adagio in C minor
余計な肉が付くのがイヤだから余り摂取することが無かった夜食を宿に準備して貰って、コブシはそれを詰めて、何かに追い立てられるようにして宿を後にした。タイゴは明日に備えて夜食を摂らずに横になり、既に煌々とした明かりの中で寝息を立てている。
カカシとイルカは塩握りを漬け物とお茶で流し込む。カカシの場合空腹は集中力を削ぐが、満腹は眠気を誘う。これからのことを考えて適度な量を考えて食べた。イルカは構わずにカカシより一つ多い握り飯を平らげて、水分も塩分もしっかり補給しているようだ。カカシは口布をしているから幾分平気だったが、この乾燥した空気で喉が乾いていたのかもしれない。
二人は忍具の準備を整えると、再び忍犬と共に宿を出た。そして、臭いを辿ってあの小屋へと急ぐ。
目的は一つ。三十がらみの女が持っていた手紙を手に入れること。今度はさっきみたいに生やさしい侵入ではなく、生活空間にまで足を踏み入れなければいけない。出来るだけ痕跡を残さず、迅速な行動を求められる。
あたりをつけて捜すしかない。恐らく手紙は居間ではなく、あの女の部屋にある。居間に持ち込んだものを再び持ち去るのをカカシは見ていた。
今度は急いだことと目的地が明確だったこともあり、最初に来たときよりも随分早くに辿り着いた。こんなに近かったのかと思うほどだ。それだけ慎重に山道を歩いたあの一団の中心、幻術使いはゆっくり歩かざるを得ないほど疲弊していたということが分かる。
早速二人は小屋に忍び込む。忍犬はその間自分たちに課せられた仕事を忠実にこなし始める。
イルカの話だと術者が横になった部屋にはベッドが二つあったと言うことだから、ここを女二人で共有している可能性が高く、まずそこを念入りに捜すことにした。
案の定その部屋にはあの女が寝ている。目覚ましのタイマーは午前五時。あと一時間ほどで目を覚ましてしまうが、カカシとイルカもそんなに長居する気はない。手袋を填めて取り敢えず片っ端から捜した。恐らく十九回目の幻術をかけるという作業で、証拠に対する扱いがぞんざいになってきているか、もしくはコレクターのようにきっちりファイルされているかの両極化しているはずだ。
音もなくカカシとイルカは家捜しを続け、数分の後にイルカが気になるものを発見したようだった。
それはファイルだ。広げてみると中はクリアポケット式で、中には余り巧いとは言えない文字の手紙が収められている。
その内容は――――依頼だった。
日時と人数、どんな見てくれの人間か、報酬の話し、全てが略奪の記録と殆ど一致していた。どんな荷物を運んでいるかは一切書かれておらず、やはりこの幻術使いの一団が荷物の掠奪自体には拘わっていないことが色濃くなる。
カカシとイルカはそのファイルごと全てをその部屋から持ち去った。ばれても構わない。次にカカシ達が訪れるまでこの家から出られないように強力な結界を張るからだ。
忍犬達が貼ってくれた呪符を基礎に家を丸ごと取り囲む形で陣を敷き、カカシもイルカもその縁の中から出た。
巻物をその中に広げて置けば準備は完了だ。
「もう、これ以上この家に用はありませんよね?」
「あ、これ…!」
そう言ってイルカが腰に下げたポーチから取りだしたのは白い紙袋だった。
「…薬です。コブシに頼んで分けて貰いました。もしここに拘束されている時間が長くてあのおじいさんが死んじゃったらイヤですから…」
そう言えばコブシが出発する前にイルカは熱心に彼と話をしていた。それはこういうことだったのか。きっと老人の様子や症状を説明していたのだろう。
――――お人よしなんだから…。
少しイルカの行動に呆れはしたものの、そうすることによって自分の行為をいくらか正当化したい気分も分かり、カカシはその紙袋を置いていくことを許した。恐らく彼らは警戒してそれを使う事は無いだろうと思ったけれど。
陣に対して正位置に着き、カカシは集中して印を切った。およそ数は六十。間違えれば最初からやり直しだが、カカシはもうこの手の結界を張るのはお手の物だった。
あっさりと術を成功させると、イルカが感心したような目で自分を見ていた。
「これで出入りは一切出来ません。コブシとタイゴが火影様に報告するので、それまでここに監禁ですね」
「食糧がなかったら悲惨ですよねえ…」
恐らく早くて明日には里からのお迎えが来る。三十から十代の若者が五人と病気の老人が一人。こんな山奥に棲んでいるくらいだから一日分の蓄えくらいあるだろう。
「さて、じゃあ、これからが本番ですね…」
カカシはファイルから手書きの手紙を何通か取り出す。心得たとばかりに忍犬達がそばに寄ってきて、カカシの手に握られたものに鼻先を擦りつけ、臭いを捜す。数枚の手紙を取りだして次々に確認させて、臭いを覚え込ませた。
