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受難の日




 風呂上がり、テレビを見ながら髪を拭いていたら玄関の扉がけたたましい音を立てた。焦るように叩かれるドアの音にイルカは半ば呆れて立ち上がる。
 この家には確かチャイムとかいうものがついていたと思うのだけれど。焦るようなノック音とは対照的に、のんびりとした足取りで玄関に向かうと、イルカはようやくその扉を開けた。
「イルカせんせー!」
「おゎっ!」
 扉が開けられた瞬間自分とほとんど身長の変わらない塊に飛び付かれて、イルカは思わずよろめいた。
「こらっ!おまえは何度言ったら分かるんだ!ちったあ自分の大きさを考えろって…」
「イルカセンセー!どうしよう!どうしたらいいんだってばよー!」
 イルカの言葉などあっさりと遮りナルトは目を潤ませてイルカに縋った。
「お、おいナルトちょっと落ち着け。お前なんかあったのか?」
 イルカに抱きついたままナルトはぼろりと涙を零す。
「い、イルカ先生ー」
 明らかに様子のおかしいナルトを部屋に引っ張り込んで、イルカは誰にもばれない様にひっそりとため息を吐いた。ナルトがアカデミーを卒業してからもう6年にもなるというのに、こういう所はちっとも変わらない。図体ばかりが大きくなっても中身はまだまだ子供の域を脱してないのかと思うと、イルカは知らずため息が漏れるのだった。



 ひとまずちゃぶ台の前にナルトを座らせて、イルカは淹れ直したお茶を手に取った。
「で、いったい今度は何をやらかしたんだ?」
 お茶を啜りながら聞いたイルカにナルトはがばりと顔を上げる。
「別に何にもやらかしてねぇってばよ。イルカ先生俺のこと全然信用してないだろ?これでも俺ってば上忍になったんだぜ!」
 捲し立てたナルトを一瞥してイルカは湯飲みをちゃぶ台の上に置く。
「それはカカシさんから聞いてるけどな。じゃあ、だったらいったい何があったんだ」
 改めて問い直したイルカにナルトはうっと声を詰まらせた。視線を泳がせてそれから急にかぁ、ッと顔を赤く染める。何を思い出したのか知らないけれど、相談内容が色恋沙汰の様相を呈してきたことにイルカはわずかに驚いた。
 カカシならいざ知らず自分がそういう相談を受けることになるとは。しかもあの、ナルトから。顔を赤くしたままもじもじと俯いたナルトにイルカはふと表情を弛めた。
「どうした?好きな人でも出来たのか?」
 イルカの穏やかな問い掛けにナルトは弾かれたように顔を上げた。
「えっ?!な、なんで?!」
 なにが何でなんだか知らないけれど、そんなのはナルトの態度をみれば一目瞭然だ。そんなに鈍そうに見えるんだろうかとイルカはほんの少し苦笑いを浮かべる。
「そりゃオマエの態度を見てりゃ分かるよ。で、それで俺になにを相談したいんだ?」
 こういってはなんだけれども、イルカはそれほど恋愛経験が豊富な方ではない。女性と付き合ったのなんて片手の指でも余るくらいだし、それ以外だとたった一人だ。
 その一人とはかれこれもう5年も付き合っていることになるのだと、イルカはふと思う。まぁ気が付けば随分と長い間一緒にいるんだな。自然と弛む頬を心持ち引き締めてイルカはナルトを見た。
 伺うようにこちらを見つめる瞳。言いにくいことなんだろうか。それにしても恋愛相談ねぇ。湯飲みを手に取りお茶を一口含む。そうして一向に口を開こうとしないナルトにもう一度イルカは問いかけた。
「ん、なんだ?」
 柔らかに微笑むイルカにナルトは意を決したような表情で一気に捲し立てた。
「い、イルカ先生って、カカシ先生と付き合ってんだろ?」
 吼えるように言い放たれたその言葉にイルカは飲んでいたお茶をごくりと嚥下する。吹き出しはしなかったものの内容の意外性に驚くよりほかない。そりゃ一緒に住んでるし、だから知られてないとは思ってなかったけど、なんでいきなりそんなことを聞かれるのか。
