short


birthday


「イルカさん朝ですよー」
 ゆさりと体を揺すられる感触にイルカはぼんやりと意識を浮上させた。意識に潜り込んできたのは鳥の囀りと体を揺さぶる手の平の感触。イルカを揺り起こそうとしているのはカカシだと寝ぼけた頭で思った。珍しいこともあるものだ。イルカは重たい瞼を半分くらい持ち上げて、自分を呼ぶ声の方向へと視線を巡らせた。
「…カカシさん?」
 無意識に伸ばした手が温かい手のひらに捕らえられる。
「おはよー。そろそろ起きて」
 きゅ、と手の平を握られて、そうしてもう片方の手で前髪を掻き上げられた。瞼に映り込む日の光の眩しさに目を開けられないでいたら額に口づけを落とされた。
「はーやーく。ご飯出来てるよ」
 ぐい、と手を引かれ無理矢理布団から引きはがされる。カカシの言うように朝食の準備は整っているらしく、味噌汁のいい匂いが部屋の中に漂っていた。というか。
 まだ開ききらぬ目をこすりながら、イルカは引かれるがままに卓袱台の据えてある居間へと移動して思った。いったい何事だろう。はっきり言っていつもの光景と真逆である。
 寝汚いカカシをどうにか宥め賺して起こして朝食を食べさせるというのが本来の姿。朝はイルカもぎりぎりまで寝ていることが多いから、こんな風に味噌汁が食卓に上る朝飯も珍しい。いつもだったらパンとコーヒーとせいぜい付いてゆで卵か目玉焼きくらいだ。
 それなのに本日の卓袱台の上には焼き鮭、厚焼き卵、ほうれん草のおひたしに納豆と焼き海苔、そして昨日の夕飯の残りの煮物まで用意されていた。多分ご飯は炊きたてで味噌汁は具沢山なのだろう。
 未だ働きの鈍い頭をどうにか回転させていたとき、イルカははたと気がついた。今日は、休みだ。そしてイルカの誕生日である。わざわざ誕生日だからといって休みを取ったわけではなく、たまたま偶然今年は休日ににぶつかったのだ。カカシも急な任務を言いつけられることもなく無事休みであるらしい。
 休日の誕生日。早起きのカカシ。カカシが何か企んでいるのは明白だった。いったいなにを企んでいるのやら。
「お待たせ」
 テレビくらい点けたらいいのに。そう言いながらカカシはイルカの目の前に腰を下ろした。持ってきたお盆の上にはほかほかと湯気を立てるご飯と汁椀。ぼんやりとそれを眺めながらイルカは言われたように卓袱台の上のリモコンでテレビのスイッチを入れた。
 静かだった室内がとたんに賑やかしくなる。ブラウン管の向こうではちょうど天気予報が流れていた。今日は一日晴れるらしい。そうか、晴れか。誕生日に晴天だなんてちょっと気分がいいな、などとぼんやり思いながらふとテレビの右上に視線を向けたとき、イルカは大層驚いた。
「どうぞ、イルカさん」
 ことりと音がして目の前にご飯茶碗が置かれた。それはいい、別にそのこと自体に問題はない。問題があるのは現在の時刻だった。
「…カカシさん、オレの見間違いじゃなきゃ、まだ朝の六時になったばっかりのような気がするんですけど」
 続いて置かれた汁椀には具のたっぷり入った味噌汁。
「見間違いじゃないですよ。まだ六時過ぎたばっかりです。さ、そんなことより冷めないうちに食べちゃって」
 そんなことより?そんなことじゃないぞ全然!休日の朝ゆっくり寝られないだなんて大問題だ。大問題だが。食べ物に罪はない。目の前でほかほかと湯気を立てる朝餉はそりゃあもうイルカの食欲を刺激してくれている。カカシの言うとおり、冷めないうちに食べてそれから文句の一つも言うことにしよう。
「……いただきます」
「はいどうぞ」
 箸を手にとって手を合わせ、イルカは取りあえず汁椀を持ち上げてかき混ぜた。ふんわりと味噌の匂いが鼻腔を擽る。あぁなんていうか、幸せだなぁと思う。ふーと一拭き息を吹きかけ味噌汁をすする。じんわりと体に染み込む温もりに思わず笑みがこぼれた。幸せだ。心がほっこりと暖かい。汁椀を置き卵焼きを囓る。次に飯。炊きたての飯は口に頬張ると熱いくらいだった。
「相変わらず旨そうに飯食うねぇ」
 非の打ち所のない箸使いで焼き鮭の身を解していたカカシがそう言って笑う。再び味噌汁をすすっていたイルカは、少しだけ照れて顔を赤くした。
 旨そうに食えるのは一緒に食べる人間がいるからだ。好きな人が、側にいるからだ。カカシが側に。この特別な日をちゃんと一緒に過ごしてくれるからだ。カカシの笑顔が一番のご馳走なのだと朝っぱらから恥ずかしいことを思いついてしまって、イルカはそれを誤魔化すように飯をかき込んだ。
「慌てないでゆっくり食べなさいよ。おかわりもあるし」
 物をぱんぱんに詰め込んだ口をもごもごと動かしながら、イルカは照れ隠しのように大きく一度首を縦に振ったのだった。



