさせずイルカをさらっと誘った。
「ええ、良いですね。行きましょう」
 親しくなれていたと感じたが、それも今日で終わりかもしれないと思うと、与えられたものがたとえコンクリートで包まれた優しさであっても、淋しいと感じてしまう。だから、その淋しさを思ってイルカはふっと視線を下に落とした。
「じゃあ、いつもの所で待ってますね」
 カカシはイルカの後頭部に張り付いた尻尾にそう語りかけて、いつものように颯爽と踵を返してしまった。
 気分が重い。
 しかし、どう転んだって最後になる可能性は高く、そうなるのだったら、楽しんだ方がいい。いつもカカシとの食事は楽しかった。カカシはいつだって場を和ませることに協力的だったから、きっとイルカの心がけ次第で今日も楽しくなるのに違いない。
 本当はこの場で話を切りだして、今この時点で終わりになってもおかしくない状況なのに、それをしないのはイルカのわがままだ。
 せめてカカシに嫌な思いだけはさせないように努力しないと。
 イルカはそう自分に言い聞かせ、それは残業をしないことから始まると、おろそかになっていた業務を再開させたのだった。
 未だに痛い同僚達からの視線を受けながらイルカは仕事を終えて、受付を後にした。
 カカシはいつものベンチに座っていた。今日は本を広げて秋風に晒されている。夕焼けに透けた銀髪が美しく、怪しい口布さえ無ければ一幅の絵になりそうだと思った。
 ――――タイトルは…
「…イルカ先生?」
 カカシはイルカが声をかける前にこちらに気が付き、ぼんやりと夢想に浸っていたイルカを引き戻した。絵が、動くはずもない。
「…お待たせしました」
 バカなことを考えた。
 イルカはそう自分の行動を嗤い、カカシの傍に歩み寄る。それを当然のように受け止めカカシも歩き出した。
「今日行く場所は決まってるんですか?」
 イルカはもう、カカシがどこに自分を連れていこうが、恐れては居なかった。
「まだ決めていませんが、そう言えば昨日茶の葉通りに新しい店がオープンしていたのを見ましたよ」
 それはイルカと飲みに行こうと思ってチェックしていてくれたと言うことだろうか。だとすれば何となく嬉しい。そんなことはないのだろうけど。
 新しく出来た店なら、新しもの好きな人間で今日は犇めくかもしれない。周囲が賑やかなら、イルカもその場の雰囲気で、沈みそうになる気持ちを巧く盛り上げることが出来るかもしれない。
「じゃあ、取り敢えずそこに行ってみましょうか」
「そうですね」
 カカシとイルカは茶の葉通りに向かって歩き出す。
 途中でカカシが「この調子で茶の葉通りに通い続けていたら、近い内にお店を全部制覇してしまいますね」と言う言葉が胸に刺さった。傷ついたような気持ちになるのは自分の勝手だから、出来るだけそれを見せないように「じゃあ、そのあかつきにはガイド本を作りましょうか」と応じておいた。
 二人は道道の店であそこはどうだった、そこはまだだと話しながら目的地までちょっとした会話が盛り上がった。
「さて、ここはミシュラン木の葉版では星を貰えますかねえ」
 などと冗談を言いながら到着した店には、カカシが言ったように「祝開店」と書かれた花輪が飾ってあり、構えも吊られた提灯も真新しかった。
「いらっしゃいませ! どうぞ! 開店サービスとしてドリンクが最初の一時間、半額になっています」
 新店舗なだけに玄関前で客引きが行われていて、店員らしき若い女性ににっこりと笑顔を向けられる。誘われるままに暖簾をくぐれば、まだ思ったより人は入っていなかった。
 それもその筈、まだ時刻は十七時半を回ったくらいで、本格的に客が入ってくるのは一時間後くらいからだろう。
「出来れば個室が良いんだけど…」
 イルカが店内を見回している間にカカシが店員に口布を指さしながらそんなことを言っている。応対した店員はにこやかな様子で二人を少し奥まった座敷へと案内した。そこは大宴会場をいくつかの障子で区切った小部屋で、一応衆人の目からは逃れることが出来そうだ。
