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透明人間




「イルカ先生、お願いします!」
 そう言って、目の前の女性はイルカに対して両手を合わせ、本当に神様に強く懇願するように目頭に力を入れている。きっとお相手の男性がこの様を見たら多少幻滅するに違いないと、イルカは彼女の小皺を見つめながらぼんやりと考えた。
 彼女は先日やっと意中の男性と思いを通じ合わせることが出来て、その結果今日この日に初デートを予定していたらしい。しかし彼女は自分が受付の遅番シフトに入っていることを今日この日まで失念していて、最後の頼みの綱とばかりにイルカを拝みに来ているのだった。
 拝む相手が間違っているとイルカは思った。
 そのお相手の男性に自分の不手際を謝って、初デートの期日を延長すれば良いだけの話ではないか。公私をきちんと使い分けできないようでは、一人前の社会人とは言えない。しかもイルカは今の今まで受付に座っていた身である。このまま延長してあの固い椅子に座らせて、目の前の女性は恋人とイチャイチャする気なのだ。そうしていて平気だと言外に言っている。
 イルカの胸の裡には反論の言葉で一杯になり黒々としていたが、口をついて出たのは全く違う言葉だった。
「いいですよ、楽しんできて下さい。今回はオレが替わりましょう」
 本当ですか?と満面に喜色を浮かべる彼女に対してイルカは如才なく笑んで応じ、とにかくその場から疫病神を追い払ったのだった。
『本当ですか』も何も、行く気満々でばっちり厚塗りをしていた彼女の小鼻の皺にファンデーションが溜まっていたことを指摘しなかったのは僅かばかりの意趣返しだ。
 イルカは昨日も朝から深夜まで受付に座り続けていた。昨日は子供が誕生日とかで同僚と替わった。一昨日は親が入院したと先輩の代理をしている。
 シフトを変更したと言っても実際にイルカの仕事と替わった試しは殆どなく、埋め合わせはイルカ一人で食べるわけにもいかないような菓子の詰め合わせだったりお茶詰め合わせだったり、腹の足しになるようでならないものばかりが返ってくる始末だ。結局はそれもアカデミーの職員室に置かれたり、受付に置かれる運命を辿る。仕事を肩代わりしてくれたとしても、イルカには別に休まなくてもいい日に替わってくれたりして、結局イルカはアカデミーに出てしまうことが多々あった。
 同僚達はイルカを体のいいシフト交代要員と見ている節があるのを、イルカは薄々感じ取っていた。だいたいさっきの彼女も名前を知っているとはいえ、親しい仲ではない。歳も一世代近く離れているし、一緒に任務に就いたことも無いはずだ。彼女はきっとイルカの噂を聞きつけてやってきたのだろう。ともすれば、今日のシフトはイルカが前に入っていたからわざわざ前日までに仕事を詰めておく必要もないと判断したのかも知れない。
 そんなときイルカは自分が見えなくなってしまったらなあ、と思うようになっていた。
 煩わしい仕事を押しつけられることもなく、子供達からの悪戯の標的にされることもない人になりたかった。
 今の仕事が好いているわけでもなく、実を言えば誰にも干渉されない穏やかな生活を送りたいのがイルカの本音だ。決まった時間に家を出て仕事をこなし、決まった時間に家に帰る。単調で味気はないが、別にイルカはそれが悪いとか、満ち足りないとは思わなかった。自分の生命さえ全うできればそれで満足なのだ。
 僅かばかりだが自己犠牲の精神も持ち合わせているからこそ、今日までのイルカの立場を形成してきたわけだが、本音と建て前は違うのが当たり前であって、まさにこれはこれ、だ。
 確かに恋人を新しく持った彼女を羨ましく思うところもあるが、イルカには結局赤の他人と仲良くしていく自信がない。今は自分が一番大事だ。
 そして、自分が一番大事だからこそ、ないがしろに扱ってくれる同僚や子供達から姿を消したいと願うようになったのだった。
 その思いは内勤になってから早くも二ヶ月くらいで抱いたものだったが、勿論実現される筈もなく、イルカは空しく夢想するばかりを得意としていた。



 そうした日々を続けているうちにイルカは一人の天上人と出会った。
 これまでの味気ないイルカの生活の中で一番輝いていたナルトという生徒を、下忍として昇格させ、今後の面倒を受け持つことになった上忍がそれだ。
 はたけカカシという男は自分が上忍であると言うことに何の意味も見いだしていないかのようにイルカに親しくしてきて、イルカは相当居心地の悪い感覚を味わった。
 自分を対等の人間のように扱う上忍をイルカはそれまでに知らなかったのだ。カカシ同様ナルト達と同期に下忍になった子供達の担当上忍の二人ともが気安く、イルカをやきもきさせた。
 とりわけカカシは誰も友人が居ないのか、よくイルカを夕食に誘った。
 家に早めに帰りたいイルカだったが、カカシの境遇を思うとその誘いを断りきれず、二回に一回、三回に二回と、徐々に相伴する機会を増やしてしまう人の好さだった。
 それに、案外話してみるとカカシは見かけの怪しさに反して、たいそう常識的な好人物だった。話題は豊富で中忍であるイルカへの気遣いも忘れず、笑顔を絶やさない。もっともイルカにはあの怪しげな口布の下を見たことはないから、本当は笑っているのかどうかは解らないのだが、あの髪の毛と同じ色の睫で縁取られた目は常に眩しそうに細められている。カカシの唯一晒された右目の色を思い出せないくらいだ。
 もしかしてあのカカシと喋る機会がナルトに次いで多いかも知れないとイルカはふと思った。それはカカシとの逢瀬の回数の多さを物語り、同時にイルカの出費の飛躍的向上を示していた。
 カカシが奢ると言い張るのだが、そこだけはイルカも譲れない一点がある。ここで上忍に甘えればあとでどんなツケが自分に回ってくるか知れない。そんな事が無くても、借りや前例は作れないし、せめてその点だけでも対等でいたいというはかないイルカの矜持だった。
 ある日、イルカは受付から書類を持ち出す際に一人の女性に呼び止められた。今日もカカシがナルト達の属する第七班の受付がてらイルカとの夜の約束を取り付けて去っていった後なのだ。今日はのんびり残業する気で居たイルカにはこれからこなさねばならない仕事を思って彼女にはぞんざいに応じることとなった。
 いつにない対応の悪さに彼女が怖じけ付いたのをイルカは瞬時にして悟り、その顔に素早く笑みを張り付けた。そうすることによって幾分相手の女性は警戒を残したものの、緊張を緩めた。
「あの、今日のことなんですけど…」
 もじもじと彼女はその細い身を捩って、言いにくそうに俯く。朱のさした顔はまあそれなりに可愛いけれども無意識のうちに晒される女の武器に、イルカは無理矢理張り付けた笑顔の仮面が少しずつ剥がれ堕ちていく、ぱらぱらという音を聞いたような気がした。
 イルカは今気が立っている。断れない誘いの軋轢に悲鳴を上げる仕事量と財布の中身を思ってだ。せめてカカシ以外の他の人間に今のうちから邪魔されたくなかった。
「今日は用事があるのでシフトの変更はなどは出来ませんが…」
 先を刺しイルカはにっこりと笑ってそう女性に告げた。せめてカカシに誘われる前に声を掛けてくれればイルカの大事なのんびりとした時間はやはり奪われることになっても懐はぬくかったのにと内心毒づきながらイルカは踵を返そうとした。
「あの、そうではなくて…!」
 と彼女は言ってしまおうとするイルカの腕を掴んだ。
 思わずびっくりしてイルカはその、自分を掴んできた手を睨み付けてしまった。慌てて女性は手を引く。
「す、済みません…! あの、今日はたけ上忍と夕食をご一緒するとお伺いしたんですけど、私も連れていって下さいませんか!」
 女性はこれ以上の醜態は見せないようにか、まくし立てるようにそう言った。うわずったその声に萎縮して思わずイルカはその女性の顔を見つめる。
 カカシとイルカに混ざって三人で忍術談義やナルト達のことを話したいのかと思ったが、彼女は忍ではなく受付の更に内部で働く一般人だ。そんな話はしたくったって出来ないだろう。
 イルカは訝しく思って首を少し傾げた。もしかして眉も顰めていたかも知れない。
 彼女はイルカの顔を見ていられないように俯いて硬直していたがしかし、逃げるでもなくてイルカの前で頬をリンゴのように真っ赤にしたまま返事を待っている。
 勇敢だなあ、と思った瞬間にひらめいた。
 ああ、この人ははたけカカシを紹介して欲しいのだ。
 スイッチが急に切り替わったように、イルカの腹で策が蠢いた。
 この女性とカカシが恋人とまでいかなくても仲良くなれば自分にお鉢が回ってくることはなくなる。イルカが仮定するように友人が居ないのであれば、最悪でも自分一人だけがカカシの知り合いではなくなり、誘われる回数は確実に軽減されるだろう。そこでイルカが元のように断り続ければやがてその矛先はこの女性に向いていくはずだ。そこで愛なり友情なり語り合えばいい。
 イルカのあの穏やかな日々が帰ってくるのだ!