「いけそう?」
その質問に忍犬達は揃って一声啼いた。
「よし、じゃあ早速行こうか」
カカシが促せば二頭は揃ってくんくんと鼻先を地面に擦り付けるようにして臭いを捜している。カカシとイルカは延々とその後を附いて回った。
一時間経っても、犬たちに食事を与えた後でも彼らは明確な意志を持って歩き続ける。日が昇って、人目のある街道沿いに出るとカカシとイルカの忍装束は目立つため、木陰を渡り歩いて、常に視界に忍犬が居るように移動を続ける。
途中で会った野良犬たちが全て忍犬に対して服従の意志を見せるのが、カカシは何だかおかしかった。やはり特殊な訓練さを施された強者にたいして、本能的に感じるものがあるらしい。
一度イルカと道が分かれたものの、峠の中腹にある茶屋で再び合流した。
忍犬達はそこで何か気になるものがあるのか、頻りに臭いを嗅いでいる。もしかして、臭いが濃いのかもしれない。
「食べ物の臭いに混じって手紙の主の臭いと同じ臭いがする」
「…ここで休憩していたってこと?」
「そんな生やさしいもんじゃなくて、多分ここ。ここに住んでる」
二頭の意見は一致しており、思わず二人はその茶屋を眺めた。こぢんまりとした作りであるけど、確かに奥には母屋らしきものがあり、生活するには困らないだろう。
つまり、依頼主はここで木の葉へと向かう客を物色し、山を突っ切る近道を経て幻術使いに報せを送っていたということか。
「…どうしますか、カカシ先生」
「…踏み込んでも良いですけど、もし相手が頭良かったりしたらいくらでも言い訳が利きそうですよねえ…」
遠くから見る限り店はそこそこ繁盛しているようだった。この先暫くは店らしい店もないのでここで休憩を取っていく人も多く、店主らしき年かさの男女二人がくるくると働き回っていた。彼ら以外には働いている人間は居ないようだ。
どうにかして証拠を掴みたい。忍犬達の判断に、こちらも納得できるだけの要素が欲しい。
「イルカ先生はそのまま忍犬を連れて店に入って、何でも良いから注文して。必ず領収書を貰って下さい」
カカシ達が持っている手紙の差出人が書けば筆跡鑑定が出来る。
「カカシ先生は…」
「オレは、変化をして店に行きます」
そして、カカシは印を切った。白い煙が立ち、それがおさまった後に現れたカカシの姿は手紙を受け取った主、あの三十過ぎの女の姿だった。視線が低くなって大分四肢も短くなったが、すぐに解除できるので一般人相手ならまず遅れを取ることはない。店の中に招き入れれば、彼らは黒だ。
イルカはカカシが指示したとおり何食わぬ顔で忍犬を伴い茶屋に入った。フル装備の忍を見て客は少し物怖じしたようだが、イルカは気にした様子もなく「おにぎり包んで貰えますか」と奥に声をかけていた。
二人ともイルカの額宛を見て、一瞬固まったのをカカシは見逃さなかった。すぐにそれは取り繕われたが、後ろめたいことがある人間の反応に間違いない。すぐ近くの椅子に座り、忍犬達の背を撫でたり顎を掻いたりして労っているイルカの様子にいくらか警戒を解いた女がイルカに話しかけ、イルカもそれににこやかに応じていた。
カカシはそこで暫く様子を観察した。イルカが暫くしておにぎりを受け取ったようだが、カカシが出現しないためもう少し長居する為に団子とお茶も注文している。忍犬に水を貰い常備している干し肉を与えている。
絶対に彼らは何か知っている――――と確信を抱いて、カカシはそっと茂みから姿を現した。迷い無く茶屋の方に向かってゆっくり歩き出す。
そんなカカシの姿を見て、客と客の間を行き来していた女が気付いた。
「おや、オコト。どうしたのさ」
どうやらカカシが姿を借りている女の名はオコトというらしい。
「ちょっと困ったことがあって…」
しっかり演技しながらそう俯くと、何か察したらしい女は「奥に入って」とカカシを促した。
「お父ちゃんに聞いて貰って」
この茶屋の主である男女は夫婦なのか、と考えながらカカシは神妙に頷いて見せた。
通された部屋はどこかがらんとしていた。これこそ、幻術使いのあの家よりも盗賊の仮宿に相応しい空虚さだ。どこに座って良いか分からないような母屋の居間には丸めただけの布団が二組壁に寄せられているだけ。水屋や食卓さえもない。
仕方なくカカシは縁側に座った。低いお縁だったが足が下に着くことはない。どうにも変化をして四肢が短くなると、世界が全て大きくなったような感覚を受ける。
お縁から先に広がる母屋と山の斜面との間には庭があったが、そこも荒れ果てていた。表からは見えないところだから手入れの必要もない、といったところか。
ものの数分で母屋に人が入った気配がした。それに気付かない振りでカカシはそのまま庭を眺める。
「オコト」
男は女の名を呼ぶとそのまま背後から抱きついてきた。
――――ぎゃあああああ!
