adagio in C minor
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二週間と言われて、冗談じゃないと思ったが、命令されてしまえばイルカに抗う術はない。子供達の面倒は誰が見るんだとか、受付の方は同じ任務にもう一人借り出されると言うし、出来れば里に残りたかったが、任務の詳細を知っているだけにどちらが緊急性を要するかを考えたとき、イルカは里の決定に納得せざるを得なかった。
そうしてイルカはカカシを隊長とした任務に就くことになったのだ。
元々、カカシとはアカデミーの卒業生であるうずまきナルト、うちはサスケ、春野サクラの三人を介して知り合いだったが、共に任務に出て以来妙に懐かれてしまったようだった。
それまでも子供達のことについて話をすることはあったが、それは業務の域を出るものではなく、場所もアカデミーにある面談室だったり、火影屋敷にある一室だったり公式な場所での事務的なものに限られていた。本来の目的が終了したその後、時間や気分次第で何度か飲みに行ったことがあるものの、純粋にそれが目的であったことなど一度もなかったのに、あの任務を境にカカシから飲みに誘われるようになったのだ。その場にタイゴとコブシが居ないのがどこか後ろめたい。
三日前にも行ったのに、今日もカカシはイルカとの夕食の約束を取り付けて、受付の窓から見下ろせるベンチでイルカの定時を待っている。かなり空気は冬めいて、日の入りが早く外は既に薄暗い。そんな吹き晒しの中で本を読んでいるのだろう。いつものイチャイチャパラダイスという怪しいタイトルの本だ。
「また今日も誘われてたな」
もう少しで定時と言うこともあり、受付に人はまばらだ。その同僚も後かたづけか明日の準備に取りかかっているのだろう、手にした書類を纏めながら隣のイルカに声をかけてきた。
「迷惑なら断ればいいのに」
「いや、迷惑っていうか…」
迷惑ではないけれど、戸惑っている。なぜカカシが自分を構うのか分からないからだ。彼は木の葉でも手練れの忍だし、素顔も驚くほど整っていた。性格も穏やかで、女性達が放っておかないだろう。実際にカカシに憧れている人間というのは男女問わず多いことも知っている。一緒に街を歩いている時には視線を感じないときがない、というくらいに見られているし、ナルト達を介してカカシとイルカが知り合うことになると知った一部の同僚達が酷くうらやましがっていたことはまだ記憶に新しい。
「まあ、一時だけだよ」
これから益々空気は冷えてきて、人肌の恋しい季節になる。カカシは同性だし、まだ上司以上友人未満の間柄だけど、一人で居るよりも楽しく充実している。利用しているといえば聞こえは悪いが、お互いに利益が一致しているのだ。カカシの利益がなんなのか見えないのが不安だが。
「でも、結構頻繁だよな。余程お前のことを気に入ったんだな、はたけ上忍。この前任務で一緒だったんだろ?」
「ああ。でもそんな大したことはしてないし、目をかけて貰ったという感じでもないし…」
もともといくらか顔見知りだったということもあり少しは親しくなったかもしれないが、タイゴやコブシと扱いは同じだったように思う。何かカカシの気に入るようなことをしたかというと、そんなことはなく、あの幻術使いの家の老人へ薬を持っていったときにはイルカのお人好しに触れ、呆れていたようだった。
「…じゃあ、逆に弱みを握ったとか…?」
同僚はそう言ったその口で、「まさかはたけ上忍がイルカにそんな隙を見せるなんてことあるわけないよな」と一笑しているが、その同僚の言葉にイルカは動揺した。
「…弱み…?」
弱みではないと思うが、イルカは見てしまった。
いつも隠されているカカシの素顔を。
「え…っ、なんか握ったのか…?」
同僚はイルカの動揺を敏感に悟って、話しながらも動いていたはずの手までも止まってしまった。
「いや、弱み…って…そんな感じじゃ無かったけど…」
イルカはだってカカシにきちんと自己申告したのだ。カカシに素顔が出ていると告げたのだから、それを面白くないと思えばカカシはどうにかしたはずだった。写輪眼を持つカカシなら、イルカの記憶を操作することなど容易いはずなのに。
それとも、アレは本当に弱みなどではなくて、カカシは気にすることなく晒しているのだろうか。
「…カカシ先生の素顔を見たんだけど…、それって弱みって言うかな…?見たことある人、他にも居るんじゃ…」
ともすればあの任務中にタイゴやコブシも見ていたかもしれない。イルカは長風呂が好きだから温泉に浸かっている間にカカシとタイゴ、コブシはシャワーを終えてしまっているという感じだったから、その間にカカシの素顔を見る機会はあったかも知れない。