 思わずイルカの顔にもバラ色の笑みが浮かんだ。それを見て正面の女性はぎょっとする。
「良いですよ!」
 これ以上ない快活さでもってイルカが承諾したのは言うまでもない。そして女性の顔も喜びに綻んだのだから丸く収まるだろう。
「実は困っていたのです。カカシ先生からお誘いを受けた割に仕事が終わりそうにもなくて、あの方をお待たせするわけにもいかなかったので」
 ゆっくり残業してから顔を出せば、もしかして飲み代が安くならないかとそこまで計算して吐いた台詞だったが、女性はそれはもう大喜びで請け合ってくれた。
 彼女はそう親しくもないイルカに向かって、嬉しそうに手を振り振り仕事に戻っていった。
 イルカも状況が多少は改善されたことによって、機嫌を持ち直して仕事に戻ることが出来た。精神的に余裕の仕事ぶりはそれは実力以上の処理能力をもたらし、ともすれば規定時間内に仕事を終えてしまいそうだったが、引き延ばしたり自ら仕事を探し回りながらその時間を迎えた。
 女性を伴ってイルカはカカシとの待ち合わせであるアカデミー校門前に向かうと、門扉を支える太いコンクリート柱に背中を預けたまま本を読んでいるカカシの姿を見つけることが出来た。
 ふとそこに緊張が走った。
 イルカがすぐ側を振り返ると女性が緊張した面もちでカカシのことを凝視している。きちんと直された紅の美しい唇は真一文字に引かれて、品も色も見あたらなかったが、イルカは好ましいなと思って少しだけ苦笑した。
「カカシ先生」
「ああ、イルカ先生。お疲れさまです」
 カカシは軽く反動をつけてコンクリートから背中を離すと、にっこりと笑ってみせる。追従してイルカもにっこり笑って見せてお疲れさまですと復唱した。
「あのですねカカシ先生。非常に言いにくい事なんですが」
 と言い置いてイルカは実に闊達に喋りだした。
「紹介します。こちら受付の内部の事務を担当して下さってる羽馬野リリさんです。リリさんは今日カカシ先生と話してみたいとおっしゃるのでお誘いしました。私は急遽残業が入ってちょっと遅れそうなんです。必ず行きますから先に始めちゃっててくれませんか」
 彼女を差しだしてイルカはにっこりと笑うと、きょとんと己を見失っていたカカシもつられて頬を緩めた。
 それをどう解釈したのか女性は深々とカカシに名乗ってよろしくお願いしますと頭を下げた。つられる質なのかカカシも慌てて頭を下げている。
「それじゃ、いつもの所なら、終わり次第お伺いしますので!」
 を捨てぜりふにイルカは駆けるようにしてその場を後にした。背中にカカシの戸惑った声が降りかかったような気がしたが勿論振り返るわけがない。
 カカシのことは嫌いじゃないが、別にイルカは友人など要らないのだ。仕事仲間は仕事仲間でプライベートまで共にする必要は全く感じない。彼らは彼らで仲良くしてくれた方がよほど建設的なのである。
 心なしかうきうきしたような足取りに自分でも気が付かずにイルカは仕事に戻った。
 九時近くになってイルカはいつもカカシと訪れる居酒屋へ入った。個室の多い落ち着いた店だが、値段も良心的な所だ。カカシと連むようになってからイルカが見つけた――――探した――――店である。イルカは味もそこそこ気に入っていたが、もしここがカカシとリリの逢い引きの店になるのだったら来るのも今日が最後だろうなあとふと考えた。
 最早顔なじみの店主と挨拶を交わして部屋を案内して貰うと、その部屋にだけ瘴気が籠もったかのように薄暗く感じる。本来はそう広くない個室なのだが、今日に限って広く見えたのは、カカシもリリも下を俯いて体を小さくしている所為だった。果たしてカカシとリリはお通夜のような暗い顔をして対峙して座っていた。
「…お疲れさま…です…?」
 あまりの雰囲気の異様さにイルカはその部屋に脚を入れることを躊躇った。
「どうしたんですか…?」
 リリなどはあんなに楽しみにしていたというのに、顔を上げるとイルカをきっと睨み付けてそのままイルカと入れ違いに店を出ていってしまった。
 イルカと肩を激しく接触したが、謝りも振り返りもしないところを見るとどうやら態とのようだった。
「?」
 イルカは荒々しい態度で帰っていくリリの勇ましい後ろ姿を思わず見送ってしまう。日中の楚々とした態度はやはり猫の皮だったかとぼんやり考えた。
 リリが去った後のカカシの正面の席に就くと、カカシは困ったように笑ってお疲れさまです、といつものように言葉を掛けてくれる。それに安心してイルカは案内の店員に生ビールの中ジョッキを頼んだ。
「どうしたんですか、カカシ先生。リリさんは…?」
「怒っちゃったんですよ。オレが心ないことを言ったから」
 ふうん、と曖昧に同意をしておきながらイルカは不思議だった。カカシほど気を使う男はイルカの同僚の中でもちょっと居ない。もう少し傲慢なくらいが普通なんじゃないかと思うくらいだが、今現在気を使われていると思っていないイルカは、無意識にカカシの好意に甘えているのにも気が付いて居なかった。
 リリが去ってからイルカもそこで食事を摂ったが、いつもより会話は弾まず、何故か料理も味気なく感じた。普段はどんなことを喋っていただろうかと考えるほどだ。
 支払いの段になってイルカは心底リリを恨むことになる。散々飲み食いしておいて彼女は一切金を置いていって居ないのだ。
「女は、男と一緒に飯を食いに行って金を払うなんて考えを一切持ってない生き物なんですよ」
 とカカシは笑って慰めたが、イルカにはカカシがイルカの経済状況を正確に把握しているところとか、強かな女性達に対する嫌悪感とかで複雑だった。
「イルカせんせい」
 夜道を歩きながらカカシはイルカに静かな声で話しかけてきた。
「今日みたいなのは、もう止めて下さい」
 その声があまりにも静かだったからイルカは思わず足を止めてカカシの顔を振り仰いだ。晩秋の夜は静かだ。何も音がしなくて、世界が死に絶えつつある。
 冬をにおわせるつんとした空気の中で、カカシは静かに足を止めてしまったイルカを振り返った。
「羽馬野リリさんというのはイルカ先生の彼女じゃないんでしょ?」
 全く持って違う。ありがた迷惑ですらない、その勘違いは完全に迷惑だ。イルカは激しく否定する意味で首を横に振った。
「じゃあ、紹介して貰う謂われはないです」
「…あなたは彼女に何かをしたんですか…?」
 カカシはそのイルカの質問に対して困ったように首を左右に振って、何もと応えた。
「…でもあの人はあなたに好意を持っていた。あの人の方から喧嘩をふっかける事なんてそれこそあり得ないことと私は思いますが…」
 イルカが言葉を募れば募るほど、カカシの困惑の表情は深くなっていく。自分の言葉の何が原因でカカシがそんな顔をするのか解らないイルカも、同様に困ってしまった。
「オレはねイルカ先生。飲み友達を作りたいんじゃなくて、あなたと親しくなりたかったの」
 カカシの言葉が脳に染み込みにくいイルカはぼんやりとカカシの顔を見つめる。カカシの目は見開かれていて真剣そのものだ。
 街灯にきらめく銀色の睫で飾られる瞳の色は、海よりも空よりも深い青だ。イルカはその時初めて認識したのだった。
「オレはあなたが好きなんですよ、イルカ先生」
 知性を湛えるその瞳が、一瞬殺気のようなものを漲らせたことにイルカは気が付いた。
 それを知覚したと同時に面倒な事になったなと、脳味噌の端っこの部分で考えていた。
 その晩はカカシが家まで送ってくれるという甚だ居心地の悪い別れ方をした。
 消えてしまいたいな、とまた思った。



 翌日、リリはイルカへの肩からのタックルで気が収まっていないのか、イルカを視線の端々に捕らえては、ひそひそと同僚と陰口をたたいているのが解った。そんな姑息なことが出来るからこそ飲み代も置いていかないふてぶてしさが問答無用で備わるのだ、と根に持っているイルカは無理矢理納得させた。
 関わるのが面倒だったイルカは彼女を捨て置いたし、二度と彼女から接触してくることもなかった。
 カカシはリリに真正面からイルカのことが好きだとぺろりと白状してしまったのだろう。本人にだって簡単に告白してしまえるような図太い神経の持ち主なのだから。