内心絶叫したし、思わず体がびくっと強張ったが、何とかその手を振り払って踏んじばる衝動を抑え込んだ。出来ていたのはこっちだったのか、とカカシは混乱しながらも己を取り繕って、どうにか、やんわりとその手を剥がすことに成功する。
「困ったことになったのよ」
「何だよ、出来ちまったのか?」
正面から捉えた男の顔には老化から来る肉がそげて残った皮膚による皺と、染みが浮かび、カカシやイルカとは比べるべくもない貧相な体つきをしていた。
あばたもえくぼと言うが、こんな男のどこがいいのだろうか首を傾げながらもカカシは演技を続ける。
「そんなんじゃないわ。…今晩のことよ…」
「…何だよ、何か不都合なことでもあるのか…」
男はぴくりと反応し、女から手を引いた。男のもう片方の腕はいつの間にか布団に掛かっていたらしく、カカシは触られていた左半身に鳥肌が立つのを感じる。
「あの子…体調を崩しちゃって。このところその…仕事が立て込んでいたから…」
「…そうか。イナキの幻術とやらが無かったら、続けるのはきついもんな」
その男の台詞にカカシはにやりと口の端を歪めた。しかし、男は気付かずに言葉を続ける。
「じゃあ、今回は見送って三日後。どうやら高級食材のツバメの巣が運び込まれるらしいんだ。さっき店で来ていたおっさんがしゃべってたんだよ」
なるほど。ここを根城にし、旅路の茶屋という商人の行き交う立地を利用して情報を収集していたのか。この茶屋で木の葉に行く人間を物色し、カモを選定した後は幻術をかけ、木の葉目前で荷を奪うというカカシの想定した形が現実になっている。男の自慢話が続いていたが、カカシは適当な相槌を返すだけで、後は自分の思考に集中した。
こいつは幻術だと言った。チャクラのかすも感じられないような一般人がそれと判断するには知識しかない。カカシ達忍ならそのチャクラの質から幻術だと感じることが出来る。つまり、こいつは幻術使いのことを知識として知っている。そして、オコトという女…詰まり幻術使いの一団と面識があることをカカシの前でこの男は証明してしまった。
それは形にはならないものだったが、イルカの受け取る領収書の筆跡鑑定さえ上手くいけば、絶対とは言わないまでも高確率でこの男は吐くだろう。
カカシはまだ饒舌にツバメの巣について語っている男の腕を捉えた。
「んあ?」
胡乱な目つきで女に変化したカカシを見上げ、おしゃべりを止めた。
「さあて、出るトコに出ようか」
カカシは変化を解くと、唖然としている男の両手両脚を持っていたワイヤで括り、男の腰にぶら下がっていた手ぬぐいで猿ぐつわを噛ませた。もしかしてこの手ぬぐいは便所を済ませた後の洗い立ての手を拭うものだったのかもしれないが、カカシが噛むものではないので躊躇いはない。男は余りのことに抵抗さえもなく、取り押さえるのは簡単だった。
芋虫状態になって漸く事態の急展開に気が付いたらしい男は目を白黒させ、漸く悶え始めたが、そのワイヤはカカシでさえ千切ることは出来ない代物で、藻掻けば藻掻くほど男の矮躯に食い込んだ。
「確保!」
母屋から声の限りにそうカカシは叫んだ。男を抱え上げて、カカシが表に出ると、二頭の忍犬が臨戦態勢でうなり声を上げている横で、カカシの期待通りイルカが老婆を拘束しているところだった。店に居合わせた客は忍犬の威嚇に怯えているのか、犬の鳴き声一つで恐慌状態に突入しそうな状態に陥っている。