「そ、それだー!」
だから絶叫したような同僚の剣幕に、イルカは心底びびり、震え上がった。何事だ、と受付にいる人間の視線を集めてしまうことを何とも思わないのか、同僚は椅子をはじき飛ばしそうな勢いで立ち上がる。
「それだよっイルカ! お前そんなもん見てるからだ!」
「? な、何が…っ?」
興奮した同僚の、上からの怒声に似た声に、イルカは思わず萎縮してしまう。これまで何度と無く経験してきた『怒られる』という状況に一瞬体が竦んでしまうのだ。
「はたけ上忍の素顔と言えば現代七不思議や都市伝説になるくらい、得体の知れないものとして有名なんだぞ!」
得体の知れないものって、あんな出来のいいものに対してなんてことを言うのだと思いはしたがイルカは口にしなかった。硬直していたからだ。その思考もすぐに同僚の熱い語りに掻き消されてしまう。
「実は口が裂けているとか、砕かれた顎の替わりの鋼鉄が露わになっているとか噂は尽きないし、実際そのどれもはたけ上忍は否定していないし、見た人間は生き残っていない!里のトップシークレットという噂もあるのに、それを見たってお前。それははたけ上忍の監視対象になっちまったってことじゃないのか!」
監視対象。つまり、カカシはイルカがカカシの素顔をばらしてしまわないかと見張っていると言うことで、あの任務以来発生した飲みというのはただの口実で、イルカがばらしていないかを探る隠密活動だったのか。
それはイルカにも納得できる理由で、少し青ざめた。
「じゃあ、今日の飲みも…」
「ああ、きっと探りを入れられるに違いないよ…!」
「お、お前誰にも言うなよ…! オレがカカシ先生の素顔を知ってるってこと…!」
イルカは幸いにも今日の今日まで誰にもカカシの素顔を見たことを口外していなかった。それが今日まで自分の命を繋いでいた行為だったかもしれないなんて。
「言うかよ! オレだって命は惜しいし!」
そこで二人はがっしりと固く握手を交わしたのだが、その命の危機に隣接した興奮状態が今の状況を失念させていた。
そう、そこは人の集まる木の葉の顔。受付であって、そして、同僚の声はその場に不必要なほど大きく、その場にいる忍の殆どが、会話を聞こうと思えば聞けた状況だと言うことに気が付かない。
そして、興奮状態も解けないままに運命の終業時間を迎えてしまったのだった。イルカは何度も後ろを振り返り、同僚の大きく手を振る姿を目に焼き付けた。もしかして、今日がイルカの命日になってしまうのかもしれないと思えば、俗世間とのか細い繋がりもかけがえのないものに見えたのだった。
いつも通りカカシは受付の窓の真下にあるベンチに腰掛けていた。流石に指先が冷えるのか、手はベンチと尻の下に敷かれていて、ぼんやりと中空を見ていて、イルカが見ていることに気付いた様子もない。
「…カカシ先生…」
そう呼びかけて、漸くカカシはイルカの方を振り返った。それからにっこりと目を細める。イルカを出迎えるためにベンチから立ち上がった。
その一連の行動に嫌われている感じがしないが、彼は優秀な忍なのだ。自分の考えなどオブラートどころかコンクリートで包める上忍だから、表面上を見たところで彼の真意など窺えないのだ、と肝に銘じた。
「お疲れさまです。今日は早かったんですね」
追い出されたのだ、あの同僚に。出来るだけ怪しい行動はするなと、そう釘を刺されて仕方なく、少しの残業はイルカの肩からぶら下がる鞄の中にある。ええ、まあと応じる声はいつもより固いものになったが、カカシは気付かなかったようだ。
「今日はどこにしましょうか。茶の葉通りはまだ制覇していませんよね〜」
のんびりとしたようなカカシの声にイルカははっとする。このままカカシのテリトリーに足を踏み入れるのは危険だ、と咄嗟に思った。
「今日は、お、オレが決めて良いですか?」
今まではカカシに言われるままに店に入っていたが、もしかしてその全てがカカシの息が掛かった人間の店だったのかもしれない。イルカを搦め手にする手段の一つだったのかもしれないと思えば、イルカはカカシの誘う店など怖くて入れなかった。
しかし、イルカの僅かばかりの抵抗などどこ吹く風とばかりに、カカシは「ん?いいですよ」と軽く承諾した。
「どこかお勧め所でもあるんですか?」
と促されて、イルカは出来る限りカカシのイメージに合わない、行ったことの無いような店を考える。しかし、ここ何回かでカカシが比較的庶民だと言うこともイルカは知っていて、非常に悩んだ。
そして、白羽の矢が立ったのはイルカが二度ほど行ったことのある近所の小料理屋だった。『吉』というその店で出してくれる出汁巻き卵が旨かったのだと思いだし、そんな場合じゃないはずなのに口の中に唾液が分泌される。イルカの中で一番強い本能は、やはり食い気なのかもしれない。