 イルカはカカシに返事をしていない。
 そうですか、とだけ応えておくと、またカカシが困った顔を見せて歩き出したからだ。そうした行動の端々に返事を期待していないのだと悟ると、考えることを止めた。
 ただ、あのサファイアのような瞳と殺気を思い出すと、再び消えてしまいたい衝動に駆られる。
 面倒だけは勘弁して欲しいなあと漠然と考えながらイルカはその日の職務を全うした。





     ***





 ある日イルカが出勤すると、誰もイルカの方を見ないことに気が付いた。おはようと声を掛けても本当に聞こえないのか誰も答えを返してこない。
 カカシのことがリリから尾鰭なり背鰭なりをつけて飛び回っていることは知っていたが、そんなことでも無視されたりするのだなあ、と漠然とイルカは思った。幼稚な手段だなと苦く笑ってその場はそれ以上追求しなかった。
 しかし、異変と感じるのには長く時間を要しなかった。
「今日も来てないわねえ、イルカ先生」
 と、隣に座った老婦人が心配そうな目で自分を見ているのだ。
『はあ?』
 何をおっしゃってるんですか、と確かにイルカは口にしたが、その声の途中で全く意に介した様子もなく反対隣の教師と「心配ですわね」としゃべり始めた。
『……』
 自分はここに居るというのに、どういうことだろうか。まさかこんなご婦人まで巻き込んで無視するような事なのだろうかとイルカはそこで初めて首を傾げた。
 確かに写輪眼のカカシという二つ名のある上忍に非礼を働いた自覚はあるが、これは一個人の恋愛問題だ。そうなると思い人も思われ人も基本的には対等の立場であり、誰彼と介入して良いことでもないだろう。上官としてイルカに命令してきた時点でそれは恋愛ではなくなることをカカシはよく知っているはずだ。そうでなかったらイルカを頻繁に誘い出すような遠回りのやり方を選んだりしない。
 カカシが理解しているものを周囲の人間が理解していない可能性というのも勿論考えられるが、恋愛ごとに疎いイルカでさえ考えつくことなのだから、思い至っていて当然だろう。
 ならば彼らは噂に基づいてイルカを無視し続けているわけではないということか。
「リリ…!」
 その時背後から聞き覚えのある名前が呼ばれてイルカははっと振り返る。そこにはあのイルカにタックルをしたあの女が椅子に座らせられてそれを囲むように二人の同僚の女性が立ったまま彼女を見下ろしている。
 まるで詰問しているような様子にイルカは尋常ではない空気をすぐに感じ取った。
「あんたの所為じゃないの? この前言いふらしていた噂。あれ、イルカ先生への中傷なんでしょう?」
「…違うわ。わたしはだって…」
 リリは二人の女性に完全に威圧されて語尾を小さくした。
 身から出た錆だと思う反面、見下ろす同僚の悪鬼のごとき形相にイルカは憐憫も覚えた。
「だって…なに? またはたけ上忍の口から聞いたって言うわけ?」
「なんで内勤中の内勤のあんたがはたけ上忍と口を利けるって言うのよ」
「そんな機会なんてどこにも無いんだから」
「そう、あたし達と実際に接触できる忍と言えば内勤の人間だけに限定されているはずでしょ」
 リリは何度か口を開きかけるがその度に怒濤のような先制攻撃を受け、萎れていく。
「はたけ上忍にもイルカ先生にも失礼よ」
「忍崩れのくせに」
 最後の一言は痛烈だったのか、リリはかっと目を見開きそして唇を噛んでうなだれた。
 こうした修羅場が本人の目の前で行われるはずがない。そっとイルカはその惨劇の場に近づいたが、彼女たち三人のうち誰一人としてイルカに視線を寄越さなかった。
 これは、もしかして。
 ふっと淀んだイルカの心に光が射すのを感じた。
 もしかして自分は本当に透明になってしまったのでないだろうか。いや、きっとそうに違いない。
 自分で自分の手のひらや胴体、脚なんかは見えるけれども、第三者には認識できないに違いない。
 とにかくイルカはその場で実験に実験を重ねた。
 イルカの皮膚が見えなくなったのは解るが、着ている服や持っているペンが他人の目にどう映るか謎だったのだ。
 それで解ったことは、皮膚に触れているものは大概透明になるようだ。つまりイルカが触ったものは透明になり、イルカの肌から離れると元の色を取り戻す。うっかり素手で大きなものをさわったら大変な事になるだろう。それだけではなくどうした現象でかは解らないけれどもある一定の物質ならば介しても透明になるようだ。イルカの着ている黒装束の上のジャケットは一切素肌に触れていないが透明になっている。
 同じく声も聞こえて居ないようだ。自分の耳には自分の声が届いているから変な感じだが、チョウジにデブと叫んでもきっと反応は無いだろう。
 鏡にも姿は映らないようだ。勿論イルカには鏡に反射した自分の姿は見えるが、手鏡を覗き込んだ女性職員の鏡を同様に顔を出しても気づかれなかった。
 覗きもしたい放題だし里も抜け放題だなあとぼんやり考えて、結局自分はどちらもしないだろうとすぐに思い至る。どちらにも興味がないのだ。
 自分を監視するものが居ないと思うと、イルカはそれだけで心が晴れるような気がした。
 誰も自分のことを気にしていないし、気にも留めない。自分は他の些事にとらわれず自分だけを大事に出来るのだ。
 なんて素晴らしいことだろうか!
 イルカはそう思うと晴れ晴れとした気持ちになって、早速早退した。そもそも出勤したことになっていないようだから最早何の問題もあるまい。
 いろいろ問題は出てくるだろうが、今はこの状況を楽しむことが優先だ。こんなに愉快なことはない。
 うきうきとした足取りも軽くイルカは茶の葉街道を練り歩いてみた。
 知人が多いその界隈でイルカは勿論、誰一人にも呼び止められなかった。その状況が寂しいと思うくらいなら、自分の姿が消えて喜んだりはしない。これから先の不安を思って嘆き悲しむだろう。
 しかしイルカの心は晴れている。
 しがらみから解放されると言うのはこういうことなのだなあ、と緩い日差しの太陽を見上げた。
 その時前方から聞き慣れた声が喧噪に混じるのを聞いた。視線をそちらに巡らせて目を凝らすと、その声の主達が確認できた。
 ナルト達第七班である。新米下忍の三人の後ろにはひっそりとカカシが控えているのが見て取れた。
 ああ、彼らにももう自分の姿は見えないのだろうなあ。
 としんみりと視線を送っていた。
 そのまま見送るつもりだった。
 相変わらずナルトは首席卒業のサスケに食ってかかっているようだ。端から見る限りそれに対抗するような形で諫めているのが紅一点のサクラ。宥めているのかサスケを取り合っているのか分かりゃしないとイルカは苦笑した。
 カカシはその三人の後ろを恥ずかしげも無く十八禁小説を読みながら附いている。子供達三人もこの状況に慣れてしまっているようだ。内容がどう言ったものにしろ、本を読みながら前を往く子供達に接触しないで歩けるのは流石だなあ、とそれだけは素直に感心する。
 一度イルカがこの光景を注意したことがあったが、カカシは気にも留めていないらしい。
 そのとき急にカカシが文庫から顔を上げてばっちりイルカの方に視線を寄越した。
 思わずイルカは自分の胸を押さえる。見えているはずがないのに、カカシはイルカに気が付いたかのようにそこに立ち止まってしまった。
「カカシせんせー?」
 数歩歩いたところでナルトがカカシの足が止まっていることに気が付いて振り返るが、カカシはそれに反応も返さずじっとイルカの方を見ている。眉を寄せて訝しげに見えていないはずのイルカの目を真っ直ぐに見つめてくる。
 勿論イルカは慌てたが、足が凍り付いてその場から離れることもできなかった。ただ動悸だけが激しくなって、そういえばこういった音というのが聞こえるのかは試してなかったと思うばかりだ。
「…イルカ先生?」
 カカシから発せられた言葉にイルカは口から心臓を吐くほどに驚いた。
 そして、カカシはあろう事か見えないはずのイルカはカカシの手に捉えられた。正しくはカカシが伸ばした指にかすめたイルカの黒装束に気が付き、方向修正して二の腕を掴んだのだった。