そんな店の状況に気が付いていないのか、イルカは「人でなし」とか「襲われる」「助けて!」とわんわん叫んでいる女性の体を「はいはい分かりましたから」といかにも適当に宥めながら括り上げて、自分のハンカチを使って猿ぐつわをかませている。女はカカシの手に軽々と抱え上げられている男の姿を認識すると、ようやく諦めたようにぐったりと体から力を抜いた。
「お騒がせして済みませんね。この人達、ここら辺で最近頻発している山賊の片棒担いでるんですよ」
カカシは硬直している客に向かってそう声をかける。
「…さ、山賊って、荷物だけをあっという間に取っちまうっていう手口のアレかい…?」
どうやら商人の方でもその山賊の存在はまことしやかに囁かれていたらしい。前例が十七回もまかり通っていれば当然のことか。カカシが頷くと、客の数人の顔色が赤黒く変わり、同時に捉えた男女の顔色も青ざめた。そこに同情の余地などなく、被害を受けていないらしい茶屋の客達も蔑んだ視線を彼らに送っている。
「よ、よくも貴様ら…」
今にも殴りかかろうとした商人と山賊の間にすっとイルカが割って入った。
「済みません。この人を痛めつけられると困るんですよ」
「な何でだよ! オレ達はこいつらに痛い目に遭わされてるって言うのに、報復もできないのか!」
「報復は木の葉の法でたっぷりとさせて貰います。木の葉の法は火の国よりも厳格ですから、被害届を出されているなら、きちんとこの人達にこれまでの被害を補償して貰えますので」
にこやかなイルカの言葉に男達は眉間の険を緩め、捉えられた山賊は更に青くなった。
恐らく今回捕らえられた山賊達は木の葉で働かされることになるだろう。今まで奪った金品の額と、そこに収監されている間の自分たちの生活費を稼ぐために、金額にも因るが多分全員で働いても十年くらい掛かるかもしれない。たった二月の犯行で割に合わないかもしれないが、それが彼らの犯した罪に対する責任だ。
カカシとイルカは男女二人をそこら辺に転がして置いて、今居る客が引いてしまうと勝手に店じまいをした。勿論誰一人としてただ飯食いを許さずに、きっちりと二人がお勘定を精算して、売り上げも全て回収する。今後の被害補償に使うためだ。
カカシが一番大きい忍犬を召喚すると男をその背にくくりつけて、女はイルカとカカシが交代で背負う。歩かせても良かったが、駄々をこねられるのも面倒だった。途中で包んで貰ったおにぎりを分けて食べて、夕方には宿に着くことが出来た。
宿に戻ると、そこにはアスマと紅が来ていた。
「よお、ご苦労さん」
丁度出回り始めた小振りの早生蜜柑を剥きつつアスマが出迎えてくれる。紅は爪に白皮が入ると喚きながらくたびれたカカシとイルカのことを見上げようともしない。宿が準備したものではなく、自分で買ってきたものなのか、ビニール袋に入ったままの蜜柑がテーブルの上に乗っかっている。
「…お疲れさま。何しに来たの?」
二人とも神木峠と白鶴峠にそれぞれ居たはずだ。
「助太刀に来たんだよ。白鶴峠の方はいくら待ってもそれらしいものは出ねえし、もうすぐで期限の二週間って所で、桔梗峠で出たって話聞いて、あっちを解散させて真っ直ぐこっちに来たんだよ」
あたしも〜と、紅はやはり視線を蜜柑に向けたまま相槌を打つ。
コブシの報せがカカシの予測より早く届き、火影が二人に報せてくれた後に、彼らが木の葉に戻らず山道を突っ切ってこちらに向かってきてくれたのなら不可能な時間ではない。
その場合蜜柑はどこで手に入れたのだろうか。
「さっき幻術使いの一団は捕らえられていったぞ。みんな認めてるって」