 こう隔離されていては、いくら店が賑やかでもあまり関係なかったな、と思いながらイルカはふかふかの座布団に腰を下ろす。
「本日は初めの一時間お飲物が全品半額になっておりますので」
 店員はそう言いながら本日のお勧めのお品書きとおしぼりを二人に差し出し、その場に跪く。次の仕事に行かず、ここでオーダーを待っているところを見ると、やはりまだ忙しくないらしい。
「うわ、天狗走りがある、秘踏みに剣閃… 色々揃えてありますねえ…!」
 カカシが飲物のリストを見ながら感心したように呟くが、そのどれもイルカは聞いたことがなかった。
「カカシ先生、お酒に詳しかったんですか…?」
 これまでの店ではそんな雰囲気はちっとも無かった。こんなにお酒の種類を取りそろえているところに行っていなかったのかもしれない。
「うーん…名前だけ。知識として、一応」
 きっと任務関係で覚える機会があったのだろう。色んな経験している人だなあ、とイルカは心から感心する。
「一時間は飲物半額だそうですから、高いのから順に制覇していってみたらどうですか?知識だけじゃなくて、体験することも必要ですよ」
 そのイルカの言葉に、一瞬店員がひくりと戦慄き、カカシは目を見開いた。
「それは良い案ですね。じゃあ、そうしましょう。あなたと半分ずつ飲めば倍速でいけますね」
 カカシはそう当然のように言い放つとイルカの了承など取り付けず、店員に高い方から二種類飲物を注文してしまった。
 別に構わないのだが、その無防備な信頼に胸が詰まるようだった。その息苦しさからイルカは早く逃れたい。
 しかし今は忘れよう…と、気持ちを切り替えるためにイルカはお品書きを広げた。
 品数は多いとは言えなかったが、チェーン店ではないようだから仕方ないのか。毎日変わると思しき手書きのお勧めメニューから幾つかと、普通のメニューからエビの霰揚げと串焼きを数本、カカシと一緒に見繕い、タイミング良く飲物と先付けを持ってきた店員に食事の注文をした。
「えーと、これは何でしたっけ…」
 升の中に小振りなグラスが鎮座し、そのグラスにも升にも無色透明の液体がなみなみと注がれている。
「イルカ先生のが乱れ雪月花、こっちが心形です」
 どちらも聞いたことがない。ちらりと飲物リストを見てみると、そこには普段イルカが絶対頼まないような値段が提示されていた。半額になるとはいえ、少し驚く。イルカの目の前に置かれた一杯分の金があればファミレスで結構贅沢が出来る。定食を頼んでドリンクバーを付けて、ついでにデザートにもありついてもお釣りが来るような値段だった。
 ふたりは机の上を升ごとそろそろとスライドさせて、端をかつんとぶつけた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
 本日二度目となる労いの挨拶を交わし、酒宴の開始となった。これが最後になるかもしれないと心の端っこで思い、イルカはそれをもっと奥へと押しやった。押しやっても押しやっても不安を主とした色んなドロドロとした感情の上に載せることだけで精一杯で、それらの感情がふとしたことで沸き上がってきて、それを元の位置まで戻してしまうから、その場しのぎにしかならないことは分かっていた。それでもそうするしか無く、きっと何度もこの飲みの間にその作業を繰り返すのだろう。
 もうイルカは認めないわけには行かなかった。
 自分はこのカカシとのささやかな酒宴を気に入っている。これからも続けたいと思っていた。しかし、自分が監視されている対象ならば、これはなんて苦い状況なのだろうか。自分一人が楽しいと思っていても、相手が義務感でそれを行っているとしたらそれはとても辛いし、そう思ってしまった瞬間からイルカも楽しくなくなってしまう。
 だから今日を最後に、この歪んだ交流を終わらせよう。せめて最後だから楽しく飲もう。