『ヒっ!』
 見えないからと高を括っていたのが仇になった。
 と、そう察知するには遅すぎた。
 カカシはイルカの手を探りあてるとそのまま何事も無かったかのように子供達に振り返り、歩き始める。
 見えては居ないが、イルカはカカシの手に手を繋がれたままだ。
『は、離せ! こんな公衆の面前で!』
 とイルカはカカシに怒鳴って手を剥がそうとしたが、カカシはその抵抗をものともしない上に声が届いては居ないようだった。
 そうして、公衆の面前でとも言ったが、すれ違う人も知り合いである店の主人も男同士で手を繋いでいることに何の関心も示さない。
 イルカが、見えるようになったという訳ではないのだ。
 カカシだけが、イルカを察知している。
 その事実を認識した途端にイルカは手を引くこの男に恐怖を感じた。
 カカシは、イルカを好きだと言った。
 この男には見えていなくても見えているのだと思うと、イルカの安寧はどこにも存在しないことになる。
「しっかしイルカせんせーどこに行っちゃったんだろうなあ」
 と、急に先頭を歩いていたナルトが後ろを振り返る。
『……!』
 やはりナルト達には見えていない。
「心配よねえ」
「……」
 サクラが眉を顰めて同意し、サスケは少し下を俯いた。
「そうだねえ、心配だねえ…」
 カカシは本から顔も上げずにそう言った。普段を装うためにイルカと繋いだ手はポケットの中に突っ込まれている。
 これでは冬季稀にみるバカップルの図を彷彿とさせる行為だ。
 こんなに堂々と人肌に触れる行為は両親が亡くなってから一度も体験していないイルカは、もうどうして良いのか分からずにただ、窮屈な中を大人しくされるがままになるしかなかった。
 慣れない行為と、もう一つイルカを大人しくさせた要因は三人の子供と一人の大人の会話だった。基本的にカカシとサスケは聞き役に回っていたが、ナルトとサクラは心配そうにいろいろな仮定をあげつらっては、子供であるのに眉間のしわを深くしている。
「もしかして他里の忍に連れて行かれたって事は無いかしら…」
「さ、さくらちゃん…!」
 サクラの意見にナルトは心底震え上がらんばかりの声を上げている。
「あり得ない事じゃない…」
「さ、サスケまで〜…!」
 それも仕方ないことだ。イルカがナルトを躾るときに『いい子にしてないと他里の忍がさらいに来るぞ』と脅したものだから、ムリもない。この年まで信じている純粋さにも喜びを感じる。
「カカシ先生、イルカ先生はさらわれていったのかなあ…?」
 そう言ってカカシを振り返るナルトの目は涙に潤んでいる。
 ここまで心配をかけているのか、とイルカはぼんやり溢れそうで堪えられているナルトの涙を見て思った。
 そうして初めて僅かな淋しさをイルカは感じた。
 イルカはナルトが生まれたばかりのころを知っている。自分の弟のような子供のような存在だ。
 その子を一人置いて自分は消えてしまっている。その子は必死に自分を捜してくれている。
 今のままではイルカの声も届かず、姿も見せることがかなわない。
 それは、寂しいことだな、と俯いた。
 そんなイルカの心境なんて知らないだろうに、カカシの手を握る力が少しだけ強くなった。イルカも、そっと握り返す。
 四人が向かったのは受付だった。
 そこで今日の任務の報告を済ませ、おのおの修行のため演習場に向かった。カカシは監督するだけのようで、やはりイルカの手を捉えたまま本を繰っている。器用なことだ。
 イルカは所在なく修行に励む子供達を眩しい思いで眺めた。
 当然の事ながらアカデミーに居た頃よりも実践的な筋肉もつき、子供特有のめざましい変貌を遂げていた。
 自分が幼かった頃には解らなかった変貌もこうして第三者になってみると初めて理解できる。子供は、沢山の可能性の塊だ。
 アカデミーに居る頃はナルトもサスケもどちらかというと猪突猛進タイプだったのが、今では頭を使って術を行使し、組み手の相手をいなそうとしている。サクラは全く逆のタイプだったが今では髪も服も汚れないことを第一として修行しているわけではないようだった。
 少しずつ忍に近づいていることをイルカは嬉しくなって眺めていた。
 未だに十八禁小説を読みふけっているカカシを見て、良い師に恵まれたな…と微妙な感想を抱いたのだった。
 変な所まで似なければ良いけれど。
 ふと、その時カカシが空を見上げた。
 そこには一羽の鳥が飛んでいる。
 それが上忍召集の伝令の鷹であることにイルカが気が付いたときには既にカカシは立ち上がって本を閉じていた。へとへとの子供達を召集すると、今までの注意を一人一人適切に与えていく。イルカがまずまず合格点だと思ったところや、見過ごして気づかなかった点まで指摘して、流石上忍の理想は高いなと感心した。
「それじゃあ、今日はこれで解散ね。また明日」
 そう言うとカカシはイルカの手を引いたまますたすたとどこかへと歩き始める。子供達は郊外の演習場に置き去りのままだ。
 演習場が見えなくなるとカカシの足は途端に速くなった。イルカは手を引かれているからついて行かざるを得ないのだが、その速さは引きずられそうなほどで、附いていくのがやっとだ。
 カカシはイルカの知らない抜け道を通り、人の往来の少ない道を急いだ。これだけ早く走れば、人――――特に一般人――――にぶつかった場合、相手が無傷では済まないだろう。カカシ一人ならば避けられそうなものだが、今は自分というお荷物を引きずっている状態だ。
 カカシと共にイルカも走りながら、木立や人を避けるのに専念した。何しろ、イルカは質量こそあるもののカカシ以外の誰にも見えない存在だから、相手に気をつけてもらえるはずもなかったからだ。
 いや、本当はカカシにも見えていないはずだった。
 なのに、しっかりカカシの手はイルカの手を握っている。
 本来ならばイルカの素手で触れたもの、皮膚に触れたものはことごとく見えなくなってしまうはずだったのに、カカシはそのままの姿を保っていた。
 不思議な人だ。
 イルカは上がる息をどうにか押さえ込みながら、そう考えた。
「イルカ先生、聞こえてますか?」
 走りながらカカシが問うてくる。風を切っている耳に静かな音は聞こえないはずなのに、その声はとても静かだった。
「話したくないなら喋らなくて良いです。それとも声も出せなくなったのかな」
 どうすれば解って貰えるか解らなくてただただイルカは腕を引かれるだけだ。
「あなたはこの三日間行方不明になっていました。どこで何をしていたのかを火影様の前で喋って貰います」
 その言葉にイルカは思わず従順に走っていた足を止めた。カカシもまさかこんなところで立ち止まられるとは思っていなかったのか、枯れ葉に足を取られ滑ってしまうような形で体勢を崩した。
『喋りたくてもしゃべれない場合はどうしたら良いんですか…っ』
 イルカは杉の木にもう片手で縋り付き聞こえてるはずがないと思いながらも必死に抵抗した。黙秘は反逆罪と見なされる可能性があることを知っていたからだ。カカシもだからこそこうしてわざわざ諫言をくれている。
「…イルカ先生。今更抵抗したって仕方ないでしょ…」
 カカシにはイルカの言葉は届いているわけがなかった。カカシは繋いだ手を煩わしそうに弄びながら、もう片方の手でがしがしと後頭部を掻いた。
「それともあなたはイルカ先生じゃない?」
 その言葉にイルカははっとする。
 そうだ、そもそもカカシが自分をイルカだと解ったこと自体が驚きなのだ。発見されたときにごく自然に名を呼ばれてしまったから疑問を抱いているとさえ思っていなかった。あの時他里の間者と思われて、その場で始末されていてもおかしくなかったのだ。
 そう思うとぶるりと身の毛がよだつ。
 カカシの英断に感謝しなくていけない。
 イルカは意を決してカカシの手首を掴むと、その手を自分の口に当てた。
『イルカです。海野イルカです』
 その唇の動きを理解したのか、カカシから緊張感が少し抜けた。