「それが今回あんた達が捕らえてきた獲物?」
漸く二人を振り返ったかと思いきや、紅は二人の足下に転がされている男女に視線が釘付けになっている。
「うふふ。こんにちわ」
そう言いながら紅は丁寧に繊維を剥いた蜜柑を猿ぐつわの口に一つずつ押し込んでいた。おいちょっと、と流石にアスマが止めにはいると、喉乾いているかと思って〜と悪びれる様子もない。相変わらず妙な女だ。
「お前ら、昨日今日とあんまり休んでないんだろ、そうじいさまの手紙に書いてあった。こいつらはオレ達が連れて帰るから、今日はゆっくり休んで明日帰ってこい」
アスマは繊維質など剥ぎもしない蜜柑を二口で食べてしまい、早速立ち上がった。
「え〜、やだ〜あたしもここで休んでから帰る〜」
温泉〜!と喚く紅と山賊二人を抱えてアスマは出ていってしまった。
カカシとイルカはその場に立ち竦み、暫く呆然としていた。蜜柑も大量に残されたままだ。
二人が我に返ったのは、その後訪れた仲居の「あのう」という控えめな一言が耳に届いたお陰と言っても過言じゃない。
「あのう、お夕食はどうなさいますか…」
二人してそれにやっと我に返る。背後に仲居の姿を確認して、どうもと挨拶にもならない挨拶をした。
「あ、あの今日は普通で…」
そうだ任務も終わったから、晩酌をしても良いかもしれない。イルカとは知らぬ仲でもないし、これを機会に少しは楽しい酒も期待できるかもしれない。
ゆっくり温泉にも浸かろうと考えていたことを思い出した。
「今日は少し豪勢にいきましょうか。コブシとタイゴが居ないのがちょっと残念ですが、先に打ち上げちゃいましょうか」
「良いですね!」
イルカが力の抜けた晴れ晴れとした笑顔でカカシに同意を示す。その笑顔は久しぶりに見た気がする。やはり普段通りに振る舞っていたように見えたけれど、イルカも緊張していたのかもしれない。
「じゃあ、ちょっといつもより豪華にお願いします。お酒も付けて下さい」
「ではお夕食の時にお飲み物のリストを持ってきますね」
「何時頃になりそうですか?」
既に温泉に行く気が満々なのか、イルカが両手に着替えを抱え込んで仲居に尋ねていた。カカシもあとで温泉に入ろうと、取り敢えず嵐の過ぎ去った部屋に踏み込む。蜜柑臭の充満した部屋に途方に暮れつつ、取り敢えず装備を剥がそうとした瞬間に目に入ったものにカカシは思わず目を覆ってしまった。
部屋の出入り口からは、テーブルとその上に置かれた蜜柑のビニールで死角になって見えなかったが、そこは紅が座り込んでいた正面にあたり、そこには綺麗に繊維質を剥がれた蜜柑が幾つも転がっていた。
そりゃあ爪の中に白いの残るよ、とか、何がしたかったんだあの女は、とカカシはその様子を見て途方に暮れる。止めている様子の無かったアスマもちょっとおかしい。畳の上に並んだ素っ裸の蜜柑達は、どれも二三粒食べられていて、その隣にはへたが上を向くように皮が寄り添っている。
目的が見いだせない紅の行為は最早儀式的で、何がしたいのか分からないカカシ。蜜柑を購入したのが紅で、ここに来る前にテレビで『蜜柑はへたが小さい方が美味しいんです。ぜひ食べ比べてみて下さい』と言っていたことを知る由もなく、気力を奪われつつ、後ろを振り返る。そこに最早イルカは居ない。字の如く温泉へと跳んでいってしまったようだ。温泉が好きすぎて紅の残した意味不明の痕跡を視界に入れる余裕も無かったらしい。
やはり、冷静な人間が一番損をするなあと思いながら、カカシは溜息を吐き、蜜柑を片づけ始めた。
