困難な日
そうして。
「あれ?」
呟いたのはカカシ。そうしてイルカもまた気が付く。
「あれ?サスケ?」
膨大な殺気を身に纏い夜の闇を一直線に駆け抜けてくるチャクラは、どう考えてもよく知った教え子のものである。
何があったのか知らないけれど、サスケは助けを求めているのだろうか。任務で何か失敗しそうだとか、人手がいるとか。
「何でしょうか?」
首を傾げたイルカにカカシもさぁ、と言うしかなかった。
ひとまず忍犬を戻すとカカシは刀を持ったままイルカから手を離す。
そうして静かに立ち上がり縁側で月明かりの風景の中じっとまだ何も見えない空間を見つめる。
「何かあったんでしょうか?」
イルカも立ち上がりそうしてカカシに身を寄せた。
「分かりません、がサスケがこれだけ焦ってここに来る以上、何かあったと思う方が妥当でしょうね」
傍らに立つイルカの髪にそっと口づけを落として、そうしてカカシは大丈夫ですよ、と小さく笑う。こくりと頷きかえすイルカ。
深刻な状況を疑いもしない二人は、サスケがここに結構本気でカカシをどうにかしてやろうと思って向かっているなんて、まぁ分かるはずはない。
というか。いかなカカシといえども、つい今し方サスケとナルトの間に馬鹿らしくも恐ろしい遣り取りがあったとは考えつきもしないだろう。
よしんば先日のとんでもない出来事がサスケの耳に入ったとしても、命の遣り取りにははっきり言って繋がるわけもなかった。ので、心持ち緊張を残したまま二人はそろって月の明るい空を眺めている。
そうして空にようやく小さな人影写り込んだ。建て込んだ住宅の屋根の上を重力を感じさせない身軽さで飛び越えてくる。
「来ましたね」
「えぇ」
猛スピードで近付いてくる影が徐々にその姿をはっきりと現し始めたその時。ひゅん、と何かが空を切った。
ただの反射だった。
カカシがずっと長い間かけて無意識に培ってきたもの。カカシの中の本能とも呼ぶことの出来るそれがとっさに握っていた刀を振るった。
きぃん、と甲高い金属音がしてそうして初めてカカシは自分が手裏剣を弾いたことに気が付く。未だ事態を把握しかねているイルカを急いで己の背後に隠し、そうして次に飛んできた手裏剣を叩き落とした。
「か、カカシさん……!あれ、あれってサスケですよね!」
慌てふためいているイルカをサスケの視線から隠すようにじりじりと身体をずらす。
何が起こっているのか。イルカと同じくらい混乱しながら、カカシは影と共に落ちてきた刀を手にした刀身ではじき返した。
がきん、と鈍く濁った金属音。受け止められた刃先に舌打ちをしながらサスケは部屋の中に降り立った。
「おいサスケ、何があった」
ぴりぴりと肌が痛くなるほどの殺気をまき散らして一直線にカカシを睨み付けるサスケ。
「何があっただと?そんなこと自分の胸に聞きやがれ!よくもナルトを……!」
畳を蹴り、そうして躍りかかってくるサスケをいなしながらカカシは何のことだと首を傾げた。
何か身に覚えのないことで不当な嫌疑をかけられちゃあいないだろうか。
「サスケー。先生全く身に覚えがないんだがなー」
至近距離で繰り出される切っ先をするするとかわしてカカシはまずいなぁ、と割合と呑気に思った。
このままでは家の中のモノをいつ壊してしまうか分からない。あんまり派手に色々壊したらイルカの機嫌が悪くなってしまう。それはイヤだ。
「しらばっくれるな!」
怒りに我を失っているらしいサスケはカカシですら、ちと荷が重かった。
相手を傷付けず家の中のモノを壊さず自分も怪我などせず、もちろんイルカには指一本触れさせないだなんて、サスケの無意識の手加減があってもどうにもこうにも重すぎる。早々にサスケの誤解を解かないことには事態は悪化するばかりだ。
「しらばっくれるも何もホントーに心当たりないんだけどなー。何なのよ一体」
いつまで経っても掠りもしない事に苛立ってか、サスケはおおよそ冷静とは言い難い思考のままカカシの問いかけに喚き返した。
「今日!ナルトを抱いた!初めてだ。けどアイツは終わったあとでオレとアンタを比較するようなことを言いやがった。カカシお前、ナルトを抱いたのか?!」
「はぁ?」
あまりにも予想を裏切る意外な展開にカカシは思わず持っていた刀を取り落としそうになった。
が、今はまだ刀を取り落とすには早すぎる。振り下ろされる刀身を受け止めてカカシは溜息混じりにサスケに問いかけた。
「抱いたんだったら初めてかどうかぐらい分かるでしょうが。ナルトは初めてだったでしょ?」
いったんは触れあった刀身を弾き返してカカシは一定の間合いを取る。
さほど広いとは言えない部屋の中、イルカが綺麗に片づけておいてくれたおかげで被害は最小限ですみそうだ、とカカシは現実逃避にも近いようなことを考えていた。
あれだけサスケとのことを悩んでいたナルトがまさか誰かに足を開いていたなんて事があるはずがない。ましてや自分に疑いがかけられるような事実はどこにもないというのに。
おおよそナルトがあの時のことを思い出して、無意識にサスケと自分を比較したというところだろう。