 そう思ってイルカはこの場に臨んでいた。カカシと居て楽しかったのは事実だ。きちんと最後はありがとうを言って終わろうと心に決めていた。
「うーん、飲物の豊富さは星が貰えますね〜」
 グラスに口を付けていたカカシはうまーと呻いてからさっきまでの話を引用して誉める。晒されたその顔を見ないようにしながらイルカもカカシに倣って、グラスから滴る酒を升で受けるようにしてグラスを持ち上げて一舐めした。さらりとしていて、きつくないのに、きちんと酒の味がする。それはとても飲みやすい酒だった。
 二人が酒を堪能している間に次々に料理が運ばれてくる。まだ混んでいない時間に訪れたのは正解だった。飲物も滞り無く運ばれてくるし、利き酒(?)も順調に進む。
「何だか楽しくなってきました」
 カカシがそう言ってくれるだけでイルカは今日来た甲斐があるというもの。酒の飲み比べをメインに話題は盛り上がり、任務先でのお酒の話や、水、米、その他穀類に関する話から、畜産の話になって、それから何故か人食の話になった。
 相変わらず話題の豊富なカカシとの時間は楽しく、初回一時間などあっという間に過ぎたし、それを意識しないまま三時間目にも突入し、結局周囲に人が多くなり騒がしくなってきたことにさえイルカは気付かなかった。静かな店に入ろうと騒がしい店に入ろうと結果は変わらなかったということだ。
 イルカは十二分に楽しんだし、カカシも楽しそうに見えた。
 それでも心のどこかに自分だけが楽しんでいるのだろうという昏い思いも、残っていた。
「あ〜まだこんな時間ですよ」
 カカシが懐中時計を取りだして、イルカに見せてくれる。入店してから四時間も経つのに、まだ十時前を指している。
「入った時間が早かったですからね」
 時と場合によってはまだ仕事をしている時もある。きっと師走になればそういった機会も増えるに違いない。年内に終わらせたいと依頼主が急いて押し掛けて、木の葉は年の瀬が近づくといつも満員御礼となる。所謂書き入れ時なのだ。
「この店、この前の『吉』ほどじゃないけど、気に入りました」
 星一つですね、とカカシがくふくふと笑う。酔いに浮かれたような無邪気な笑みだ。
「あそこ気に入ったんですか」
「ええ。だって、料理が美味しかったじゃないですか」
 ここもおいしくないことは無かったけど。
 カカシはそう付け加えながら伝票をめくっている。
「あれだけ飲んだのにスゴイ安い〜!」
 最初の一時間は半額だというから調子に乗って沢山飲んだら、すぐに限界が訪れた。その後、二人ほぼ同時にペースダウンしてしまい、詰まり半額時間だけ都合良く集中して飲んだ為に、種類だけは沢山飲んだけど、金額はそんなに跳ね上がらなかったということだ。
「それでも半分くらいしか制覇できませんでしたねえ…」
「また来ましょうよ。もしかしてまだ明日以降、初回一時間半額キャンペーン続いているかもしれないし」
 そのカカシの言葉に、イルカはぴくりと反応した。
 いつもなら、そうですねと差し障り無い返事が出来たはずだった。しかし、今日はそんな適当な返事をすることも出来ず、思わずぐっと言葉に詰まる。
 カカシはいつもより酔っぱらっているのか、いつもは目敏く気付きそうなイルカの変化に全く気にも留めずにぼんやりと言葉を続ける。
「…なんか毎週っていうか三四日に一回ぐらいの頻度で一緒にご飯食べたりしてますよねえ。まあ、オレから毎回誘ってるんですが…」
「…そうですね。これが男女なら間違いなく付き合っているカップル同士って言うところでしょうね」
「そうか〜、男女なら付き合ってるように見えるのかあ…」
 カカシは上機嫌な様子で笑いながら伝票をめくるのを止めて、元の位置に掛けた。
 そして、カカシが告げた言葉はこれまで予想だにしていない言葉だった。
「ねえ、じゃあ付き合っちゃいましょうよ」



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