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 ざぁ、と頭からお湯をかけられる。うっすらと目を開ければ排水溝に飲み込まれていくシャンプーの泡。
「風呂、広くしたんだなぁ」
 もう一度湯をかけられたあとイルカは顔を上げ、そう感想を述べた。目の前にあるのは檜で作られた贅沢な風呂。お湯で暖められた木の香りがとても芳しい。
「まーね。誰かさんが風呂好きだったからさ」
 リンスを髪に揉み込まれ、そうしてイルカはまた首を下げる。頭に降り注ぐ、温かなお湯。タイミング的に口を開けない状況だったというのもあるけれど、イルカはカカシの言葉に思わず口を噤んだ。
 この男はこの五年間一体どんな思いを抱えて生きてきたのか。イルカも辛かった。悲しく、寂しく、裏切られた絶望は深く。そうして憎んでいた。憎んでいると思っていた。けれど、カカシは。
 温かいお湯が髪を、体を滑り落ちていく。排水溝に吸い込まれていくお湯を眺め、そうしてイルカは背後のカカシを振り返った。この男は、この五年間。
「どした?」
 この穏やかで優しい男の下に隠された激情を知っている。見上げるイルカに口付けを落とし、カカシはその細く骨張った指でそっと左肩に触れた。ひきつれ、傷を残したイルカの左腕。醜いとは思わない。ひどく愛しい傷。
 その傷にカカシは触れた。カカシが謝罪を口にすることはもうないだろうけれど。愛おしむように触れるその指先。カカシの激情がイルカに残した爪痕。もう一度口付けが降ってくる。
 風呂場の床に縫いつけられたイルカのぬかるみにカカシが凶器を突き立てるまでにさほどの時間はかからなかった。





 くたくたになって風呂から上がり、イルカはカカシを座椅子にぐったりとしていた。明日が休みだからいいもののこんな調子では体が本当に持たない。本当は今すぐにでも布団に潜り込みたいのを我慢して、カカシの膝の間に大人しく収まっているにはそれなりの訳があった。
「で、結局どうなってるんだ?」
 足を投げ出し横柄な態度を取るイルカが妙に可愛らしくてカカシは思わず笑みを零した。ようやくこの手に戻ってきた日常。柔らかく暖かい世界。壊したのは自分だけれど、それでもイルカが側に戻ってきてくれたことがこんなにも嬉しい。にこにこと相好を崩すカカシにイルカはもう一度問うた。
「どうなってるのか聞いてるんだ。答えろ、カカシ」
 腹の辺りに緩く巻かれているカカシの腕をぺちりと叩いてイルカは話を促す。あまりにも穏やかなカカシというのはどうにも調子が狂う。
「どうって聞かれてもねぇ。何から話せばいいのか」
 困ったようにイルカの肩に額をつけたカカシに思わず溜息が漏れる。
「そんなに色々隠し事があるのか?」
 頬をくすぐる柔らかな銀の髪。髪を梳いてやればまたくぐもった笑い声が聞こえた。
「大体火影様はどこまで俺たちのことを知ってらっしゃるんだ?元鞘だなんて言われてまるで付き合ってたことまで知られてるみたいじゃないか」
 そう、なんだか居たたまれない気分だった。長い痴話喧嘩みたいな言い方をされてどうにも居心地が悪かった。
「全部知ってるよ、あの人」
 イルカの肩に顔を埋めたまま、そうしてカカシが言った言葉。
「は?」
 え?今、なんて?肩に埋められた髪をぎりぎりと引っ張れば、禿げる禿げると言いながらカカシは顔を上げた。
「だから、全部知ってるの。オレが言ったから。オレ達が付き合ってたことも、オレがイルカの腕を潰したことも。全部喋ったから全部知ってるよ」
「な、なんで…!」
 イルカは掴んだカカシの髪を離すこともしないで呆然と問いかけた。
「なんでって、このままだとイルカを殺しかねないと思ったから懲罰にかけてもらおうと思って」
 もう間違うわけにはいかなかったからね。ぽつりと漏らされたカカシの本心にイルカはようやく髪の毛を放した。
「火影様はイルカが何か言うまではこの話は聞かなかったことにするって言われてね」
 お前黙ってたんだろ、とカカシが小さな声で呟く。そう、なぜかイルカはカカシのことを誰にも話すことが出来なかった。腕を潰されたことも、憎まれていたかもしれないことも。頷いたイルカの肩にカカシはもう一度懐いた。
「オレのことも不問に処す感じだったし、それにイルカを上忍に留めるつもりだったみたい」
 初めて聞いた話だった。カカシの表情が見ていたくてイルカは抱きしめられた腕の中で身を捩る。向かい合わせに無理矢理座り直し、そうしてイルカはカカシの頬に手を当てた。泣きそうな笑い顔をしてカカシは困ったように視線を彷徨わせていた。そうしてもう一度目を伏せる。
「オレにはどうにも出来なかった。けど、そのとき火影様と取引したんだ」
「取引?」
 首を傾げたイルカにカカシはこくりと頷いた。
「イルカが請け負うはずの上忍としての全ての任務をオレが引き受けるって。だからイルカをもう二度と戦場に戻さないでくれって」
 緩く腰に回された手にわずかに力が込められる。うつむいたカカシを抱き寄せて柔らかくその髪を梳いてやった。
 馬鹿な男だ、本当に馬鹿な。
「今回のことはさんざん約束が違うって火影様に掛け合ったんだけどね。駄目だった。これきりだからって言われて…」
 だからあれほど直前になっても不満げだったのか。
「馬鹿だな、お前は」
 何もかも一人で抱えて。イルカを壊してしまったのはカカシだったけれど、ずっと護っていてくれたのもカカシだったのだ。
「いつも肝心なことだけ黙ってるから一人だけそんな辛い目に遭うんだ」
 抱きしめる腕の力を強くしてイルカはカカシを柔らかく罵った。馬鹿な男。けれどだから、愛おしい。
「愛してる、イルカ。オレの側にいて」
 子供のようにイルカに縋るカカシの髪をそっと撫でてイルカも小さな声で呟いた。
「オレも愛してるよ」
 こんな愛おしい存在はもう二度と現れないだろう。これほどまでに愛しく大切な存在は。そうしてしばらくの間、イルカはカカシを腕の中に閉じこめてその柔らかい銀の髪を撫でていたのだった。