 第一恋愛相談に来たんじゃないのかよ。イヤな汗が背中を伝うのがイルカには分かった。そうして、イルカの言葉を待つことなくナルトが続けた言葉。
「や、や、やっぱさ、あのさ、付き合ってるって事はカカシ先生とイルカ先生ってセックスとかもしてるんだよな?」
 落ち着こうと思ってもう一度含んだお茶をイルカは今度こそ吹き出してしまった。
「ぶっ!」
 ごほごほと噎せながらイルカはナルトの放った言葉を頭の中で繰り返してみる。セックスとかもしてるんだよな?そりゃしてるさ、してるけど。
「もちろん。そんなの当たり前でしょ」
 イルカが何か答えようとする前に後ろからにょろりと伸びてきた腕に抱き込まれる。風呂上がりのいつもより体温の高いカカシは、そうしてなんでもないことのようにナルトに答えを返してしまった。
「カカシさん!あ、あんたなに言ってんですか?!」
 ていうかそんな質問に普通に返すな。普通っていうかしかも元教え子だぞ!どういう神経してるんだ。心の中で捲し立てても別にイルカ以外には聞こえたりはしない。イルカの心中を察しているのかいないのか、振り返って見たカカシはにんまりと笑っていた。
「なにって、だってナルトの質問に答えただけですよ」
 背中に張り付く体温。いつの間に風呂から出たのだろうかとイルカは溜め息を吐きたい気分になった。相変わらず気が付かない自分もどうかと思うけれど、出たなら出たでそう言えばいいのに。
 適当に拭いただけの髪の毛からぽたぽたと水滴がしたたり落ちるのを見咎めて、イルカはカカシの肩のタオルを掴んだ。
「アンタまた髪の毛適当にしか拭いてませんね。ちゃんと拭きなさいっていつも言ってるでしょう」
 身を捩ってごそりと髪を拭い始めたとき、カカシがくつりと笑う。そうして後ろからの控えめな声。
「………あ、あのさ、イルカ先生、話聞いてくれってばよ」
 あまりにも突飛な質問の内容とあまりにも唐突なカカシの出現に、すっかりナルトの存在を頭の中から追い出していたらしい。拭きかけた髪を放りだして、イルカは慌ててナルトの方に向き直った。
「あ、いや、すまんナルト。で、なんだっけ?」
 なんだっけ、と問いかけた瞬間にしまったと思う。もう一度あんな事を聞かれるのは勘弁被りたい。もう言うな、イルカが制すよりも早くナルトは先ほどよりも随分あっさりとその言葉を口にした。
「だからさ、イルカ先生とカカシ先生ってセックスとかしてるんだろ?でさ、その…」
 続きはもっと言いづらいことなのかそう言ったままナルトはまた俯いてしまった。それよりも言いづらい事ってなんなんだ。言いづらいのか聞きづらいのかは知らないけど。もう勘弁してくれ、とイルカは思う。
「してるよー。で、それがなんなの?」
 答えたのはイルカではなくカカシだった。だから普通に返すなよ。アンタには人並みの羞恥心とかそういうのはないのか。溜息を吐き出し、そうしてイルカははたと思い当たる。
 混乱した頭で慌てていたけれど、よくよく考えたら教え子の前でなんて格好をしているんだろうか。風呂上がりの浴衣姿で、しかもカカシに後ろから抱き込まれている。そうしてあんまり違和感なく収まっているのがどうかと思う。いつものことだからあんまり気にしていなかったけれど、どうだろう、それは。
 自分を抱き込んだまま、なんの頓着もなくナルトに受け答えしているカカシにイルカは頭が痛くなってきた。何年たってもこの人のこういう所にはどうにも付いていけない。常識を重んじていたはずの数年前の自分ならこの状況に卒倒しただろけれど、慣らされている。
 あぁ、もうなんだってこんな事になってるんだ。気の動転したイルカがぐるぐるしている間に勝手に会話は進んでしまう。
「あ、あのさ、その、さ。えっと、だ、だから、その」
「なんだよ、はっきりしないねー。さくっと聞いたらいいじゃない」
「うぁ、そのさ、あの、じゃあ聞くけどよ。ど、その、どっちが上なの?!」
 はい?