蜜柑には罪はないし、まだ食べられそうだ。宿に全て纏めて渡して、ジュースか葛寄せにして貰えばいい。皮の剥かれていない難を逃れたものも一つか二つは食べても良いが、持って帰るのは荷物になるし、木の葉の部屋に持って帰ったところで食べるとは思わない。
イルカが風呂から戻ってきたら幾つか持って帰るかを聞いて、残りは宿に引き渡すことにした。――――宿も迷惑かもしれないが。
紅のいつもの異常行動でどっと疲れながら、カカシは当初の予定通り温泉に行くべく装備を解き、浴衣を抱えて忍専用の風呂場へと向かった。
確かこの宿はこうして任務に利用するほか、木の葉の忍の福利厚生用施設にもなっていて、格安で利用できる。温泉も本来そうした忍用のものだ。遊ばせておくのは勿体ないから忍が利用しないときには一般にも開放される。
確かこっちだったよなあ…と、カカシは旅館特有の迷路のような構造に振り回されながら何とか一度来たことがあるはずの温泉に辿り着いた。
イルカはまだ入っているらしく狭い脱衣場に置かれた四つの駕籠の内、一つから黒装束の袖がはみ出しているのが見えた。
――――うわー、忍具持って来ちゃってる…
その中に目敏く手裏剣ホルダーが入っているのを見て、カカシはがっくりと項垂れた。装備も解かずにイルカが温泉を訪れたと言うことだった。
本当に温泉が好きなんだな、といっそ感心しながら、カカシは持ってきた浴衣を空いている駕籠の中に下ろしたときだった。
「…――――ふ…」
何か声を堪えたような声が耳に届いたのをカカシには聞き逃さなかった。ふと声(音)の方に顔を上げると、そこはイルカが入っている筈の温泉に通じる木製の扉。
泣いているのかなと思うような嗚咽に聞こえて、思わずカカシは忍び足で木戸に近付き、そっと音も立てず、人差し指の幅ほど開ける。
その狭い視界に飛び込んできたのは、泣いているイルカの姿などではなく。
「…――――っ」
思わず声を上げてしまいそうになった。それをどうにか抑えたが、体の硬直は解けない。
イルカはそこで泣いているのではなかった。洗い場のシャワーの前に跪いた体勢で、股間に手を這わせていたのだ。荒い息を吐き出しながらいきり立った自身を扱き上げている。こちらに気付く様子もなく、その行為に没頭しているイルカの頬は、湯のためか上気していた。
イルカはそこで自慰をしていた。
――――髪を下ろしたところ、初めて見た…
慎重にカカシは生唾を飲み込み、そんな場違いなことを思った。
イルカは時折声を漏らしながら、徐々に自身を責め立てる手の動きを早める。竿を擦り上げ、陰嚢を揉み、先端を指先で刺激しながら、耐えきれないとシャンプーボトルが設置してある台に額を擦り付けて悶えている。
カカシはその様子から目を離せずに固まった。
「…――――あ…っ」
やがてイルカは少し高い声を上げて、体を強ばらせた。
どうやらイってしまったようだった。荒い呼吸を繰り返しながら、イルカは暫く額を台に預けたままの体勢でぐったりとしていた。下ろされた髪と濡れた体から匂い立つような色気を感じた。
その自分の思考にカカシが我に返るのと、イルカがゆったりと体を起こしたのはほぼ同時だった。
――――ど、どういうことだ。アレに色気だなんて…!
カカシは木戸から離れようと身じろぎして、そして、自分の体に起きた変化に漸く気が付いた。
イルカの自慰を視覚で認識しただけのことで、カカシの陰茎に反応が来していたのだ。
――――ぎゃあああああ!