大体の流れは分かった。分かったが、だがしかし。分かったからと言って何になるんだろうか。
冷静さを全くと言っていいほど失っているサスケがこのまま大人しくカカシの説得に応じるとは思い難かった。
誤解を解くのって難しいんだよね…。
心の中でこの日最大級の溜息を零したカカシはもう一度刀を構え直す。隙をついて飛んできたクナイをひょいと交わしてカカシは仕方なく口を開いた。
「あのなぁ、お前……」
何をどう言ったらいいものか。取りあえずなんでもいいから、と思いながら口を開いたカカシの側を不意に影が横切った。
え、と思う間もない。つかつかと緊迫した上忍同士の争いに何の躊躇もなく踏み込んだのは他でもないイルカだった。
呆気に取られたのはカカシだけではない。サスケももちろん今まで意識もしていなかった人物の不意の割り込みに混乱を隠せない様子である。
立ち竦む元教え子の前までイルカは淀みなく歩み寄ると、おもむろに右手を振り上げてその頬を思い切りひっぱたいた。ばちん、というひどく痛そうな音がして、そうしてカカシはその音に思わず身を竦める。
ありゃ痛い。それも相当。
唐突すぎるイルカの行動にカカシもサスケも何も言えずにいたら叩いた本人が鬼のような形相で、このバカタレが、と一喝した。
「お前はそんなくだらない理由で今ここにいるのか!」
いや、そんなにくだらないことでもないと思うけど。とカカシはひっそりと思う。
自分が同じ立場だったらやっぱり逆上していたかも知れない。けれど。
「なにすんだよイルカ先生。そこをどいてくれ。アンタにとってはくだらないことかもしれなけどな、オレにとっては重大な問題なんだよ!アンタにはカカシが大事かも知れないけど…」
「まだわかんねーのか!このアホタレ!」
すかさず言い返したサスケを遮るようにイルカはもう一度振り上げた拳を今度は頭の上に落とした。
ごつりと痛々しい音がしてカカシはちょっぴり身を震わせた。
あれは本当に痛いんだよね。
不当な理由で殺されそうになったのだから別に同情なんてする必要もないがカカシはほんの少しだけサスケが可哀想だと思った。痛い、あれは痛いよ。
「ナルトがお前以前に誰かと寝てようが寝ていなかろうが、それを気にするしないはお前自身の問題であってナルトには関係ないだろうが。少なくともナルトがお前と寝たのは今日が初めてなんだろう?その相手をほったらかしにしてお前は何をしてるんだ!」
こんなところで刀振り回してちょっとは冷静になれ。至極もっともでまともな意見にサスケは我に返ったような顔をしている。
「ちなみにカカシ先生はナルトと寝てなんかいないぞ。それはオレが保証する」
「じゃあ何でナルトはあんな事言ったんだ……?」
自信たっぷりのイルカにサスケは困惑を隠せないでいる。
しかもあんなに逆上してたのにそんなのなかったような顔だ。
ひどいよ、サスケ。先生の言う事なんてこれっぽっちも聞いてくれやしなかったくせに、イルカ先生の言うことはそんなに素直に聞くんだな。
ちょっとめそめそしそうになったカカシには誰も気が付いてなんかいない。
「あー、まぁそりゃあ、その……」
イルカはサスケの問いかけにあっさりと詰まった。
なんて正直。だがしかし状況を悪化させかねない正直さだ。
「ともかく一刻も早くナルトの所へ帰ってやりなさい」
もごもごと口籠もったあとイルカは明らかに誤魔化したと分かる白々しい口調で、何となく教師らしいようなことを言った。
先生そりゃないでしょうよ。もはや脱力気味のカカシ。
イルカの誤魔化しが当然気に入らないサスケは、それでも不服そうな顔のまま入ってきた縁側の方へ足を向けた。ナルトのことが急に気になり始めたのだろう。
「明日、事情を聞きに来る」
そうしてサスケはそんな台詞を残したまま縁側を蹴った。
行きと同じかそれ以上とも思えるスピードで姿を消した教え子をなんとなく見送って、カカシとイルカはその場に脱力してへたり込んだ。
「なんつーか、あいつも子供っていうか…」
疲れたのかイルカはそう言ってごろりと畳の上に身を投げ出した。カカシはそれににじり寄りながら、そうですねぇ、と呟く。
「サスケのヤツ靴も履いてなかったですねぇ…」
イルカの上に覆い被さるようにそうしてカカシも横たわる。
緊張していた筋肉がゆるゆると弛緩していく感覚に目を閉じて、カカシはイルカを抱き寄せた。
「どうでもいいけど明日の休みは潰れそうですね」
溜息混じりに肩に懐きカカシはそうしてイルカにキスを落とす。
「あれほど言うなっていったのに…」
いずれはばれるかも知れないと思っていたがこんなに早いとは。
はぁ、と溜息を吐きながらイルカがぼやく。床に投げ出していた手を持ち上げて、そうしてもう一度キスをねだるように首を引き寄せた。
明日はきっと厄介なことになる。
二人はその予想に同時に溜息を吐いて、それから改めて唇を合わせたのだった。
二人の困難で厄介な日々はまだ終わりそうにない。
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