 ちょっと待てナルト、なにを聞いたんだ、今。
「上って場合によってはイルカ先生が上に乗ってることもあるけど、普通は俺かな」
「な、なななななななななに言ってんだあんたー!」
 ナルトの質問にさえ卒倒しそうだったのに、さらりと返したカカシにもっと卒倒しそうになった。もうむしろ気を失ってしまった方がずっとよかったのかも知れないけれど、イルカは後ろでのほほんとしている上忍の頭をありったけの力で殴った。
 がつん、と辺りに鈍い音が響く。振り下ろされた拳の痛みを知っているナルトはその光景に思わず首を竦めた。
「イルカさん、痛いですー」
 殴られた頭を押さえながらカカシは情けない声でイルカに小さく訴える。
「アンタが変なこと言うからでしょうが!なに考えてんだ!」
 怒りにぶるぶると震えるイルカにそうしてカカシが言ったこと。
「だってホントじゃない。騎乗位は男のロマンですー。それなのにイルカさんなかなかさせてくれないし、口でだってあんまりしてくれないでしょー。それってさ…」
「わー!」
 さらりと火に油を注ぐようなことを言い放ったカカシの口を、イルカは慌てて塞いだ。
「アンタホントになに言ってんですか!」
 いつまで経っても終わりそうにない二人の言い合いに、ナルトはそれでもようやく口を挟んだ。
「あ、あのさ、先生たち。俺の話聞いてくれってばよ…」
 控えめに掛けられた声にイルカとカカシはようやくちゃぶ台の向こう側に意識を戻した。いたんだっけ、ていうかいたよね、とかなんとか非常に薄情な事を考えながら。
「あぁスマン、ナルト。でもオマエもなんでそんなこと聞くんだ?」
 そうだ、そもそもの発端はナルトだったのだ。こいつがこんな非常識なことを聞くからいけない。大体相談があったんじゃないのか?
 イルカの問いにナルトは真っ赤になって俯いてしまった。この期に及んでまだ恥ずかしいことがあるのだろうか。改めてイルカを抱え直したカカシに遠慮なく凭れながら目の前の元教え子を眺めた。
「ははぁ、オマエさてはサスケに迫られてるな」
 そうして顔の横から聞こえた声にイルカは酷く驚いた。
 え?えぇ?!
 言ったカカシを振り返り、そうしてナルトを見る。ナルトはカカシの言葉に弾かれたように顔を上げ、そうして可哀想なぐらい赤くなった。
「な、なんで…?」
 ぽつりと呟いてそうしてじわりと涙をにじませる。
「なんでって、そりゃサスケがオマエのこと好きだったのは随分前から知ってるし、上だとか下だとか聞いてくるって事はそろそろサスケに関係を迫られたからだろう?」
 しかしまぁ、あいつまだ手ぇ出してなかったんだなー、すごい忍耐力。呑気に呟くカカシをイルカは驚いたまま見つめた。
「そうだったんですか?」
 この場合、ナルトにそうなのか、と聞くのが正しい。相談者はナルトであってカカシの予測が外れていることだって考えられる。が、しかし。カカシの台詞にますます顔を赤くして涙目になってしまったナルトに、イルカは何となく聞けなかったのだ。そのものズバリ図星を指されました、みたいな顔をしたナルトには。だから、振り向いてみた。
「そうだったんですよ。あいつも隠してたからイルカさんが気が付かなくても仕方ないですけど」
 イルカの肩に顎を乗っけてカカシはにやにやと笑っている。
「で、なに?オマエが上忍になったら抱かせろとか言われたの?」
 カカシの台詞にナルトはへにゃりと眉を下げた。ますます泣きそうである。
「カカシさん、怒りますよ」
 完全に面白がり始めたカカシを窘めて、イルカはナルトに向き直った。
「はぁい。ごめんなさい」
 あんまり反省してなさそうな声で返事を返したカカシには取りあえず構わないでおく。イルカの肩に懐きながらカカシはさっきよりもぴったりと背中に張り付いた。
 ひとまずこれで、もう余計な口出しはしないだろう。カカシの言葉にナルトは泣きそうなようなどう形容していいのか分からない妙な表情をしていた。
「で、ナルト。相談ていうのはいったい何なんだ?最初からちゃんと説明してみろ」
 きちんと相談に乗ってやろうと思っても、後ろに張り付いた物体が剥がれないからあんまり決まらないな、と思う。さっきから腕を外そうと試みてはいるモノの、所詮は上忍と中忍。
 カカシが放す気にならなければ外れないのは分かり切っていた。仕方なくカカシを後ろに貼り付けたまま、それでもイルカはいくらか背筋を伸ばして静かに問うた。
「ナルト」
 柔らかく静かなイルカの呼びかけに、ナルトはおずおずと顔を上げた。赤い頬はそのままだったけれど、幾分かさっきよりも落ち着いているように見える。
「あの、さ」



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