彼誰時
ふと目を覚ますと外はまだ薄暗くこういう時間を彼誰刻というのだと誰かが言っていたのを思いだした。
あぁ、夜が明けるのだと溜息を付く。
濃密な、何もかもを覆い尽くすその空気は朝の訪れと共に薄らいで彼をまたみんなのモノにしてしまうのだ。
ぼんやりと拡散している意識を戻せば寝ているとばかり思っていた傍らの情人と目が合う。
銀の髪は夜の闇を吸い込んで鈍く発光しているようだった。
「起きてたんですか?」
そう問えば。
「今起きたんです」
そう答える。
その顔は微笑んでいて、心の裡は読みとれない。
光源のない室内にあっても尚、その銀の髪は柔らかな光りを含んでいるようだった。
彼は、誰でしょう。
ふとそう思う。
彼誰刻とはよく言ったもので、これもまた心を惑わす時間なのだ。
薄暗い、夜でも朝でもない時間。
確かめるようにその頬に手を伸ばすとそっと手を握られる。
自分より、僅かに低い体温。
「そうだイルカ先生。折角起きたのだから花見でもしませんか?」
カカシの顔をした誰かは、そう言って笑った。
花見。
こんな時間に?
「こんな時間に?」
今度は声に出して、言ってみる。
こんなまだ、世も明け切らぬ早朝から?
言外にそう言って問い返せばカカシのようなその人はまた、笑った。
「悪くないでしょ?」
確かに、悪くはない。
そう、悪くはないのだ。
こんな風に、人の気配の薄いときは、あまりない。
世界が動くその前に、そっと時間をかすめ取ってしまうのも、悪くない。
「悪くないですね」
そう言って、笑ってみた。
目の前の人物と同じように。
いつの間にか低かったはずのその人の体温は自分のそれと区別が付かないほど混ざり合ってあたたかかった。
夜着をだらしなく纏っただけの格好で、肩から毛布を引っかけて薄暗い室内に座っている。
花見でもしましょうといった本人は酒の用意をして来ると台所へ姿を消してしまった。
ここからはまだ、何も見えない。
縁側に続くはずのこの部屋の窓も、今はまだ、障子に閉ざされたまま。
紙越しの光りは弱く、部屋全体がまだ暗い。
必要以上に鼻につく水の匂いに外は雨でも降っているらしいことがしれた。
彼誰刻。雨。桜のない、庭。
花見にまるで繋がらないキーワードを転がしてイルカはぼんやりと障子も開けずにそこに座っていた。
寒かった。
春とはいえどもまだ朝は寒い。
雨が降っているからなおさら寒いのか、湿気を含んだ冷たい空気は肩から掛けた毛布の間に簡単に忍び込んでいた。
「お待たせしました」
カカシもまた、夜着を羽織っただけの簡単な格好で見るからに寒そうに見える。
元々色素が薄いのだから、余計にそう見えるのか。
持ってきておいた毛布を渡すとそれを受け取りながらイルカの横に腰を下ろす。
手に持っていた盆には酒と簡単なつまみが乗っていた。
「さて」
そう言ってカカシは腕を伸ばし目前にある障子を開け放つ。
障子の向こうにある窓も、ついでに。
開け放たれた窓からは湿気の多い空気が流れ込んで部屋の温度を一気に下げる。
さああ、と音がしている。
さあさあと、雨が霧のように小さな音を立てて空気に溶け込んでいた。
けぶる景色は不意に時間の感覚をさらう。
今が朝なのか、夜なのか。
薄闇に包まれた霧雨のけぶる庭先に。モノクロのその世界の中に、たった一つ、紅い、色が灯る。
「あ」
飛び込んできた極彩色のそれに気が付いて、イルカは小さく声をあげた。
「今日の主役はアレですよ」
悪戯が成功したような声色のカカシを振り返ることもなくイルカはただ庭先にあるたった一つの色源に目を奪われていた。
桜だと、思っていたのだ。
花見をしましょう、そう言われて、何の疑問も抱かずに桜の花を愛でるのだと思っていた。
だが、そこにあるのは、椿だった。
常緑の葉は水分を含んで艶やかにその腕を伸ばし、そうして紅い紅い花を支える。
「潔さで言えば、桜よりもずっと潔い」
カカシが湯飲みに人肌に温めた酒を注いで渡してくれた。
雨のせいか、それとももう時期が悪いのか、花のほとんどは地に落ちてしまっている。
紅い敷布の中にすらりと立った常緑の木はそれでも尚鮮やかな花をその腕に抱いて。
ちびりと酒を含みながら、その美しい花に目を奪われる。
「綺麗ですね」
酒を含みながら思わず声が漏れた。
湿度の高い早朝、思いがけず誘われた風景はことのほか美しく、そしてその花は誰もが愛でる大木の花よりもずっと儚く、潔く、美しかった。
凛として、美しかった。
どちらも、何も言わなかった。
空になった湯飲みに酒を手酌で注ぎ足しながらぼんやりと、花に心を注ぐ。
花見といえばバカ騒ぎが必須で、今までこんなにも花を見たことがあっただろうかと、そう思う。
酒を飲んでもなお忍び込んでくる冷気にふるりと身を震わすとそっと肩を抱き寄せられその懐に抱き込まれる。
じんわりと分け与えられる体温にイルカは段々と酔いの回ってきた身体をそっと預けた。
「酔ったんですか、イルカ先生」
含んだような笑い声が耳のすぐ側でくぐもったような響きで聞こえる。
「酔ったんです」
酒に、花に、この、不思議な時間の狭間に、酔ってしまったんです。
あなたの体温に、酔うてしまっているのです。
カカシはまだ、花を愛でながら、酒を煽っていた。
片手に、イルカを抱いたまま。
イルカもまた少し酒を含む。
雨のせいで、夜がなかなか明けない。
いつまでも夜と朝の間に閉じこめられたまま、カカシの顔をした誰かと、酒を飲みながら死に際の美しい花を眺めていた。
それは、彼誰刻の静かな話。
fin
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