 何も言わずにもう片方の手をイルカに伸ばし、そっと頬に触れてくる。そのまま肌を辿り、ふと鼻梁を横切る傷に触れ、それを右から左へゆっくりなぞってから困ったように眉を寄せた。
 どうやら解ってくれたようだった。
「心配したんですよ」
『済みません』
「しゃべれないんですか?」
『自分では喋ってるつもりなんです。自分の耳で声も聞こえるんですが、他の方には届かないようです』
「自分の姿は見えるんですか?」
『はい』
 仕方なくイルカはカカシに今の自分の状況を分かる範囲でつまびらかにした。
 本当はこのまま逃げてしまいたかったのに、カカシに捉えられた時点でその夢はあっさりと瓦解してしまった。
「…どうしてそこまで自分で実験しておいて周りの人に報せようとは考えなかったの?」
 というカカシの言葉には何も言えなかった。
 きっと比較的親しいカカシもナルトも自分が消えてしまいたいと思っていたことなんて知らないだろう。イルカ以外の誰も知らないことだ。願いが叶ってのんびり出来ると思っているのに誰かに報せるなんてそんなことをするくらいなら、もともと透明になりたいと願ったりはしない。
「仕方ないです。取り敢えず火影様には報告しましょう。判断は三代目にお任せしましょう」
 異論は無いですねと念を押すカカシにイルカは、渋々頷いたのだった。
 さっきまでのように走り出すカカシの頬と耳が何故か少し赤らんでいるのを見て、肌寒くなったな、と思った。
 それから連れて行かれたところは当然の事ながら火影の屋敷だった
 見慣れた屋敷を見上げながらイルカが未だ整わない荒い息を吐いているのに、カカシは平然としてイルカの手を引いてずんずんと先に進んでしまう。
 こっそりとずるをしてカカシに引っ張って貰うが、彼は何も言わずにイルカの好きなようにさせてくれた。
「はたけカカシ参りました」
 火影の執務室の扉を側仕えの人間に開けて貰うとカカシはイルカの手を引いたまま中に入った。普通は呼ばれない限り入ってはいけないものなのに、カカシや一部の上忍には当然のことなのだろう、名乗りを上げるだけで通して貰える。
 ずんずんと進んでくるカカシに火影と先に居た数人の上忍と特別上忍が気づいて振り返る。
 人数はそう多いものではないとはいえそうそうたる顔ぶれに、イルカは思わず背筋を正してしまった。誰も見るものなど居ないのに。
「おお、カカシ。待っておったぞ。して、有力情報とは」
 その言葉にイルカは首を傾げた。
 もしかして自分が来て良いところでは無かったのじゃないかと思ったからだ。これだけの人材を動かす任務というのはそうそうない。イルカごとき一介の中忍が聞いていい内容のもので無いことが多いのだ。
「人払いをお願いできますか…」
 そのカカシの言葉にイルカは出ていこうとしたが、勿論カカシがその手を離すわけもなかった。今度はよほど警戒していたのか、カカシの腕はぴくりとも動かず、今度はイルカがさっきのカカシのように体勢を崩す番だった。
 先にいた忍達は火影に命じられる訳でもなく、カカシと三代目に頭を下げて出ていった。
 凄い図を見た気分でイルカは呆然とその様を見ていた。二人は当然のように彼らの敬意を受け入れている。頂点に立つことに慣れた者の立ち居振る舞いだ。
 あの戦忍達がこれまでの敬意を払う火影とはたけカカシという人物の実力の有り様を見た気がして、改めて尊敬の念を抱いたのだった。
「して…」
 とおもむろに火影がカカシを促す言葉に、イルカは身を固くした。ここから先を聞いてしまえば自分の命は危うくなるかもしれない。そもそも中忍ごときが聞いてはいけない話というのは聞いた後に命の保証はいたしかねるという内容のものだ。その情報を狙う人間に捕らえられて拷問されても口を割らない自信があるか、自害できる者、そもそも捕らえられない自信のある者しか聞いてはいけない話の筈だ。
 このままイルカが透明なら問題は無いだろうけど。
 と、イルカは一人上手に悶々と考えていたが、次のカカシの言葉に目をむく羽目になった。
「イルカ先生が見つかりました」
 どんな秘匿事項が口にされるかと思えばそんなことだった。
「本当か!」
 火影は当然のごとくその情報に食らいついている。
 て、事は何か。今までここにいた上忍達は皆、イルカを捜索するためだけに集められていたと言うことか。
 確かにカカシは火影の前で全てを語って貰うと言っていたが、まさかこんなに大事になっているとは思いもしなかった。きっと火影が大事にしたのだろうと、イルカは喜びのあまり取り乱す火影を見ながら苦笑した。
 三代目には十二分に可愛がって貰っている自覚があるだけに、イルカには少し息苦しいところがある。寵愛を一身に受ける者はいつだってそれなりに風当たりが強く、利用されやすいのだ。
 消えたいと願った要因の一つでもあるその老人は、それで、何処に、とカカシの言葉を促す。やはり火影にもイルカは見えていないのだ。
「ここに」
「来ておるのか! 早く呼ぶのじゃ」
「ですから火影様…」
 とカカシはイルカの手を握った手を差しだした。
「ここに」
「?」
 火影はぼけた老人の仕草でもってカカシが差しだした手の中を覗いた。イルカが小さくなったとでも思っているのだろうか。
「おらぬではないか」
「手を重ねてみてもらえますか」
 根気よくカカシが促すと、火影は半信半疑でカカシの手に手を重ねようとすると、その手は当然イルカの手の厚み分だけ浮かせて、某かの物体を確認して止まった。
「イルカ先生です」
「…どういうことじゃ…?」
 火影はイルカの手を辿り、カカシがしたようにかさかさの手で顔の傷を確認した。カカシはそれでも火影にイルカを引き渡そうとはせずにイルカの手指を捉えたままだ。
 こんなに人に触られる機会など今までなくて、イルカが思わず顔を顰めてしまったのが火影にも伝わったらしい。老人は少し驚いたような顔をして、それからしょぼくれて手を引いた。
「原因は分かりませんがどうやら透明になっているようですね。触っておわかり頂けたと思いますが、目に映らないだけのようです」
「術かのう?」
「おそらくは」
 ふむと、火影は呟いてカカシの報告を執務机に座りながら口を挟まずに聞いていた。
「して、カカシ。お主はどうやってイルカを発見したのじゃ?」
「以前岩隠れの忍と交戦した折りに似たような術を使われたことがあります。それは光の屈折を利用したものでした。写輪眼や白眼などの瞳術を用いれば見破ることは簡単です」
 その言葉にイルカは引っかかりを覚える。あの時カカシに写輪眼など使われた記憶がイルカには無かったからだ。しかし火影はそれで納得したようなのでカカシからの種明かしはない。
「今回も同じなのか?」
「あの術はおそらく他人にかけることは不可能だと思います。また非常に高等な術式を必要とするので、失礼ながらイルカ先生がこの術を使えるとは到底考えられません」
 失礼な、と思ったが、実際その術をイルカは知らなかったわけだし、原理を思いつきもしなかったのだから、使える使えない以前の問題だ。ある意味カカシの意見は当を得ているものだ。
「おそらくは別の術でしょう」
「……ここに医療忍術のスペシャリストが居たらのう…」
 と火影は真剣に悩んでいる。イルカは滅相もないと首を横に振ったが、二人に見えるはずもなかった。
「とにかくイルカ捜索隊は解散させよう。お主には金一封を出そう」
 懸賞金までかかっていたとは、イルカは呆れるより他無かった。きっと火影はこの場にイルカが居ることを既に失念しているに違いない。
「今後はどうするかのう…」
「…イルカ先生の世話をする人間が必要でしょう…。このままでは自活することもかないませんので」
「そうだな…」
 なんでカカシからそんな突飛な結論が出たのかイルカには解らなかったが、火影まで同意してしまっている。
『そんなもの要りません。煩わしいだけです。自分のことは自分で…!』
 しかし、そんな言葉はカカシと火影には届いていない。
「仕方ない。カカシ、お主がやってくれるか」
 と、世にも恐ろしいことを火影は言い出した。
 カカシはイルカに惚れていると言った恐ろしい人種なのに、これでは透明でも貞操の危機だ!
