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塔の部屋に備え付けられた風呂に入る頃、太陽はとっくに西の空に傾き始めていた。もうそろそろ夕飯を持ってくるからダメです。そういう可愛くないことを言うイルカの身体を抱き込んでシャワーを浴びながらもう一度セックスをした。ダメダメと言いながらカカシの精液でぬかるんだそこに前触れもなく挿入してもあまり痛みを感じてはいないみたいだった。
そうしてイルカとカカシが身支度を整えた頃に、床の一角にはめられている木の扉がこつこつと音を立てた。
「ちょっと風呂場に隠れてて下さい」
「はぁい」
ちゅ、と頬にキスされてイルカは思わず頬を染めた。こつこつとまた床が音を立てる。
赤い顔をしたイルカに柔らかく微笑んだカカシはするりと風呂場へと姿を消した。もう、もう!恥ずかしさに狼狽えたイルカの耳に、3回目のノックの音が聞こえてきて慌てて返事をする。
「はい!」
イルカの返事にゆっくりと扉が持ち上がり、そうして世話役の女官が顔を出した。
「申し訳ありません。ご入浴中でしたか?」
濡れたイルカの髪を見て女官が申し訳なさそうな顔をする。さっきまでの爛れた時間を思い出してイルカはぶんぶんと首を振った。
「いえ、その。大丈夫です。食事はテーブルに置いていって下さい」
イルカは俯いて女官にそう告げる。どうにも顔が火照るの止められない。身体はまだあちこち甘い痛みを引きずっていた。
イルカの言葉に頷き、女官はしずしずと部屋へと入って来る。いつものようにテーブルに食事を置くとそのまま元来た扉のところへと戻っていった。
「それではまた後で食事を下げに参りますので」
常套句を口にして扉を下ろそうとした女官にイルカは、あ、と思って声を掛ける。
「あの、今日はもうすぐに休みますから。食事を下げに来るのは明日の朝にしてもらえますか?」
イルカの言葉に女官は、かしこまりました、と頭を下げて出て行った。扉に耳をつけて女官の足音を聞いていれば、しばらくこつこつという音がした後、ばたんともう一枚の扉が閉められた音がした。
もうこれで明日の朝までは誰もここを訪れない。風呂場の扉をそっと開いてカカシを部屋の中へと呼び戻す。
「もう大丈夫ですよ」
そう言いながら見上げたイルカをカカシは柔らかい瞳で見下ろしていた。そうしてゆっくりと唇を吸われる。
簡単に離れていったそれにイルカはまたしても体温を上げた。
「か、カカシさん!」
気恥ずかしくて慣れなくてイルカが声を荒げれば、くつりとカカシが笑った。
「ゴメン、あんまり幸せでもうオレ駄目みたい」
くつくつと笑いながらカカシはイルカの肩に懐く。大きなカカシの身体を抱き留めてイルカもくすりと笑った。
幸せで駄目になっているのはお互い様だ。
「取りあえず飯食いましょ」
ひとしきり笑った後カカシはようやく身を離してそう言った。テーブルの上の食事はまだ湯気を立てている。食事を目にして自分がひどくお腹を空かせていたことに気が付いたイルカは、その理由にまた頬を染めた。
「ほら、早く」
カカシに呼ばれその横に腰掛ける。体温を感じるくらい近くに腰掛ければ、カカシはイルカの手にまだ熱いスープを渡してくれた。
野菜がくたくたに煮込まれたスープを手にとって口を付ければ、その温かさが胃に染みた。美味しい、と思う。そのことにイルカは小さく驚いた。食事を美味しいと感じたのはどの位ぶりだろう。
考えてもみなかったけれど、カカシがいなかった間一度も何かを食べて美味しいと感じたことはなかった気がする。
ちらりと横を見れば、カカシはじっくりと焼かれた肉をナイフで小さく削ぎ落としてた。器用な手がそれを野菜と共にパンでくるむ。
「どうかしましたか?」
食べる?と差し出されたそれを受け取りもしないで、イルカはじっとカカシを見つめた。優しい青灰色の瞳。そうして。
「もう少し夜が更けたらここを出ましょう」
何も言わないイルカに何か問うでもなく、カカシは食事を再開しながらそう言う。イルカの目はカカシの左目に釘付けになっていた。
嵐のような情交の間には気がつかなかったけれど、カカシの左目に巻かれていた包帯がない。
「アスマと姐さんから事情は聞きました。ここを出たら診療所に寄ってその足で町を出ましょう。荷物は姐さんがまとめててくれるって……」
包帯こそなくなっていたものの左目は伸びた銀の髪に隠されている。カカシの言葉を遮るようにイルカは身を乗り出しその前髪をかき上げた。カカシの膝に乗り上げ、かき上げた前髪の下にある瞳を見つめる。
「イルカさん……」
空を溶かした灰色の瞳と、そうして燃える赤い瞳。呪いは、解けたのだ。以前と違って禍々しい気配などどこにもないカカシの左目。きらきらと光る宝石のような赤い瞳。
「呪いは、解けたんですね」
「はい」
頷いてカカシはイルカの瞳を両の目で見つめた。
