幸福の存在
お祭りに誘われた、ある秋の日の話。
お祭りに行きませんか?
そう誘われ一も二もなく返事した。
デートだデートだと浮かれて一緒にお社の鳥居をくぐったところまでは良かった。
けれど人気者のあの人は通りすがる度に誰かに声を掛けられる。
それは生徒だったり元生徒だったり同僚だったり上司だったりそりゃあ様々だ。
そうして人気者のあの人は、その度に律儀に足を止めて受け答えをしている。
その度に、少し離れる、オレとイルカ先生の距離。
ちょっと離れた場所で話が終わるのを待って、追いついたイルカ先生とまた歩幅を合わせて歩き出す、その繰り返し。
人混みの中、夜店を覗きながらのんびりと。そう行きたいものだけれどもその度に、誰かが声を掛けてくる。
「イルカ先生ー!」
「あぁ、お前らか、今日はお神輿担ぐのか?」
また。また足が止まる。
はぐれたらいけないから、そう言おうと思いながら出しかけた手を何度もポケットの中に突っ込んで、恋人まで届かなかった手をポケットに入れたまま握りしめていた。
面白くない。
今日はデートなのに。せっかく2人で出かけてるのに。
お囃子の音と喧噪に紛れてもあの人をみんなが見つける。
面白くない。
そんな風に気安く呼び止めないで欲しい。
オレの、オレだけのモノなのだから。
オレの、イルカ先生なのだから、今日くらいは。
手を振って離れていく子供達を見送っているイルカ先生の後ろ姿を見て不意に思いついたこと。
迷うよりも先に手が動いていた。
気が付くとイルカ先生の手入れの良くない髪を留めているゴムを、するりと外してしまっていた。
ぱさりと乾いた音を立てて落ちたイルカ先生の髪からふわりと香るシャンプーの匂い。
しまった、そう思っても取ってしまった行動は取り返しがつくはずもなく、不審げな顔でイルカ先生が振り返るのをばつの悪い思いで眺めるしかなかった。
「何してんですか、カカシ先生。返して下さい、それ。」
そう言ってオレの手からいましがた外されたばかりのゴムを取り返そうとする。
返さないと。そう思っているはずなのに行動は心を裏切ってポイと人混みの中にゴムを捨ててしまっていた。
「カカシ先生!何するんですか!」
あらら。
怒らしてしまった。
怒らしてしまったけれど。
きっとこれで誰も気付かない。
私服姿で髪を下ろしたイルカ先生なんて、きっとオレ以外誰も気付かない。
繋げずにポケットの中で堅く握りしめていた手を弛める。
ブツブツと文句を言っていたイルカ先生はオレの顔を見るなり疲れた様な顔をした。
「あんたねぇ。何そんなに嬉しそうな顔してんですか。」
「何でそんなこと分かるんです?」
口布と額当てをしたいつもの格好なのに。
表情まで、分かるんですか?
イルカ先生は疲れた上に呆れたような表情を浮かべて、さも当然のように言う。
「分かんないはずないじゃないですか。あんたはオレのもんなんだから。」
いつから、こんな殺し文句を言うようになったのだろう。
ざわざわと立ち止まった2人の横を人並みが通り過ぎていく。
酷く抱きしめてしまいたい衝動に駆られて手も伸ばせずに立ちつくしていたら。
「カカシ先生?」
問いかけるようなイルカ先生の声。
「あー、すいません。ちょっと抱きしめたい衝動に駆られてまして。」
ポケットに入れた手を握り締めたり弛めたりしながら困ったようにもう片方の手で頬を掻く。
いつも、いつも、いつも。この人に敵ったことなど一度もないのだ。
それは、何という幸福。
イルカ先生は厚手の薄い色のジャケットに手を突っ込んだまま、零れるように笑った。
「抱きしめたらいいじゃないですか。オレはあんたの物なのに。」
そうしてオレを通り越して、先を歩く。
あぁ、どうしてこの人はいつもいつもいつも。
オレの欲しい言葉以上の言葉をくれるのか。
いとも容易く何でもないことのように。
「待って下さいよ、イルカ先生。」
慌てて追いかけて横に並んだ。
チラリと横目だけでオレを確認して、また笑う。
「そんな大きな声で名前を呼んだら、また誰かに掴まってしまいますよ。」
せっかくカモフラージュしたんでしょ?
そう言いながら、カラカラと笑う。さらりと肩を滑る髪。
何もかも、見透かされて。
あぁ、しようがないのか、オレはこの人の物なのだから。
そんな風に思うしかなくて。
幸せで幸せで、泣きたいような気持ちになる。
そうして黙ったままざわざわと人混みに紛れて歩く。
ふと思いついた疑問。
「そう言えばイルカ先生、どこに向かってるんですか?」
「あぁ、お社の所まで行ったら、新米で握ったおにぎりをくれるんですよ。それを貰いに。」
美味しいんですよ。喧噪に紛れてしまいそうなイルカ先生の声を聞きながらコトコトと2人で、お社までの短い参道を、歩く。
今度は誰にも邪魔されないで。
ひしめき合う夜店と、人々の群。
はぐれたらいけないから、手を、繋ぎませんか。
さっき飲み込んでしまった言葉を、もう一度言ってみようか。
そう思ってポケットから手を出した。
出した手は、何の言葉もないまま隣を歩くイルカ先生に握られてそっと近付く、距離。
「はぐれたら大変ですからね。」
そう言って。
オレはただ「そうですね」としか言えずに、きつくイルカ先生の手を握り返しのだった。
それは、染み通るほど幸せな、秋のお祭りの日の話。
fin
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