『嫌です! まだヒアシ様に介添えして貰った方が』
 イルカはカカシの手を引いて注意をこちらに向けさせようとするが、カカシはにこやかな顔を崩すことなくイルカの抵抗など気が付かない振りだ。
 ついには
「御意に」
 と澄ました様子で火影の命を受けてしまった。
 そんなもの要らない。それにカカシが働いている分の人件費は誰が出すのだ。イルカにはそんな財力があるわけがない。一般上忍の一日の人件費がおそらくはイルカの月給ほどもあるというのに、カカシなどのクラスになったらどんな額になるか解ったもんじゃない。
 カカシが退室を促されてその手に引きずられながら、絶対に金だけは払わない…払えないと心に呟いてイルカはがっくりとうなだれるしか無かった。



 連れて行かれたのはイルカの家だった。
「俺の家とイルカ先生の家とどっちが良い?」
 と聞かれて、自分の家を選択したからだ。人の家なんて考えただけで居心地が悪くなる。
 もうそのころになるととっぷりと日も暮れていて、イルカもカカシも空腹だった。何を勘違いしているのか解らないがカカシは家に向かう前にイルカを連れてスーパーに立ち寄り、大量の食材を買い込んだ。生鮮食品だけはイルカが何とか売場に戻さなかったら、今日明日は魚と肉ばかりの食事を覚悟しなければいけなかっただろう。帰ってきてからどうにかその食材を冷蔵庫に片づけたが、この様子では冷気が満遍なく庫内に行き渡るか不安な内容になった。
「夕食の支度をしましょうか」
 と、カカシが手っ甲を外したのに上げたのをイルカはカカシのジャケットを掴んでどうにか自分に注意を向けさせる。
「何?」
 イルカは嫌々カカシの手を取って唇に当てた。
『オレが作ります』
「作れるの?」
『バカにしないで下さい!』
「そうじゃなくて、透明にならないかな、料理が。色んなものが透明になったら困るんじゃないの?」
『…透明が伝染するとは思えないんですけど』
「まあ、用心して、ね」
 と結局カカシが台所に立ってしまった。
 カカシのことをあまりよく知らないけれど、カカシは相当浮かれているような気がする。イルカに逐一何が何処にあるのか訊ねながら、鼻歌混じりで夕食を作ってくれる様はどこか楽しげだ。つまらなさそうに従事しているのだったらイルカも丁寧にお引き取り願えたのに、これではそうもいかない。
 その様子を見ながらイルカは右手の開放感にしくじったなあとぼんやり考えた。
 行く先をカカシの家にしておけば、この隙に逃げられたのに。今イルカの手をとらえるものはない。そっと抜け出そうと思えばいかにカカシ相手でも抜け出せるはずだ。
 自分の家では逃げる先もない。そんな友人も好んで作らなかったのだ。
 そう言えばこの家に人を上げたのはカカシが最初だ。ナルトも家には行ったことがあるけれど、家に誘ったことはなかった。
 へんな感じだなあ。
 イルカはカカシの背中を眺めながら、そろそろと台所から漂ってくるいい匂いに鼻を蠢かせた。その香りに取り敢えずカカシを追い出すにしても自分が逃げ出すにしても、腹ごしらえをしてからだと、胸の裡に秘めてテレビを点けた。
 その途端にカカシがびっくりしてイルカを…正しくはテレビを振り返る。
「何かイルカ先生が居るって解ってるけど、変な感じ。勝手にテレビが点いたみたいだった」
 カカシは菜箸を持ったままイルカが座った食卓の前に腰を下ろして、すっと口布を下げて額宛を外した。
『!』
 今まで何度か食事を一緒にしたけれども見たことがない素顔が、惜しげもなくイルカの正面に晒された。カカシは平然としてその額宛をテーブルに置き、ジャケットを脱ぎ始めて、イルカの驚愕など気が付かないまま料理に戻ってしまった。
 イルカはぼんやりとその後ろ姿を見送ってしまう。
 男でもあんなきれいな顔をした人がいるんだなあ。
 カカシはイルカのことが好きだと言ったけれど、何もイルカでなくても他の女性も男性だってカカシがちょっと吹けば靡きそうではないか。恋愛のしようはいくらでもありそうなものだ。
 顔も良くて実力があって稼ぎが良い、おまけにそこそこ優しければそれこそ女は放っておかないだろう。だからこそ、リリのような女性がイルカにまで声を掛けてきた。
 テレビを眺めながらイルカはそんなことを色々考えた。
 もう一度見てみたいな。
 カカシの背中は、料理に熱中しているようだ。今は透明だから少しだけだったらカカシに気づかれないだろう。
 イルカはきしむ床を万全の心配りで体重をかけてゆっくり立ち上がり、忍び足でカカシの背後に回り、そっと覗き込む。
 今はみそ汁の具になるのか、まな板の上で薄揚げが短冊切りにされている。流石に刃物の扱いは得意なのか、慣れた手つきだ。
 カカシは夏も冬も同じように口布と額宛の斜め掛けをしているのに、全く日焼けの跡が解らなかった。日に焼けにくい質なのか、それとももう真っ白に戻ってしまったのか。髪と同じ色の睫は目立たないが横から見ると案外長くそのかんばせを華やかに見せた。左目の上に走る傷は頬まで達し、何より勿体ない。
 完璧よりはましだけど。
 まじまじと至近距離で観察するイルカは、すぐにカカシの頬が紅潮したのに気が付いた。
 カカシは暫くそのまま唇を真一文字に引き絞って、何かに耐えている様子だったが、ついに我慢できなくなったのかイルカから顔を背けて、耳まで真っ赤になる。
『どうしたんですか?』
 イルカは不思議に思ってその様子をつまびらかに観察し続けた。声を掛けたもの、聞こえないと解っているからだった。
「…イルカ先生…」
『はい』
 聞こえていないだろうけど、取り敢えず癖で返事をしてしまう。
「今、写輪眼が外に出てるんで、気配が殆ど分かるんですけど…」
 その言葉に、今度はイルカが動揺する番だった。
 背後の水屋に盛大に背中をぶつけて、上に載せていたざるが頭の上に落ちてくるのを避けることも出来なかった。
「だ、大丈夫ですか?」
 カカシはイルカに駆け寄り、迷わず手をさしのべて引き起こしてくれた。
『ありがとうございます』
 今度はイルカもまともにカカシの顔を見ることが出来ずに、俯いたままで呟いたが、写輪眼を用いてもなお唇の動きのような細やかな動きが解るわけではないのか、けがはありませんか、とイルカの言葉に応じることなく背中を触診してくる。
「大丈夫みたいですね。透明だとはいえ、きちんと質量は存在して居るんですから気をつけて下さいね」
 カカシは困った顔をしながらも幸せそうに頬を染めて、イルカの体を居間に向けて背中を少し押す。戻っていろと言う意思表示だと理解すると、イルカはすごすごとテレビがバカ騒ぎする空間に戻ったのだった。
 居たたまれない思いをした後にも関わらず、カカシの手料理は極度の空腹も相まって美味しかった。意外に時間がかかっただけある。イルカの早くて味がそこそこの料理と対極にある感じだ。
「何だか寂しいけど、嬉しいですねえ」
 食後のお茶を楽しみながらしんみりとカカシは呟いた。お茶を淹れたのも夕食の片づけもイルカがカカシを座らせておいて強行した。別に人の手が触れるのが嫌なのではなく、健康体なのに病人のように扱われるのが癪だっただけだ。
『なんのことですか?』
 何のことか解らずにイルカは大げさに首を傾げる。料理が出来るまでの時間に、カカシが写輪眼を晒している内は身振り手振りで意志を伝えられることが解ったからだ。要するに写輪眼といえども今のイルカのこの状態では表情を読みとる事は難しいと言うことだ。
「嬉しいっていうのは、あなたの家に上がれたこと。イルカ先生はけっこう周囲に壁を作ってるから、こうして入れてくれただけでも凄い進展」
 それはイルカもそう思う。カカシに敷居を跨がせるなんてつい昨日まで思ってもみなかったことで、まさに椿事に他ならない。
 だからといってイルカが心を許したからという理由でないことをカカシは理解していないようで、にこにこと上機嫌だった。
「寂しいっていうのは、折角イルカ先生と二人なのに姿が写輪眼を通さないと解らないこと」
 そんなものか、とイルカは小さく何度も頷いた。
 まあ自分にはカカシの姿も見えているし、自分の声も聞こえるからカカシがここに居ること以外は普段と同じだから、その感覚はよく分からない。
 他の誰もが見て見ぬ振り――――実際に見えて居ないのだが――――を通してくれるのに、カカシだけが存在に気が付くというのがどうにも居心地が悪いものであるのだが。
「早く元に戻ると良いですね」
 カカシは困ったような笑顔を崩さずにそう言った。
 その瞬間にイルカの身の毛がぞわっと逆立ったような気がした。
 何を言うのだ、この男は!