「で、今日はいったいなにを企んでるんです?」
 食後のお茶をゆっくりとすすってイルカはおもむろに切り出した。食後のお茶は焙じ茶だった。じんわりと臓腑に染み込む熱さ。旨い朝飯にありつけた上旨い茶まで飲めているのだから、はっきりいってカカシがこの際なにを企んでいても構わないといえば構わないのだが、やはり気になる。
 卓袱台の上の空いた食器を重ねていたカカシはイルカの質問ににんまりと口角を上げた。
「ふふ、すごくいいこと。お茶飲んだら顔洗って着替えてね」
 折角早く起きたんだしね。そう言ってカカシはふふ、と今度は声を漏らして笑った。お茶をすするイルカをそのままに、食器を持って流し台の方へと歩いていく。
 早く起きたんだし、とカカシは言ったけれど正確には起きたのではなく起こされたのだ。鼻歌を歌いながら食器を洗うカカシの背中をぼんやりと眺めて、そうしてイルカも立ち上がった。
 少しだけ、わくわくする。カカシの企んでいることはなんだろうか。この誕生日という特別な日にカカシがイルカのために思いついたこと。
 洗面所で顔を洗い歯を磨いて、それから居間に戻ると入れ違いにカカシが洗面所へと向かった。
「オレが歯を磨いてる間にちゃんと着替えすませておいてよ」
 すれ違いざまにそんなことまで言われた。着替えろと言うからには多分どこかへ出かけるつもりなのだろうが。
「あ、イルカさん。動きやすい服にしてね」
 一度洗面所へ引っ込んだあとで、歯ブラシを手にしたままカカシがひょいと顔を覗かせてそう言った。いったい本当になにをするつもりなんだろうか。パジャマを脱ぎ捨てパーカーをタンスから引っ張り出す。カカシに貰ったパーカーだった。すごく肌触りがいい。使い込まれたそれを身にまとい、イルカはいつものように頭の高い位置で髪を一つに束ねた。差し込む日差しに少しだけ目を細めて、大きくのびをする。