内心、絶叫を上げるのは今日これで二度目だった。自分の反応に混乱したカカシは、慌て、てけれど忍の技術を駆使して音も痕跡も一切残さず、脱衣場から逃げるように出た。勿論両手には着替えにするはずだった浴衣も抱えて、部屋に飛び込む。
むっとした柑橘の、爽やかともとれる刺激臭がカカシを襲い、眩暈を起こさせる。座り込んでしまったカカシの股間はまだ元気いっぱいだった。
確かに、この任務に就いてから抜く暇なんて無くて溜まってるのは分かるけど、何も暴走する相手がイルカじゃなくても。それにこれまでこんなきかんぼうじゃなかったのに。
いっそ自分が嘆かわしくて山座りの膝に顔を埋める。
これまではカカシのしたいという意志に従順だった。本能と理性は仲良くしていたのに、本能だけ暴走するというのは歳のせいだろうか。理性が暴走するよりも若い現象だと思うけど、納得行かない。
なぜ、イルカなのか。
もしかして、これまで経験は無いけど、自分は男でも大丈夫な性癖の持ち主だったのだろうか。
これがイルカでなくてコブシやタイゴ、アスマだったとしても自分は反応を来していただろうか。
カカシは取り敢えずその想像をしてみようと思い、脳裏にその様を思い浮かべてみる。
一応友人の部類に入るアスマを裸に剥き、アスマが自ら股間を擦るところを想像した。何度か一緒に風呂に入っているからその裸体は容易に想像できる。そして、すぐに予想外の効果が現れた。
張り切っていた股間が急にやる気を無くしたのだ。ついでに、気分もとても微妙。本能も理性も互いに寄り添った結果で、つまり男なら誰でもいいという訳じゃないらしいと言うことが分かった。
どうなってるんだと、途方に暮れて、カカシはその場で硬直したように蹲るしかできなかった。
とにかくイルカが戻ってくるまで温泉なんか入れない。今一緒に入ろうなんて暴挙に出れば、イルカのあの痴態を思い出さないわけにはいかなくなるし、そうなればまた元気になってしまう可能性もある。流石にそんな醜態を晒すわけにも行かず、風呂には入る間際にイルカが仲居に夕食の時間を確認していたところを見るとその時間までみっちり入る目論見が透けて見えるので、あと一時間弱は入れないし、そのすぐ後には食事になってしまう。
溜息。
カカシは大きく息を吐きながら脱力し、浴衣を引きずってカカシは結局備え付けのユニットバスに入る。出来れば食事前に風呂を済ませておきたいから、シャワーで我慢することにした。少し寒いけど、我慢できないほどではないし、温泉も明日出発まで入る機会がある。
温泉は今でなくても、と己を慰めつつ、この二週間弱で使い慣れた浴室へと足を入れた。
いつものように適当に髪を洗い、適当に体に着いた汗と埃を水で洗い流す。香料が入っていたり、香料が入っていなくても独特の臭いがする石鹸は殆ど使わない。臭いが染み込む気がするからだ。
ざっと洗い流して風呂場から出ると、まだ帰ってこないと思っていたイルカが既に戻ってきていて、自分の荷物の前で店を広げていた。
「あれ…」
まだ入っていると思っていた。ゆっくり風呂に浸かっていて食事前にしか上がってこなくて、まだまだ帰ってこないものだと思っていた。
「あ、お疲れさまです」
イルカは一度部屋を散らかす手を止めて、背後に立つカカシを振り返る。ほかほかで上気した頬が何だか憎らしくもあり、正視しがたい後ろめたさも感じる。しかし、逸らしたい視線を、イルカの方から慌てて逸らされた。
「?」
「か、カカシ先生っ 顔! 顔出てます…!」
顔と言われて素直にカカシは自分の頬に手を当てる。
「…あ」
そう言えば顔を隠していない。持ち込んだ着替えが浴衣だったし、それ以上に警戒を怠っていた。いつもだったらイルカが部屋に入ってくる気配ぐらい分かりそうなものなのに。
しかし、イルカだったらカカシの顔を言いふらしたりはしないだろうという確信があった。気に入らない相手だったら写輪眼でも幻術でも何でも使って速攻記憶を消してしまうのだが、いつの間にかイルカにはこの任務の間で妙な信頼感がカカシの中に芽生えてしまっている。だから、記憶は放っておくことにした。
「別に良いですよ、見ても」
これで己の恥部を晒し合った仲かと思いはしたものの、きっとイルカにはそんな自覚はあるまい。もしあの状況を覗かれていると分かっていてこの態度だったなら、余程肝の太い人間だと思う。イルカはそんなカカシの思考に気付くはずもなく、まるで珍獣を見るような目でカカシの顔をちらちらと見ている。まじまじと見てくれた方がどんなにいいかと思うほど、見たらいけないものを見る仕草でのイルカの視線は、それはもう痛い。
「あ、こりゃ失礼」とでも言ってそそくさと顔を隠していた方がましだったかと思うほど、好奇心に満ちたイルカの視線がカカシの頬に突き刺さり、さらにカカシを居たたまれない環境へと無意識に追いやるイルカだった。
そうして、カカシはイルカに蜜柑のことを聞き損ねたまま、仲居を部屋に迎え入れることになり、恨めしそうな視線を感じながら、仲居に全ての蜜柑を手渡してしまった。
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