 と、一気に怒りが脳天まで迫り上がった。
『オレは元になんか戻りたくないんです!』
 聞こえて居るはずもないのに、イルカは大声でそう叫び怒りのまま仁王立ちに立ち上がった。
『あんたさえオレを見つけなきゃオレは理想を手に入れてすっごくしあわせだったのに、何を変なことを言ってるんですか! あんたがオレの幸せを壊したくせに!』
 カカシは何を言ってるのか解らないイルカをきょとんと見上げている。その無垢な視線がイルカの怒りを煽っている事実が分からないカカシは、多分イルカが怒っていることさえ気が付いていないだろう。
『オレは何も要らないんです。友人とか里とかも仕事とかも同僚とかも。本当にオレを必要としてくれる人なんて誰も居ないんだから…、利用しようとする人間しか居ないんだから、消えて無くなってしまった方がいいんですよ。なんであんたはそんなことも解らないんですか!』
 イルカは呆然とイルカを見上げたきりのカカシの腕を掴んで引きずった。
「え、え、なんですかイルカ先生」
 何故かカカシの目は期待に輝いている。勿論イルカの行き先は寝室の前経由玄関行きだ。手早くイルカはカカシの額宛とジャケットも拾い、それを見てようやくカカシがんん?と訝しげに眉を寄せたがもうそれも遅かった。
 イルカの素手に触れて、傍目に透明になった玄関を豪快に押し開くとイルカはぺぺっとカカシとその備品を放り出した。
『あなたなんか必要ないんです! オレは一人で生きていけます!』
 そう言い捨てるとイルカはカカシの返事を聞くことなく玄関の扉を閉めた。
「ちょっと、イルカ先生…!」
 ようやく事態を把握したカカシが扉の外で抗議の声を上げている。イルカは鍵を閉めてそれでも興奮が落ち着かずに扉に背を宛てて体重をかけた。これでカカシがどうにかして鍵を開けたとしても簡単には踏み込めないだろう。
「どうしたの、何に怒ったんですか?」
 カカシは鍵を開けようともせずに、ただ困惑した声でイルカの様子を伺っているようだ。どうせ何を言ってもカカシに言葉が届かないと解っているイルカはその時は応えなかった。自分の言葉と耳で確認してしまうと、惨めになりそうだったからだ。
 カカシはきっともう押し入ってこないだろう。イルカが受け入れるまで自分で敷居を跨ごうとはしないはずだ。そう思うとイルカはずるずると背中がずり落ちて、玄関の冷たいコンクリートに蹲ってしまった。
 折角イルカの願い通りに誰の目にも映らない体を手に入れたのに、これから自分を本当に大切にする人生を送るはずだったのに、一瞬でその夢も潰えた。泡沫に過ぎなかった。
 カカシが、全てを壊した。
 小さな子供のようにイルカはそこで膝を抱え込み丸くなった。
 ここは、寒いから。
 そう思いながらも何故か涙がこぼれるのが抑えきれずに、肩を震わせて、声もなくイルカは泣いた。
 誰にも聞かれないのに、無意識に声を殺したことはイルカは一生気が付かない。



 翌日も次の日もカカシはイルカの元には訪れなかった。
 ほっとしたけれども、これは任務放棄じゃないのかとちょっと苛立ったのも事実だ。
 イルカの仕事は暫く休みになっているようだ。何も知らずにイルカがアカデミーに行ったら、イルカの名前の横に長期休暇と赤々とした字で書かれていた。確かに透明な上に声も届かないとなれば誰とも連携が取れないから、仕事にはならない。
 それからイルカはアカデミーの帰りがけからずっと転職を考えているのだった。一人で出来る仕事。自分が透明でも問題ない仕事。
 案外暗殺専門の忍に戻っても良いかななんてことを考えたりもした。火影を含めた殆どの人間にはイルカの姿は気配さえ関知させない高等かつ複雑な術式だ。きっと音さえ立てなければイルカは一級品の暗殺者になれるだろう。
 しかしそんな他者を傷つけて平気でいられるようなイルカだったなら、そもそも消えたいなんて極消極的な理想を持つはずもなく、他の同僚を蹴落とすくらいの気概を持っていたことだろう。それにカカシという不安要素が残っている。カカシが何故あの時写輪眼を晒さずにイルカを発見できたのか解らないからには、イルカの遁甲術?は使い物にならない。
 色々考えてみるが良い案は思い浮かばずに、イルカの透明人間生活は自覚して五日目だった。
 そろそろカカシが買い置いてくれたものが尽きかけたから買い物にも行かないとなあとすっかり侘びしくなった冷蔵庫の中身を眺めながら思う。ついでに参考として転職雑誌を手に入れよう。ただ、これからどういった仕事が出来るか解らないから貯金は出来るだけ食いつぶさないようにしないと。
 両親の保険金と自分の貯金がいくら残っているからと頭の中で概算しながら、イルカは財布をひっつかむと真昼の里に繰り出した。
 里の中を歩くのは透明になってから少し不便になった。誰も透明なイルカを避けようとする概念が無いため、イルカは大概真っ直ぐに道を行くことが出来ない。時々犬や猫がじっと自分を見つめていることがあって、その様子を眺めると微笑ましくなる。彼ら鋭い直感力が取り柄の動物はイルカの存在に気が付いているのだ。きっとカカシが使役するという忍犬を差し向けられれば時をおかずに掴まるな、とイルカは実現するはずもない暗殺者案をまだまだ思考する。
 本屋に立ち寄り、無料配布されている求人情報誌を一冊手に取り、ついでに夕食のメニューの参考のために『男の休日料理』という雑誌を数分立ち読みしてからスーパーに向かった。
 イルカは透明の状態がずっと続くことを願っている。火影が書簡で著名な医療忍者を捜しているとしたためてきたが、まさに余計なお世話だ。イルカの希望だけでこの状態が続くのならばイルカの気が済むまで一生という不特定の長さだから、ここは一つ日持ちする量の多く安いものを選ぶに限る。
 保存食の王様はやっぱり缶詰だなとか考えながらイルカは鼻歌混じりで買い物かごを手に取った。
 ここまでは良かった。
 青果類から順々に物色をしながらイルカは一般主婦が通るコース通りにスーパーを練り歩く。南瓜やジャガイモ、タマネギなどを買い物かごに次々に入れていく。肉は油脂分と値段との折り合いをつけて鳥の胸身にした。  しわぶきが耳につきはじめたのはそのころだった。
 周囲が何故か騒がしくなってきたことに気づいていたが、イルカは構わずに乳製品の並ぶ界隈に足を踏み入れた。賞味期限の長い低脂肪乳を選んでかごに入れたところでイルカはようやく突き刺さるような視線を関知した。
 視線を巡らせると、何故か遠巻きに買い物に来ていた主婦達がイルカの方に不躾な視線を送っている。
 イルカは今透明の筈だから見えていないだろうに。
 その主婦の間を縫って二人の店員が人垣の中から姿を現し、女の方が恐慌の表情でもう一人の眼鏡の男に指を差して示した。
「て、店長アレです!」
 女が指さす方向は明らかにイルカだったけれども、人物を仮に指さすにしても少し下の方だとイルカは怪訝に思っただけだった。
 だって写輪眼も白眼も持たない彼らにイルカの姿が見えるわけがない。
 しかし、店長と呼ばれた男もまたイルカの方を見て、生唾を飲んだのが解った。
「ちょ、超常現象か…?」
 男は眼鏡を外して青いエプロンでレンズを拭いてもう一度イルカの方を見るが、その表情は苦くなるばかりだ。そして、一歩一歩イルカに近づきながらその表情をどんどん強ばらせていく。さっきまで姦しかった主婦連中は店長がイルカに近づいて行くにつれて押し黙っていった。
 何をする気なのだこの男は、とイルカが思った途端、男は何を考えているのかイルカの買い物かごをがっしりと掴んだ。
 …かと思うと、その途端にヒイっと情けない声を上げてそこから一歩大きく飛び退く。
「て、店長! 大丈夫ですか…っ!」
「か、カゴのような感触のものが…!」
 だってかごですから。
 イルカはさめざめとした目で混乱しかかっている男を見下ろした。
 なんだこのスーパーは。客を面白くもない喜劇に巻き込むイベントでもあったのだろうか。
「や、やっぱり忍者の方に頼みましょうよ! 野菜とかが宙に浮くなんて絶対術か何かですよ!」
 野菜が、宙に浮く?
 イルカの買い物かごを触っておいて?
 店長も店員もこのくだらないやりとりを見ていた主婦連中も恐怖に顔を引きつらせている。
 イルカの透明は、基本的にイルカ本体とイルカの素肌に触れているものを透明にする。どうやら生き物には無効らしく、人に触れても消えたりはしない。中には素肌に触れていなくても身につけているものは透明になったりする。
 しかし。
 イルカはふと自分の左手にぶら下がる買い物かごを見下ろした。
 素手で触っている買い物かごは、透明になっている。しかし、その中身は…南瓜やタマネギなんかは、おそらく透明になっていないのだろう。ここまで騒がれているのだとすれば!