 イルカの誕生日は、こんな風にして幕を開けたのだった。



   * * *



 そうしてイルカがカカシに連れられてやって来たのは、木の葉の里から山一つ越えたところにある農村だった。火の国の中でも木の葉と山を隔てて隣り合わせたこの辺りは非常に農業が盛んな土地である。小高い丘の上から臨む風景はちょうど田植えが終わったばかりの緑豊かな水田だった。
「これはなんというか…。見事ですねぇ」
 朝早いうちから歩いてきたお陰で、相当ゆっくり来たにもかかわらずまだ昼前だった。初夏の風が緑輝く水田を撫でるように通り過ぎていく。
「すごいでしょう」
 自慢げにカカシが言うだけのことはある。確かにすごい。見渡す限りの青い平原。疎らに建つ家々からはそろそろ昼飯の支度に取りかかっているのか、うっすらと煙が立ち上っていた。郷愁に駆られる風景だと思う。
「もう少し木陰に行きましょうか。もう結構日差しが強いねぇ」
 薄手のパーカー一枚だというのにうっすらと汗ばむような陽気だった。風が頬に心地よい。風に乗せて運ばれてくるのはさわやかな夏の兆しだ。春と夏のちょうど端境。八十八夜も田植えも過ぎた六月間近の休日。
 カカシとともに木陰に移動し、持ってきた布のシートを広げる。
「もうお昼にする?それともちょっと休む?」
 四隅を石で押さえたシートの上に腰をかけて空を眺めていたらカカシがそう言った。お昼ご飯はカカシの拵えてくれた弁当だ。昼にはまだ少し早いけれど、イルカは自らの腹を手のひらで押さえて、そうしてカカシににこりと笑いかけた。
「ご飯にしましょう。すごく腹減りました」
 イルカの言葉にカカシもにこりと笑う。
「オレもですよ。じゃあ弁当食いましょ」
 そうしてそう言いながらカカシは背負ってきたリュックから風呂敷に包まれた重箱を取り出した。続いて取り出されたポットを手渡される。イルカがお茶を注いでいる間にカカシが風呂敷を解き重箱をシートの上に並べた。重箱は三段で、漆塗りの立派な物だった。イルカの家にずっと長い間眠っていた重箱。両親が亡くなってから今日までずっと使われることなく仕舞い込まれていたそれをカカシが引っ張り出してきたのだった。
 懐かしい、と思う。この重箱を母が使っていた記憶は沢山ある訳じゃない。何か特別なお祝い事とかお正月とかそういう時にしか使われなかった。おせちの詰められていた重箱に、今日は色とりどりのおかずと握り飯がぎっしり詰められている。
「どうぞ」
 箸と取り皿を渡されてイルカは、いただきます、と手を合わせた。取り皿に卵焼きやら煮物やらを取りながら弁当の中身にイルカは驚いてた。手が込んでいるのだ。カカシはいつから起きてこの弁当を拵えてくれたのだろう。イルカが朝ご飯を食べたときすでに弁当は出来上がっていた。
「おむすびはね、この列が鮭で、こっちが梅ね。ここがおかか」
 取りあえずおかかのおむすびを皿に取り、イルカはぱくりとそれを囓った。器用なカカシが握ったきれいな三角のおむすび。口の中でほどける米粒。塩と、それから米の甘みが噛みしめるごとに口の中に広がる。美味しいなぁ、それが一番素直な感想だった。
 眼下に見下ろす景色は爽やかに美しく、空はうららかに晴れ渡っている。今日はイルカの生まれた日で、そうして隣にはカカシがいて、休日だ。こういうのを幸せと言うんだろうとイルカは思う。実際笑い出したくなるほど心が温かかった。
 うん、今日はすごくいい日だ。
「イルカさんあのね。そのおむすび、ここで穫れた米なんだよ」
 おむすびを頬張りながら不意にカカシがそう言った。
「え?そうなんですか?」
 イルカは半分ほど囓られた手元のおむすびに視線を落とした。別にそんなにすごいことを聞いた訳じゃないけれど、去年ここでこうして育っていた米が今こうしてイルカの口に入っているのだと思うとなんだか不思議な気分だった。
「うん、そうなの。実はね、ちょっと前の任務がここの田植えの手伝いだったんです。お駄賃代わりに去年の新米を分けてくれてね、そんでその人が教えてくれたんです」
「なにを?」
「この場所のこと。もう少し稲が育てばここから眺める景色は格別だって。よく晴れた日にこの米で握り飯でも握ってハイキングにおいでって」
 言われたのは子供達だったんですけど。そう言いながらカカシはおむすびをまた一口頬張った。イルカもそれに習っておむすびの残りを頬張る。
「そのときね、イルカさんの誕生日に来ようって思ったんです。今日がよく晴れててほんとに良かった」
 手に付いた米粒を舐め取ってカカシは笑った。本当に今日はよく晴れている。この上ない快晴の日。
「イルカさん、もう一回言ったけどお誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」
「…こちら、こそ、今日はほんとにありがとうございます」
 カカシの言葉にじんわりと胸が熱くなった。そうしてついでに顔まで赤くなってくる。臆面もないカカシの台詞は時折イルカをどうしていいのか分からなくさせるのだ。嬉しいけれどむず痒いような気持ち。誤魔化すように次のおむすびに手を伸ばす。一口囓ったところでカカシがぽつんとつぶやいた。
「こういう風景を見ているとつくづく自分がちっぽけだと思うんですよね。オレは優秀な忍びということになってるけど、何を生み出すこともないでしょう。人殺しに長けてるってだけでほんとは全然褒められるところなんてないのに。こんな風に旨い米を作ることの方がどれほど凄いことだろうかと思います」
 カカシは穏やかな顔で目の前に広がる景色を眺めていた。同じ忍びとしてカカシの言いたいことはよく分かった。分かったけれど。
「何も生み出さなくても、奪うだけの人生でも、今日この日をこの場所で、そうしてあなたの隣で迎えられたことが凄く幸せですよ」
 飯は旨いしひとまず平和だ。戦いの日々がまた始まろうとも、今日この日の平和を砕くものは何もない。
「…そうですね。オレもあなたとこうしていられて凄い幸せ」
 ふふ、とカカシが笑った。イルカもつられて笑う。二人の間に横たわるのは小さくて密度の高い幸せ。改めておむすびを囓れば、大切に育てられた優しい米の味がした。隣でカカシのおむすびを囓っている。そのカカシが、ふとイルカへと視線を向けた。
「帰りに温泉に寄りましょうね。少し遠回りになるけど」
 今思い出したように唐突にカカシがそう言った。カカシのその台詞にイルカは目を輝かせる。温泉は大好きだ。この位置で少し遠回りというと。
「少し遠回りっていうことは山代温泉ですか?」
 イルカの問いにカカシはおかしそうに笑った。
「そう、宿取ってあるから泊まって帰りましょ」
 さすがだね、とカカシは笑っている。さすが温泉マニア。笑うカカシは失礼千万だが山代温泉とは素晴らしい選択だ。
「はい!」
 元気よく頷いたイルカにカカシはまだ笑っていた。笑うカカシが可笑しくてイルカも笑ってしまう。

 晴れた空の高いところでぴーひょろろと鳶が鳴いた。人生は案外悪くない。イルカは甘い味付けの卵焼きを頬張って、込み上げる喜びを一緒に噛みしめてみたのだった。


fin


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