「無事、生きて帰りました。呪いは解けたけれど、この赤色は元には戻らないみたいですね。それに左目の視力がほとんどありません」
ずっと隻眼で暮らしていたのだから特に不自由は感じない。そう言ったカカシの左目に、イルカは恭しく口づけを落とす。
カカシがここにいる、それだけで充分だった。約束を果たし、生きて帰ってくれた、そのことだけで。ゆるりと笑みを浮かべたイルカの頬をカカシの手の平が撫でる。
そうしてその手首でしゃらりと音を立てた腕輪。しゃらしゃらと鳴るその音にイルカはひどく驚いた。
「カカシさん、その腕輪…!」
頬を撫でていた手を掴み、その手首にはまっている腕輪を凝視する。はまっている腕輪は二つ。一つはイルカの腕輪。
そうしてもう一つは。
「お祖父様…!」
祖父の、腕輪だった。
「お祖父様?」
イルカの言葉にカカシも驚いている。
「一体これをどこで…!」
カカシの驚きなど気にもとめないままイルカは詰め寄った。
「どこって、テアの町で会った老人に貰ったんです。アナタのことを知ってましたよ」
カカシの言葉にイルカは思わず身を震わせた。生きていた。祖父が生きていた。あの混乱の中会うことも叶わないまま離ればなれになってしまった祖父。とっくに死んでしまったと思っていた。
イルカに歌の手ほどきをしてくれた優しい祖父。黙り込んだイルカを抱き寄せてカカシはその黒い髪を柔らかく梳いた。
「話したいことが沢山あるんです。その老人のことも含めて。アナタと一緒に会いに行くと、腕輪を返しに行くと約束したんです」
カカシの背中にぎゅっと抱きついてイルカは滲んだ涙を誤魔化すようにその肩に顔を埋める。
「そうして行きたいところも。約束をしたでしょう。世界を見て回ろうって。そうしたら辺境へ帰りましょう」
柔らかいカカシの声。肩に顔を埋めたままそっと頷けばくぐもったカカシの笑い声が聞こえた。
「飯が冷めますよ」
嬉しいはずなのにどうしてか涙がいつまでも止まらず、そうしてイルカはカカシに抱きついていたのだった。
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「さ、そろそろ出発しますか」
全ての荷物を装備し直し、カカシはイルカをひょいと抱き上げた。
「そう言えば訊くの忘れてたんですけど、カカシさん一体どうやってここに来たんですか?」
カカシが帰ってきた嬉しさで一杯だったけれど、よくよく考えたらどうやったのかさっぱり分からない。この二日間イルカはここを出ようとあれだけ苦労したというのに。
「どうやってって、こう、屋根を伝ってひょーいって飛んであの窓から」
バルコニーの方を向いてそう告げたカカシをイルカは信じられない思いで見つめた。どういうことかさっぱり理解出来なかった。
「まぁオレならではっていうか、他の人じゃここから出るの無理でしょうけどね」
オレに不可能はないんですよ。笑いながらカカシはそう言ってすたすたとバルコニーへと歩み寄った。イルカを抱えたまま手摺りに足をかけ、そうして額に口付けを落とす。
「跳ぶからしっかり捕まっててね」
イルカが、え?と思う間もなかった。カカシはおもむろに手摺りを蹴ると、夜の闇に向かって跳躍した。ごう、と耳元で風が唸る。言われるがままにカカシにしがみついていたイルカは、自らの身体が浮く感触にその腕に力を込めた。怖いという感情が浮かぶ暇さえなかった。気が付けばカカシは王宮の屋根を蹴っていた。またしても浮かび上がる身体。次に辿り着いた屋根はもうすでに王宮の中の建物ではなかった。
次々と跳躍を繰り返しそうしてあっという間にイルカたちは紅の診療所の前に辿り着いていた。辺りは月明かりに照らされて随分と明るい。
診療所の前には三つの人影があった。
「紅さん!アスマさん!それにハヤテさんも!」
カカシの腕から下ろされてイルカは三人に駆け寄った。
「恋姫!よかったわ。無事だったのね」
紅に抱き留められイルカは安堵の溜息を吐く。
「紅さんこそよく無事で…!あのあと王に何もされませんでしたか?」
「私たちは大丈夫よ」
心配するイルカに紅は笑顔でそう答えた。アスマもハヤテも嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「…恋姫はそんな風に笑うんですね。長い間一緒に働いていたのに全然知りませんでしたよ」
月明かりに照らされていつもより顔色のよくないハヤテは、からかうようにそう言った。その視線はイルカを捕らえ、そうしてその後ろに立つカカシに向けられている。
ハヤテの言葉に頬を染めたイルカはそれでもゆったりと笑った。
「ありがとう、ハヤテさん」
アスマはいつものようになんにも言わないまま煙草をふかしていた。海からの風が煙草の煙を彼方へと押し流す。
「再会を祝いたいのは山々だけど、いつ追っ手が掛かるか分かんないしね。行かないと」