「へえ、良いところですね」
カカシは吉の古いけれど小ぎれいな構えを気に入ったようだった。奥の座敷をわざわざ用意して貰い、四人がけの座卓に対峙して座った。すぐに小粋な色無地を纏った女将がおしぼりを持ってきてくれる。生ビールも飲めないことはなかったが、ちょっと肌寒いように思えて、熱燗を頼めば、カカシもじゃあそれを二つと追従した。
「よく来る所なんですか?」
カカシは余程ここが気に入ったのか、きょろきょろと店内を見回している。ありがちな有名メーカーのビールを推奨するようなポスターなどは貼ってない変わりに、メニューが書かれた木札が掛かっている。カカシはそれを眺めて、「あら煮、美味しそうですね」とか「あ、サンマがある」などとにこやかに話しかけてくる。
最初はこの笑顔に騙されちゃいけない、と自分に言い聞かせていたイルカ。
飲物と料理が揃い、少しずつ飢えが満たされ酔いが回ると、コンクリートの笑顔で包まれた本心がその奥にあるとは言え、イルカは見えてしまうものを信じてしまうタイプだから、隙を見せないようにと気を張っていたってその笑顔にそんな決意などすぐに忘れてしまう。
だから――――
「イルカ先生こそ、今日はどんな風だった?」
と話題をこちらに向けられるたびに、(もしかして探りを入れられてる?)と勘ぐってしまい、「おれはいつも通り――――」とか「それよりも――――」という巧くない切り出し方で乗り切ろうとする。
「ナルト達はどうですか?」
と、あからさまに子供達の話題へと水を向けると、カカシは「仕事の話しですか〜…」と面白く無さそうだったが、丁寧に子供達の様子を教えてくれる。
広義での職種しか共通点がないカカシとイルカの二人が話をするとき、仕事の話し以外にどんな話をするのか何に期待していたのか、内心首を傾げたが、墓穴を掘る可能性も低くないので口にはしなかった。
今日の彼らの任務はイルカも良く知るお得意さまであるシジミの依頼だったため、あんな忙しない女性を奥さんにする大名とはどんな人物なのだろうかから始まり、最近の大名達の傾向、代替わり、忍の引退、保障問題と話題はあちらこちらに飛び火した。
途中、何度かイルカに自身に関する質問を向けられ、その度に冷や汗をかきながら(この返答で満点だろうか)などと考えながら答えを捜すので心は安まらなかったが、いつものように充実した席になり、あっという間に時間が過ぎていて、店を出る頃には十一時をまわっていた。
今日はその店の前で分かれることになる。なんとか生き延びることが出来たようだと、ほっと胸をなで下ろしながら、カカシに別れの挨拶をするために振り返ると、カカシがじっと自分を見ていた。余りにもその視線が真摯だったものだから、心臓が鷲掴みにされたように呼吸が止まったようになる。
「……イルカ先生…」
はい、と返事をしたつもりだったが、唇が動いただけで声は出なかった。それとも、あまりにもカカシの言葉に集中していて自分の声まで聞こえなくなったかのどちらかだ。
カカシはすぐにイルカから視線を逸らしてしまったから、何とか酸欠は免れた。彼は視線を逸らしたまま、自分のつま先あたりを見つめている。
「――――やっぱりいいです。なんでもありません」
なんて気になることをするんだ! と心中で絶叫したが、これでもしかして首の皮一枚で繋がったのかもしれないという思いも捨てきれなかった。
カカシは何か言いかけたことなどあっさりぬぐい去ってしまって、いつものように穏やかな笑みを浮かべて「今日も楽しかったです。じゃあ、また今度ね。イルカ先生」と言い残し、踵を返した。
要所要所で緊張を強いられるのは、延々と緊張状態が続いているよりも酷く心臓と精神に負担をかけることが分かった。
今日は生き延びたが、明日はどうなるか分からない。カカシはまた今度と言っていたから、近い内にまたお誘いが掛かるのはまず間違いなさそうだ。
いっそのこと、その写輪眼の力でこの記憶ごと消し去ってくれないかと思ったが、そこら辺は結局カカシのさじ加減次第だ。イルカはカカシの手の上で転がされているのに過ぎず、きっとこれから摩耗していくのだろうなと、溜息を吐いた。深く深く。
家に帰り着くと強いられた緊張によりどっと疲れが出て、まるで糸が切れるようにベッドに倒れ込んだ。酔いと相まって、風呂に入る元気もない。
明日は朝風呂だと思いながらイルカは、ふうっと息を深くするだけで抵抗もなく意識は薄らぎ、やがてイルカの手から離れた。
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