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困難な日




「大丈夫か?」
 まだ治まりきらない荒い息と共に降ってくる心配そうな声。汗ばんだ手が額に張り付いた髪をかき上げて、そうして深い藍色の瞳が視線に絡む。
「ん、大丈夫…」
 気怠げな甘い声がまるで自分の声じゃないみたいな気がして、ナルトはわずかな羞恥に頬を染めた。
 まだ熱っぽい身体。初めて男を受け入れた下半身はまるで感覚がなかったけれど、ナルトは幸せな気分で一杯だった。重たい体を投げ出したままゆったりとサスケに手を伸ばす。絡め取られる指先。小さく口づけを落とされて、そうしてサスケは離れていく。
「のど乾いてるだろ、水持ってきてやる」
 もう一度、名残を惜しむようにちゅ、と指先に口づけられてそうしてナルトはぼんやりとその背中を見送った。
 すんなりとした綺麗な後ろ姿。初めて出会ったときよりもずっと伸びた身長。いつから、いつからこんなにも好きになっていたのだろうか。
 口づけを落とされた指先に、自分も口付けてみた。愛された身体だ、と思う。ずっと長い間大勢の大人から忌み嫌われてきたけれど、この身体は、少なくともサスケには愛された。そのことにひどく安心して、ナルトは甘い溜息を吐きながら布団の中に潜り込んだ。
 ここは温かくて優しくて、絶対に自分を傷付けたりはしない場所。世の中にこんなに居心地のいい場所があるだなんて。イルカ先生がもたらしてくれる安心とはまた別の、とても柔らかい場所。
「あー、でもサスケがカカシ先生みたく余裕じゃなくて良かったってばよ。あんな余裕っぽい顔されたらどうしようかと思ってたけどさすがカカシせんせーだなー。言った通りだったなー」
 ふくふくと布団にくるまってナルトは小さな声で呟いた。ただしそれは、ナルトにしては、という注釈付きの小さな声で。絶対に誰にも聞かれていない―――この場合サスケにだけれど―――という自信のもとの独り言。そう、聞かれないはずの独り言。
 だがしかし、ナルトは忘れていやしないだろうか。ここにいるのは自分を含めたって上忍しかいないということを。
 神経を張りつめてなくたって、どんな小さな事だって勝手に拾い上げてしまう聴覚のこととか忘れてやいないだろうか。
 下忍の頃からうっかり屋。意外性ナンバーワン忍者の異名は未だ健在。そんな迂闊で先生将来心配だぞ、と言ったのは銀髪の上忍だったか黒髪の中忍だったか。
 誰にも言うなと口止めされて、そのことは覚えていたけれど、呟いちゃならん場所まではナルトの頭の中にはなかった。サスケのいる場所で聞こえないくらいの声でもうっかり呟くなとは言われなかった。
 言われなくても気が付かなきゃならないがそこはナルト、迂闊でうっかり、こうなると意外性というよりはまたかと思う教師二人の顔が目に浮かぶようだがそれはさておき。
 そう、ナルトの呟きはなみなみと水の注がれたコップを握りしめたサスケの耳にちゃんと届いていた。しっかり届いていた。
 哀れなのはサスケかナルトか、それとも二人の教師なのか。初めての情事のあとの甘い雰囲気を根刮ぎ覆したナルトの爆弾発言に、サスケはびしりと固まった。
「今、なんて言ったんだ?ナルト」
 ぶるぶると震える手は怒りのためなのか。コップを割り潰しそうな勢いで握りしめるサスケは上半身裸のままという間抜けな格好で低く低く問いかけた。
 その声にびくりと身を竦ませたのはナルト。そろりと布団から顔だけ覗かせてみれば表情のないサスケにぶつかった。
 素直に怒っていればまだしも無表情ってのはちょっと怖い。ちょっとどころかすごく怖い。ほんの少しだけ本能的にナルトが後ずさってしまったのだってしょうがないかもしれないくらい怖い。
「なんて言ったんだ、ナルト」
 口調が穏やかなのも、ものすごく怖かった。聞かれたよな、ていうか聞かれてなかったらこんなじゃないだろう。とかナルトは心の中で思っていたけれど、それは口にはしなかった。
「な、何にも言ってないってばよ」
 流れる汗はとっくに冷や汗に変わっている。
 発言の真相についてはカカシとイルカからきつくきつく他言無用を言い渡されているから本当のことを言うわけにはいかない。
 だったら迂闊に独り言なんて言わなきゃ良いのにそんなことにまで気が回らないのがナルト。だらだらと冷や汗をかきながら青い顔をしていたらさらに疑いが深くなるなんてこれっぽっちも気が付いちゃいない。
 そんなんで大丈夫なのか木の葉の上忍。明らかに嘘と分かる発言にサスケはなおも言い募った。
「さっきカカシがどうのとか、言わなかったか?」
 無表情で穏やかな口調のままそんなに殺気出してたらみんな怖がるぞサスケ。
 持ってるコップがきちきちと嫌な音を立てていたりしてるからホントに怖いぞサスケ。
「言ってないってばよ!」
 慌てて否定したりすればサスケの色々をあおるだけだとそろそろ気が付けナルト。
 サクラがいれば突っ込みの一つや二つや三つや四つはとうに入っているところだけれど、残念ながらここには二人きりだ。
 さっきまであんなにいい感じだったのに。ちょっぴりナルトが泣きそうになったとしてもそれは仕方がない。そんなナルトの態度がますます誤解を招くだけだとしても、まぁ仕方がないかも知れない。
 頑なに口を閉ざすナルトに遂にサスケはふつりと切れた。遂にというより早くもと言うか。
 ともかくサスケは持っていたコップをベッドサイドに置くと不意に任務服を着込み始める。
 切れるのも早いが行動も早いぞサスケ。そんなに気が短くてもいいものか。ベストまで着込んで部屋の隅に立てかけてあった刀を握り、クナイその他のみっちり詰まったホルダーまで装着してサスケは切れたまんまこともあろうか窓枠に手をかけた。
 そりゃ玄関よりそこが近いよ。冷静なのかそうでないのか、額当てまでしたくせに靴を履いてないんだから冷静なはずはないけれど、取りあえず窓を開け放ってサスケはぼそりと呟いて窓枠を蹴った。
「カカシ、殺す」
 呆然とサスケの一連の行動を見守っていたナルトはその言葉にはっと我に返った。
 そういうんじゃないんだサスケ。ようやくサスケの誤解がなんなのか朧気ながらに分かったけれど、そりゃちょっと遅かった。
 ちょっとどころか激しく遅いよ、ナルト。迷惑を被るのは教師二人だ。
 サスケはすでに夜の闇に姿を消している。開け放たれた窓からは夜の風がそよそよと吹き込むばかりだ。
 追いかけようとしてベッドから身を起こせば腰やら下半身やらが痛むし、身体はべとべとで気持ち悪いし途方に暮れてナルトはひとまず窓を閉めた。
 そうして。迂闊な自分の発言と、こんな状態の自分をほったらかして出かけてしまったサスケをほんのちょっとだけ恨んでみる。
「……オレってばよ…」
 イルカがいつまでも自分を心配する気持ちがなんとなく分かってしまって、ナルトは盛大な溜息と共にもう一度ベッドに潜り込んだのだった。



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