カカシがイルカの肩を抱き、そう告げる。三人が診療所の中ではなく外で待っていたのもそのためだろう。夜半に帰るとでもカカシが言っていたに違いない。
そうでなければこんなところで待っているはずがないのだから。
「悪いと思ったけれど恋姫の荷物まとめておいたわ」
ほれ、とそれをイルカに差し出したのはアスマだった。着替えや細々した身の回りのものは一つの袋に収まったらしい。その袋と共にイルカの前に差し出されたのは、二日ぶりに手にする楽器。イルカの、大切な。
差し出された荷物はカカシに取り上げられ、イルカはその楽器だけをゆっくりと受け取る。手に馴染むその薄い木の感触。ぴんと張られた弦の手触り。人差し指で弦を弾けば、ぽんと小さな音がした。
あぁ。本当によかった。
楽器を抱きしめイルカはカカシに寄りかかった。手の中に戻ってきてくれた。
「さぁ、早くしないと」
押し黙ったイルカにそう言ったのはハヤテだった。イルカの大切な友達。
「急遽だったからあまりいいものは用意出来なかったんですが…」
そうしてハヤテは小さな革袋を差し出した。アスマも紅も笑みを浮かべてそれを眺めている。
「オレ達からの気持ちだよ。たまにはこの海辺の町のことも思い出してやってくれ」
そっと中を覗き込めば小さな貝殻を集めて作った首飾りが入っていた。イルカの頬にほろりと涙が伝う。差し出された情にどうしていいのか分からなくなる。
ずっと一人きりだと思っていた。ずっと誰とも心を通わせないと。カカシに出会い、そうしてこの優しい人たちに支えられてイルカは一人なんかじゃなかったことをようやく知った。
ずっとずっと支えられていた。
一番長く支えてくれていたのは、紅。柔らかな視線を向ける紅をイルカは見つめた。背中に触れる体温がイルカの心をずっと強くしてくれる。
「元気でね、恋姫。いつかまた会いましょう」
「イルカです。私の名前はイルカと言うんです」
笑った紅にイルカはようやくそれだけを告げた。もうこの名前も秘さなくてもいいのだ。恋姫などと呼ばれるよりは、この名を呼ばれる方がずっといい。
イルカの突然の告白に三人は驚いたように目を見開いた。涙するイルカの肩ををカカシは柔らかく撫でている。
「…ありがとう、イルカ」
紅の言葉にイルカは首を振る。今まで本当にありがとうと、そう言いたいのに。伝えたい思いばかりが胸に詰まってイルカは泣くことしかできなかった。
「さぁ、もう行きなさい。2人とも元気でね」
目の端をほんの少し赤くして紅はそう笑う。アスマもハヤテも黙って笑っていた。
「ほら、イルカさん」
カカシの指に涙を拭われ、そうしてイルカもようやく笑みを返す。大事な人たち。離ればなれになっても、きっといつかまた会える日が来る。
「さぁ、今日は門出に相応しいいい月夜ですよ」
柔らかいカカシの声がイルカの心を温かくする。見上げた夜空には大きな満月。カカシの銀の髪がきらきらと輝いて、とても綺麗だった。
手を振り別れを告げれば、カカシに抱き上げられまた屋根の上へと舞い戻っていた。アスマと紅は軍隊を辞めると言っていた。元々二人とも前王に仕えていたのだから、と。軍隊を辞めて海賊にでもなるさ、とアスマは笑っていた。今度は海の上で会おう、とそんな風に。
ハヤテはまだ先のことは決めかねているらしかった。酒場の主人も実は嫌いではない、と笑う。
イルカはカカシの腕の中で小さな革袋を握りしめた。ちゃり、と音を立てたそれを愛おしいと思う。優しい思いの塊。
「ここから飛べばテアのすぐ手前の街まで一気に行けます」
そう言ってカカシはイルカを見下ろした。佇んでいるのは雑貨屋の屋根の上だった。
「変なところにあるんですね。今度のポイント」
イルカの言葉にカカシは吹き出して言った。
「ホントはね、まともなところにある方が少ないんです」
カカシに抱き上げられたままイルカは改めてルシールトを見渡した。夜の街には月に照らされた巨大な宮殿がそびえ立っている。おそらく二度とは見ないだろう風景。
「そろそろ跳びますよ、しっかり捕まって」
カカシの言葉と共に身体が引っ張られるような感覚。ぶれていく視界に最後に映ったのは月光に光る海面。揺れる視界に目をつぶれば、不意に引かれる感覚が消えた。
目を開けば、そこはもう知らない場所だった。これがテアの町。人通りの途絶えた街並みはしんと静まりかえっている。
「行きましょう、宿を探さないと」
そう言って地上に身体を降ろされる。自然に差し出された手を握り返して、イルカはこくんと頷いた。つながれた二人の手首で腕輪がしゃらしゃらと音を立てている。
もう二度と、この手が離れていくことはない。カカシの腕にはまだイルカの腕輪がはまっている。そうしてイルカの腕にはカカシのくれた偽物の腕輪が。
背を向け手を引いて歩き出したカカシの横に並びながら、込み上げてくる幸せにイルカは柔らかな笑みを浮かべたのだった。
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