 そこで一緒にイルカも恐慌に陥った。
 姿が見えて居なかったのだとしても、イルカの運んだ商品類の殆どが一般客には見えていたのだ。
 イルカは慌ててその場から走り出した。
 そして、一瞬立ち止まり、財布からお札を何枚か取り出すとそこに投げ捨てて家まで逃げ帰った。
 本来は通ってはいけないとされる人家の塀を走って、人の目が無いか周囲を確認して自分の家の鍵をかけるまで生きた心地がしなかった。
 手には、そのまま店内専用と書かれた黄色の買い物かごを持ってきてしまっている。それを視界に入れた途端にイルカは泣きたくなってしまった。
 どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
 さっきまで凄く楽しかったことが、次の瞬間には何もかも瓦解してしまう。何もかもが中途半端だ。
 声は聞こえない、瞳術に捉えられる、動物にも気づかれる、触ったものの途中までが透明。
 これじゃあ買い物に行ったのか盗みに入ったのか解らない。盗むつもりじゃなかったのだというつもりで金を置いてきたけれど、その意志も第三者にくみ取って貰えなければイルカの今日の行為は盗みに他ならない。
 もう何もする気も起きなくてイルカは、昼間なのに布団に身を投げ出した。買い物カゴの中の商品はそのまま玄関に放置したままだったが、盗んでしまったものだとおもうとなかなか冷蔵庫に入れる勇気が無く、初冬の玄関はそれなりに涼しいからと自分に言い聞かせて、視界の端にも入れないようにした。
 夕方になって腹は鳴ったけど、食事を摂る気にもならずに、俯せになったままこれからのことを真剣にイルカは思った。



「イルカ先生?」
 かすかなその声でイルカは目を覚ました。
 どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。部屋は真っ暗で、カーテンを引いてない窓の外ももう寒そうだった。
「イルカ先生、居ないの?」
 カカシだ。
『い、居ます!』
 イルカは飛び起きて慌てて玄関まで駆けつける。つい癖で点した玄関の明かりが眩しく、拍子に目を反らすと、スーパーの黄色いカゴが視界に入った。
 痛いものを突きつけられた気持ちになりながら、イルカはどうにか解錠して扉を開いた。
「こんばんわ、イルカ先生」
 カカシは額宛を取り払ってイルカににっこりと笑いかけてくれる。それを見た瞬間にイルカは耐えきれずにカカシに縋って泣いた。
「わっ」
 カカシはその衝撃に半歩下がったが、何とかイルカの体を支えると抱きかかえたまま、後ろ手に扉を閉めた。  雰囲気でイルカが泣いていることが解るのかカカシは、写輪眼でしか見えない背中を抱いて優しく撫でてくれた。
 感情が高ぶっているのが解る。自分は第一線で活躍している忍でないけれど、そういった忍になる子供達の基礎段階に携わるかぎり、こんな振る舞いは正しくないと思った。
 それでも感情の奔流はイルカの中では収まりきらずに、表面上に顕現してしまった。カカシの穏やかな笑顔にイルカの殻は破られてしまった。
 カカシの服は外気で冷たかったが、イルカの激情とカカシの体温ですぐに暖かくなり、イルカは安心して冷えた玄関先に座り込んで号泣した。
「…話は聞いていますよ」
 イルカが泣きやんだのを悟るとカカシは相変わらず、慈しむような手で背中を撫でながら、そっと秘密を囁くように告げられた。歌うようなその声にイルカは黙って耳を傾ける。
「買い物に行ったんですって? スーパーの店員が泡を食っていましたよ」
『忍の人間が呼ばれたんですか…?』
「怪現象が起きているって通報があったんです」
 オレが駆けつけたんですよ、とカカシは足が痺れて身動きのとれないイルカを立たせて、ひょいと黄色の買い物カゴを取り上げ、イルカの肩を抱いたまま居間へ向かった。
「ああ、これはイルカ先生のことだろうとぴんときました。ちゃんと謝っておきましたからもう大丈夫ですよ」
 波だった心にカカシの声色はまるで甘い薬のようで、カカシが言葉を発するたびにイルカの不安が少しずつ和らいでいくのを感じる。
 火影もカカシもこうなることを見越して世話係なるものを配置したに違いなく、それをその日に追い出したイルカは自分の行動を思い出して恥じるばかりだった。
「それにちゃんとお金を払っていったんだって? イルカ先生らしいなと思って笑っちゃった」
 これお釣りね、とカカシはポケットの中から封筒を取りだしてテーブルに置いた。
「どうせ、買いはしたものの手を着けられなくてお腹空いてるんでしょう? オレも食べてないから作って食べましょう」
 その言葉にイルカは素直に頷いた。その様子にカカシの方が嬉しそうに一度頷きかえすと買い物カゴの中を物色した。
 日持ちのしそうなものばかりだね、と呟いて、勝手知ったるとばかりに冷蔵庫の中と相談し始めた。
 長く使っても良いだろうと思って買ってきたものなのに、カカシは南瓜とジャガイモ、タマネギを選択して台所に立つ。 
 イルカはただカカシのする事をそばで見ていた。
 カカシはそれを感じていて、時々イルカにボウルを取ってとか、火を弱めてとか指示を出してくれる。調理器具やだいたいの食材の置き場はもう覚えてしまったようで、教えずともイルカでさえ一度しか使ったこと無いこし器を取りだしていた。
 カカシは、不思議だ。
 タマネギを泣きながら切っている上忍の横顔をぼんやり見つめながらイルカは思った。
 イルカはカカシにとって利用価値のない人間の筈だ。例え今回火影がイルカ可愛さに本当に懸賞金を出していたのだとしても、それを受け取ってしまえば用無しになるのは明白なのに、こうして冷たく締め出しをされても笑顔でイルカのご機嫌を伺いに来てくれる。
 外に食べにいくことが出来ないイルカに料理を作り、情緒不安定だと思えばそっとそばに寄り添ってくれる。行動の端々に、カカシから無償の優しさを感じた。
 イルカの事を好きだとカカシは言っていた。一度しか聞いていないけれど、カカシの今までの行動でその言葉が真実なのだとイルカにも解った。当然イルカのことを好いているからきっとここまで良くしてくれるのだろうが、その割にカカシはイルカに見返りを求めてこなかった。
 リリだって見返りを求めただろうに。
 カカシと酒席を共にして、その後好きだから付き合えとカカシに迫ったのだろう。それを断られ――――理由が理由なだけに――――イルカにタックルをかますほど激昂したリリの一連の行動は、好きになったから見返りにつき合えと言っているようなものだ。
 理論は滅茶苦茶のようだが、そう言う風にして男女関係が成り立つことも珍しくないことをイルカは知っている。カカシも勿論知っているだろうし、イルカに対してそう言う風に持ち込んでもおかしくなかったのに。
 もしかして。
 イルカはじっとカカシの端正な横顔を眺めていた。
 今回は気をつけて至近距離には寄らなかったし、写輪眼からは離れるようにカカシの右側からだ。
 もしかしてこの人は、イルカを必要としてくれているのかも知れない。
 今までの利用してくるだけの人間じゃなくて、ただ普通に人として生きるためだけに。
 そして、イルカも今この状態だとカカシが必要だ。イルカの場合は利用にしか過ぎないけれど、このまま透明で生きて行くにはイルカの存在を知覚してくれるカカシの協力が必要だ。
「あ、あれ? イルカ先生?」
 完全に写輪眼から死角に入っているイルカの姿を捜してカカシは周囲をきょろきょろと見回す。その姿は迷子の子供が母親の姿を捜す仕草に似ていた。
『ここです』
 イルカはカカシの右側から左側に後ろから回り、そっとカカシの腕に触れる。それを認識した途端にカカシは嬉しそうににっこりと笑った。
 その顔はまるで誉められたときのナルトのようだ。ナルトに限らず子供は嬉しいときにはこんな無邪気な笑顔を見せてくれる。
 カカシのことを知れば知るほど、自分も案外噂等によって先入観をもってカカシに接していたのだと分かり、反省の意識が生まれる。今はもう少しこの人のことが知りたいと思った。
「イルカ先生、明日は火影様の所に一緒に行きましょう。この病気を治さなきゃあなただって不便だって事が解ったはずです」
 その言葉にイルカは素直に頷くことが出来た。
「どうしたの、今日はいやに素直ですね」
『いつも素直じゃありませんでしたか…?』
 その声がカカシに届くわけがないと知っていたがイルカはついつい口に出してしまい、何故かカカシもその問いに対して「いつも斜に構えたところがあったから」と答えのような言葉をくれるから、会話のようになった。  そう言えばもう、この人と実のある言葉の交わしあいをしていない。
 目を見て話すカカシ。
 夜色の瞳に、イルカはその時、姿を映して欲しいと思った。
 だから、カカシのその料理に冷えた手を唇に押し宛てて、タマネギのつんとした臭いにも涙を我慢して呟いた。
『あなたの目に映るようになりたい』
 カカシはその途端に白い頬を紅潮させて、とても幸せそうな顔になる。その表情だけでイルカは満足だった。受け入れて貰えていることがありありと解る態度がこんなご馳走のようなものだとは今まで知らなかった。カカシが教えてくれた。
「いつだって見ていますよ」
 それは愛の言葉だ。
 あんまりカカシが真面目にそれでも幸福そうにそう言うから、イルカも笑い飛ばせなくてむずむずとした。何処までが本気なのか解らない。だけど。
「もう、消えて無くなりたいなんて、思わないで下さいね」
 その言葉にイルカは硬直して、カカシが何処まで自分を見ていたのか不安を抱かざるを得なかった。ぼんやりと、にこにこと笑ったままのカカシにつられて、頬が緩むのを抑えることが出来ないで居た。





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