        * * *



 今日から後任指導の任務が始まる。

 久しぶりの上忍任務からの復帰後も、何事もなかったかのようにイルカはアカデミーで教師を続けていた。長い任務を同僚は単純に労ってくれたし、急だが新しい術の開発に駆り出されることになったから今までのように受付には入れなくなることも快く受け入れてくれた。
 お前も色々大変だな。火影様に目をかけてもらうのも善し悪しだな。などと言って小さな飲み会まで催してくれた。いい奴らだ、と思う。
 彼らがこれほどまでに気安くしてくれるのは自分が過去を隠しているからだとイルカは分かっていたけれど、もう二度とあの戦場に戻ることがないのなら、それはそれで構わないだろうとも思っていた。
 嘘だって一生貫けば真実になる。そう、思う。少なくともイルカの中では。

 暮れかかった太陽に照らされて赤く染まるアカデミーをあとにし、イルカは第八演習場へと急いでいた。あそこは暗部専用の演習場で機密性にも優れている。アカデミーの裏手から森に入りイルカは走る速度を速めた。木から木へと移り第八演習場の側まで来たとき不意に気配が現れた。カカシだった。
「はりきってんねー」
 イルカに並んで木の上を疾走するカカシに苦い笑みが漏れた。そんなに力が入っていただろうか。
「ホントならオレ達が出なくてもいいと思うんだけどね」
 そうしてぼやきを落とす。流れる景色が突然開け、そうして辿り着いた第八演習場。すたりと地上に降りて、イルカはカカシを振り返った。
「まだ言ってるのか、そんなこと」
「だって」
 だってじゃない、とイルカは思う。カカシが火影を横着だ、と言った原因がこれだ。本来ならこの任務、カカシとイルカ以外にも適任者がいるのだ。
 それは火影を筆頭とする首脳陣。三代目火影もご意見番であるホムラやコハルも全て初代の弟子だ。すなわち彼らは初代以外で初めて笹岡を訪れた木の葉の忍びなのである。
 カカシやイルカは笹岡の技を直接伝授されたわけではない。カカシは何度か笹岡の子供と修行をしたことがあるらしいが、対毒対策という点においては特務に入ってようやく上役から教わったとのことだった。イルカに至っては笹岡一族にそういう意味で直接会ったことすらない。当然火影達の方が知識も深く、後任指導には適しているに違いないのだが。
「火影様達はお忙しいんだから仕方ないだろうが」
 それに一度は引き受けた任務だ。今更何を言っているのやら。ただ愚痴を言いたいだけなのは分かるがこう何度もだと鬱陶しいことこの上ない。
「ほら、もう集まってるぞ」
 ぽんとカカシの肩を叩いて、イルカは佇む三人の人影に目を向けた。
 その中の一人。真ん中に立っている人間に見覚えがあった。
「あれ…?」
 イルカの言葉にカカシも視線を上げる。
「あ、あいつ」
 カカシも驚いていた。そう、佇んでいた人影。
「なんつったっけ、あいつ」
 がりがりと頭を掻くカカシにイルカはくすりと笑って答えた。
「勝呂って言ってなかったっけ?」
「あー、確かそんな名前」
 そこにいたのは、あの戦場の中でイルカとカカシが出会ったあの若者だった。あのときの疲弊しきったような表情はそこになく、若々しい力に溢れた忍びがそこに佇んでいた。イルカとカカシの姿を認め、そうしてほんの少しだけ決まり悪げな顔をして視線を逸らす。勝呂の仕草にカカシとイルカは顔を見合わせ笑った。
「さて、お勤め頑張りますか」
「だな」
 まっすぐに背筋を伸ばして三人に近づくイルカの後ろを、ポケットに手を突っ込んだままだらしなく歩くカカシが続く。茜色だった空は刻一刻とその姿を変えていた。瞬きはじめた星々の一つがすい、と空を横切る。
 儚く消えた笹岡の命のようなそれに気が付いたカカシはゆったりと目を閉じ、そうして何かを振り切るかのようにイルカの横に並んだのだった。



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